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短編

ムラサキコウシ

作者: awasiki

知らない人が家の中にいる。

彼等は訳の分からない言葉を吐き、見慣れた漆喰の壁は白黒に彩られる。母親は黒の着物なんか着て、いつからここは異世界になってしまったのだろう。

家先に唐墨で「紫木」と書かれえた立て看板があるのだから、ここは私の家で間違いないはずだ。

カナコチャンモタイヘンナコトニナッタネェ

一人の老婆が私に話しかける。一体何を言っているのだろう。なぜそんな憐れむような視線を向けるのだろう。






三日前、父の通夜の時、私、紫木可奈子はそれは酷い有り様だったそうだ。

その時は記憶も一切ないので、人伝に聞いた話だが、目は虚ろ、口は半開き。何を言っても返事もしないし、何一つ反応しない。かといって抵抗する訳でもないから作業の邪魔にはならない。まさしく只の人形の様だったそうで、弔問客や母親には随分と心配をかけた。

三日たって気持ちも落ち着き、まだ父の死んだことが実感できていない事も働いてか、私はいつも通りセーラー服を纏いごく普通に学校へ行くことが出来ている。

しかし、まだ母親には随分な心配をかけている。

帰ってないのだ。家に。

門限なんてとっくに過ぎている。けれども私は家に帰っていない。

今日の、正しくは昨日の朝、学校に登校してから家に帰っていない。

正しくは帰れない。家の中まで行っても中に入れないのだ。

あの、紫色の仔牛のせいで。





その日、憂鬱とまでは言えないが、あまり気分も乗らずに学校へ行き、帰ってきた。

学校では気が楽だった。友達は父のことなんて知らないから話題にも上がらないし、いつも通り周りに振り回され、馬鹿ばかりして何も考えずにいられた。

逆に家に帰るのに気後れした。家の中では静かで何かを考えさせられ、そしてなにより死臭がするのだ。

線香の、末香の、遺灰の、喪服の臭いがするのだ。

その匂いがどうしても好きになれず、家に帰るのに気が進まない。

そんな私を出迎えたのが、紫色の仔牛だった。

牛。紫色の仔牛である。

ペンキに漬けられたかの様に全身を紫に彩られた牛。私の腰くらいの高さしかないので、おそらく仔牛なのだろうが、存在感はかくやというものがある。

そんな紫仔牛が我が家の門の前にいるのだ。漆喰の壁に挟まれる人と自転車くらいしか通れない決して広くない門に牛が鎮座している。

異様な光景である。私は母親にこの牛についての納得できる説明をしてもらうか、さもなくば保健所に電話しようと心に決め、牛の真横をすり抜けようとした。しかし丁度その時、牛は一歩横へずれ私の行く手を遮った。

間が悪い。

私は再び一歩横へ、今度は逆方向へ移動し、さっさと逆側の脇を抜けようと一歩を踏み出す。しかし私の正面には再び牛の顔がある。

まただ。

仕方なしに私は逆の逆、始めに通ろうとした側を通過しようとするが、三度眼前には牛がいる。

右、牛、左、牛、右、牛。

五回目にしてようやく、私は牛が通せん坊をしている事を悟った。

右に行けば私を遮り、左に行けば私を妨げる。左右を交互に入れ替えれば牛はその速さに追い付いてくる。

私が押そうとすれば押し返し、私が引こうとすれば引き返す。飛び越えようとすれば後足2本で立ち上がり、家の塀を乗り越えようとすれば先回りする。

さらに肩で息を切らすまで私が全力で動いても、牛は疲れた様子を毛ほども見せずに平然としているのである。

携帯は持っていないし、チャイムは塀の中。人通りもないから人を呼ぼうにも呼べず、中に入る術もない。

でも時間が経てばすぐ牛もどこかへいってくれるだろう。そう思い、私は家から離れたのだ。






それから約9時間。日付が変わろうとも、牛の居場所は変わらなかった。

学校、ファミレス、本屋、、コンビニを経由して家に帰ってきても、紫仔牛はまだ門に鎮座し続けていた。

家に入ろうとも、このままでは入れそうにない。若干の苛立ちを覚えつつも私は再び徘徊を始めた。

そうはいってもこの時間、お世辞にも都会とは呼べないこの町には深夜営業の店はない。人通りが少ないがゆえ補導をされる心配はないが、流石に路上で夜を明かす気はない。

さてどこへ行ったものか。考え事をしながら足を動かし、考えもなしに歩んでいたのは随分と懐かしい道だった。

最後に来たのは幼稚園の時か。幼児の遊び場と言えばこの先にある公園で、よく父に連れてこられたものだ。

電信柱がやけに目立つ人通りも車通りも少ない道路。よく父と手をつなぎ、時には父の背中で眠って帰った道。

しかし、小学校に入りその公園とは遠のいた。距離を置く切っ掛けとなった具体的な理由は憶えていないが、小学生ではその公園に満足できなくなったからだった気がする。

確かに小学生でももう満足できないだろう。私は胸ほどの高さしかない滑り台に触れながら思う。当時はこれが山の様に大きく感じた。それを易々と超える父はさながら巨人だ。

夜半、蛍光明の明かりが微かに照らす園内を見渡す。誰もいない園内は昔と寸分も変わりない。

鞦韆。幼稚園では全く漕げず、父と特訓した覚えがある。

広場。父にかけっこの走り方を教わり、運動会で大活躍だった。

坂道。約束を破って父が手を離し、自転車から転げ落ちた事もあった。

砂場。大人げない父は、本格的な砂の城を作る事を私より楽しんでいた。

思えば、この公園に来る時はいつも父の姿があった気がする。

少し強い夜風が吹いた。冷気をはらんだ風は砂場の砂を巻き上げ、父の幻影を掻き消した。

そこでようやく夜の寒さを実感する。寒くなってきた公園の中にただ私だけがいる。

ふと両目の奥が熱くなる。喉が勝手に震え、開いた口から声ともつかない音が出る。手で拭っても抑えられない。足元は数滴づつ地面の色が変えていく。

もう、父は死んでしまったんだ・・・

父が死んでから初めて、私は泣いた。






ひとしきり泣いた後、私は家に帰った。途中、私の邪魔になる様な事は何一つ起こらなかった。

玄関を開けると、電話の前で座っていた母が涙し、私へ飛び突いてきた。

どこに行ってたの。心配してたんだよ。

涙声で訴える母の頭を撫でながら、私は心配する母に声をかける。一番父の死に悲しんでいたのも、一番不安で心配していたのも母なのだ。

ごめんなさい。でも、もう、

「大丈夫」

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