第1話 月と吸血鬼と王様と
月が柔らかに照らすバルコニーの欄干に、ぶらぶらと足を投げ出しながら一人の少女が座っている。銀色の光が照らす白い肌は幻想的で、一枚絵にはもってこいの光景だ。そんな景色を一人占めにする男が、一人。
「おい、そんなところに腰掛けるな。危険だ」
機嫌悪そうにそう言ったのは、ミスト王国国王、アルカデルト三世。
執務も終わり、これから眠ろうと思っていたところだったが、彼女がいたのでそれは後回しにしたのだ。機嫌が悪そうに見えるのはあくまで仕様であり、実際はそうではない。もともと誰が見ても憮然とした顔つきで、いつも誰かを疑っているように見える損な男だった。
「大丈夫さ。私はそう簡単には死なん。それに、私が死んだところで誰がかなしむ」
そう嘲るように投げやりに言う少女。
男は確かにそうかもしれないと思うと同時に、そう思っている自分と、そんなことを言う少女に腹を立てている自分に気づいた。
バルコニーに僅かにより、弁護するようにつぶやく。優しく、それでいて少し怒りながら。
「馬鹿な事を言うな。お前が死んだら、俺が悲しむ」
「相変わらず可愛いことを言うな、お前は。こんな小さいころから、変わらん。いつになったら国王らしくなる」
「俺はもう、国王だ……父上は、崩御なされた」
下を向いて言った男に、少女は欄干を降りて肩を叩いた。
「人はみんな、いずれ死ぬ。そんなにせつない顔をするな。食うぞ」
最後に付け加えられた一言に、男は身を引いた。他の誰が言っても冗談にしか聞こえないその台詞は、この少女が言うと洒落にならないからだ。
そんな男を見て、少女は寂しそうに言う。
「おいおい……私が許可を得ずにお前を食べるはずないだろう。そういう、契約なのだから」
人を食べる魔物。銀月と血の申し子。契約に縛られた魔人。
少女は、吸血鬼だった。
*
ミスト王国は長い歴史を誇る国家だ。フェンズ湖の畔に住んでいた金色の髪と水色の瞳を持つ少数民族がそもそもの起源だと伝わっているが、確かなことは分からない。いくつもの戦い、併合、そして侵略を続け、結果として大陸最大の国家を作り上げた歴史の勝者である。
ただ、どんなものにも盛衰はある。ミスト王国もまた、その例外に漏れず、何度となく滅亡の危機を迎えた。自らの力でそれを避け得た時代もあったが、ここ数百年はそのような過去の栄光も過ぎ、緩やかに衰退しているのが実情である。にもかかわらず、決定的な壊滅を免れてきたのは、契約があるからだと言われている。
つまり、魔人との契約。
人の国家に関わることのない魔人は、人の願いを受けてごく稀にだが力を貸すことがあるという。人間は魔国領土に入ることが出来ず、彼らの力を借りるためには類稀な運が必要だ。偶然彼らに出会い、偶然彼らと知り合い、偶然彼らに気に入られ、偶然彼らの助力を受ける。そんな奇跡のようなことが。
ミスト王国はそんな偶然を見事に勝ち取った国家の一つだった。
契約を結んだ魔人の名。
それは、クープラン。魔人クープランと言う。
*
小さいころから、不思議だと思っていた。なぜ、父王の後ろにいつも、幼い少女が控えているのかと。
父王を害しようとする者が父王に近付くと、行動に移る前に力尽きて死んでしまうのかと。
しばらく観察していて気付いたことは、少女は他の皆には見えていないと言うこと。そして父王はその存在を知っているが、少女の姿は見えていないと言うことである。
父王に聞いてみたことがある。
「あのお姉さんは、だれなの?」
そうすると、父王は目を見開いて言った。
「……見えるのか?」
どうやらあの少女は自分にしか見えないのだと確信した瞬間だった。
それから父王は様々な事を教えてくれた。
かつてあった契約、少女が魔人であると言うこと、初代が血を差し出したことによって王族の命を守ってもらっていると言うこと。
――そして、いずれ父王が少女に喰われるということ。
全てが信じ難く、周りの大人全員で自分をかついでいるのではないかと思った。
けれどそのことを確認することはできなかった。
なぜなら、父王は、彼女のことを誰にも話してはいけないと厳命したからだ。
当たり前のことだろう。
父王がいったことが真実であるのならば、それは国家最大の秘密だ。他国に漏らすことなどできないし、裏切りの危険を常に内包する家臣に言うこともできない。王族のみが知っていればいいこと。そして王族の中でも、王と王になる者のみが知っていることが望ましいことだ。
