広樹と雅也
家に帰る前に煙草を買った。広樹と雅也が好んでいる銘柄だった。団地の広場ーライターが落ちていた。拾って煙草に火を点けた。咳込んだ。もう一度吸った。咳込んだが、苦しさが薄れていた。
家に帰った。お袋に煙草臭いと怒鳴られた。うるせぇと怒鳴り返した。部屋に入った。ベッドの上ー頭を使った。
俺と広樹と雅也。そして遠藤。小学校から一緒だった。ガキの頃、広樹と雅也は仲が悪かった。お互いの口癖ー
「あいつは俺より弱いのに調子に乗ってるんだ」
健もそう思うだろう?口癖の後で、必ず広樹と雅也は俺に言った。俺はいつも曖昧に頷いていた。広樹と雅也は俺を取り合っていた
小学校五年の夏。
地元の河川敷で広樹と雅也が大きな決闘をした。敗者は勝者の下僕になる。ルールはそれだけだった。俺と遠藤が立ち会った。殴りあい、蹴りあう。ガキの喧嘩には見えなかった。広樹と雅也の喧嘩は、プロ同士の格闘技の試合の様に、動きに一切の無駄が無かった。ガキ特有のガムシャラさが無かった。遠藤は泣いた。
「二人を止めて」
俺に懇願した。
俺ー動けなかった。
広樹と雅也はお互いに口や鼻から血を流していた。目を腫らしていた。
広樹が雅也を殴る。
雅也が広樹を蹴った。
全くの互角。こいつらはお互いに死ぬまで殴り続ける。俺は本気でそう思った。
均衡を破ったのは広樹。短パンのポケットからカッターを取り出した。安っぽい刃。それでも刺せば血は流れる。広樹は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「どうする雅也?俺は刺すよ?知ってるだろう」
雅也が呆然とカッターを眺めた。その後笑った。
「嫌になるぜ広樹。考えてる事も一緒じゃねぇか」
雅也が短パンのポケットに手を突っ込む。カッター。安っぽい刃。
どちらか、あるいは両方死ぬ。俺は本気でそう思った。遠藤が口を押さえた。悲鳴。広樹と雅也が同時に遠藤に視線を移す。
「遠藤が叫ぶと、人が来ちゃうな」
広樹が言った。
「あぁ、それは不味いよな」
雅也が言った。
二人はお互いの視線を元に戻した。
「引き分けだな」
二人が言った。合図無しに、二人は同時にカッターを捨てた。何故か二人とも笑っていた。
遠藤に今日の事は一切他言無用と、広樹と雅也が釘を刺し、俺を含めた三人で家に送った。
その後、俺は再び広樹と雅也に河川敷へ連れていかれた。
「引き分けってのもつまんねぇよな」
雅也は俺を見ながら言った。
「そうだな。俺達はお互いを下僕にしようと闘った訳だからな」
広樹も俺に視線を移した。背筋に悪寒が走る。
「知ってるか雅也。健はよく、お前の悪口を俺に話してた」
俺は目を反らした。広樹は何を言っている?
「そりゃ奇遇だ。俺も広樹の悪口を健から聞いた事がある」
二人の視線が俺を追ってくる。夕焼けが二人の影を俺に被せるように投射した。動く事が出来なかった。
「健、お前意外と天邪鬼なんだな」
雅也が近付いてくる。痣だらけの顔。瞼に焼き付いて、今尚離れない悪鬼の顔。
雅也に続いて広樹。二人の悪鬼が俺に迫ってくる。
「雅也。勝負は引き分けだ。でも賞品は分けないか」
「お前の事は大っ嫌いだかよ広樹。考えてる事はいつも一緒だ」
広樹と雅也。目を合わせた。笑った。
逃げろ。
ガキなりの防衛本能が俺の頭の中に響いた。背を向け、走り出そうとした。無駄だった。雅也に髪の毛を捕まれ、そのまま引き倒される。仰向け。頬に痛み。雅也の拳がめり込んだ。
「どこ行くんだよ健?」
鼻に衝撃。鼻水がとめどなく溢れた。勘違いした。鼻血だった。
「健、今日からお前、俺達の下僕だ」
雅也が俺の体に跨った。もがいた。痛みが加わるだけだった。もがくのを止めた。
「奴隷には、印が必要だろう、雅也」
側に立っていた広樹。俺達から離れ、地面を探りだした。何かを拾った。
安物の刃ー。
恐怖が体中で暴れた。叫んだ。雅也に殴られ、口を塞がれた。鼻血のせいで息が出来ない。苦しい。しかし、そんな事はどうでもよかった。俺の意識は広樹の持つ安物の刃にしか反応していなかった。
「雅也、健の腹を出してくれ」
「お前の言う事なんか聞きたかねぇが、それは俺も賛成だ」
雅也が俺のシャツをめくる。裸の腹が空気に触れた。恐怖が倍増した。
「いい子だから静かにしなよ健。動くと痛い」
広樹は笑ってさえいなかった。
「これから、お前に印をつける。俺と雅也の下僕の印だ。友達だった健とは、今日でお別れだよ」
腹に痛み。屈辱も恥辱も無かった。俺はカッターで腹を裂かれても、広樹と雅也を呪う事すら出来なかった。恐怖だけが、この時、体中を蛇のように這いずり回っていたー。