だから、いつまであの少女の冷たい瞳を見続けていることが国王になる者に課せられた宿命なのだと思った。
けれど、あるときふと気付いた。
聞けばいいのではないか、と。
少女自身に、君は誰なのかと。それについては、父は禁じていなかった。
そんなことをするとは予想もしていなかったのかもしれない。父には見えない存在なのだから。
しかし、自分には見えている。彼女が静かに玉座の後ろに佇んでいる姿が、常に見えている。
聞こう。
そう思ってからは、早かった。
父王が執務を終え、玉座から降りて寝室に向かう途中、それにしずしずとついていく彼女を呼び止めた。できるだけ、ひそひそ声で、誰にもそれが聞こえないように。
すると、少女は驚いて言った。
「……見えているのか」
どうやら、少女は自分が見られていることに気づいていなかったらしい。その事実に、少女の中には自分の知らない長い年月があるのだと何故か感じた。誰にも見られずに生きてきた長い年月が。
*
「じゃあ、契約をしたのは僕の15代前のご先祖様なの?」
「あぁ。あいつと会ったのは私がこの大陸をふらふら旅してた頃だ。山道を歩いていると魔物に襲われてぼろぼろの馬車があってな。そこで騎士数人と豪華な鎧を着た男が戦っていたよ。劣勢だったのは明らかだったから、助けに入ろうかどうか大分迷ったんだが、なんとなく面白そうだと思ってな。つい助けてしまった。今思えばそれが運の尽きだった」
彼女は意外と気さくだった。人知れず王族を守る魔人。そのイメージは、無口で凶悪な化物だった。なのに、そんなことはない。戦う姿は見たことがないし、初めて話しかけた時もただ驚いただけで特に何もしてこなかった。そもそも物ごころついたときから彼女を見つめ続けていたのだ。今さら、彼女を警戒しろと言うのが無理な話だった。
「それでどうしたの?」
「しばらくは一緒についていったりしていた。王様だと知ったときは驚いたが、それだけだ。私達にとって人間の身分などどうでもいい話だからな。ただ、ご貴族様は酷いのが多いと仲間たちから聞いていたのに、随分と変わった奴がいたものだと思ったよ。あいつは、豪快で、楽しくて、面白いやつだった。ドラゴンを単騎で倒しにいくと言い始めた時は本気で止めたな」
楽しそうに思い出話をするその姿は普通の少女のようで、可愛らしかった。これが魔人だとは、とても信じられないと思ったのを覚えている。
「ドラゴンか……いつか僕も倒したい!」
「やめとけやめとけ。というか、無理だな」
「どうしてさ」
「ドラゴンはもう絶滅した」
「え?」
「あいつが倒した一匹が、最後のドラゴンだった。まぁ、あんまり性質のいい生き物じゃなかったから、絶滅させても問題なかったんだがな」
彼女がしてくれる話はいつも冒険に満ちていて、楽しかった。彼女がふらりと部屋に来てくれて、そんな風にしてくれる話は、どこまでも夢に満ちていて、しあわせな時間だった。
*
ピカ、と曇天から黄色い光が地面に突き刺さる。雷だ。
「おいおい、そんなに怖がるな。あんなものを恐れていては王様になんてなれないぞ」
彼女は笑いながら窓際で本を読んでいる。誰にも認識されない彼女はだからといって何にも触れない訳ではない。ものに触れることは問題なく可能なのだ。だから暇なときはいつも本を読んでいる。
「だって……それに僕は、王様になんてなりたくない」
口を尖らせて言ったら、彼女は興味深そうに見て、本を閉じた。
「ほう。なぜだ。贅沢三昧ができるし誰もお前の言うことに逆らえない。好き勝手し放題だぞ。楽しいじゃないか」
「だって、クー。君を縛ったのは、王様なんだろう?」
「お前……」
その台詞は彼女にとって随分な衝撃だったらしい。一瞬、言葉につまったようだったが、すぐに立ち直って言った。
「それは半分だけ正しい」
「半分?」
「そうだ。私を縛ったのは、お前の先祖の王様だ。けれど、それを望んだのは私だ。だから別にお前が気に病むことはない……」
そう言って、彼女は頭を撫でてくれた。なんとなく、むずむずした。
彼女の存在は一体僕にとって何なのだろう。母親? 友達? 恋人? そのどれでもないと同時に、どれでもあってほしいと思うような、特殊な関係だった。
あえて言えば、彼女がいてくれれば、それだけで幸せな気分になれる。
そんな存在こそが、彼女だった。