第37話 笑う神の手触り――ロキによる個別神罰・第一相――
王都アルセリアの昼は、朝よりもむしろ息苦しかった。朝は誰もが「今日が昨日の延長である」と自分に言い聞かせる余地があるが、昼は否応なく現実の摩擦が表に出る。市場の喧噪は戻りきらず、戻りきらない喧噪の隙間から、乾いた沈黙が顔を覗かせる。荷車の車輪が石畳の継ぎ目に落ちて跳ねる音が、必要以上に耳に刺さるのは、街そのものが神経を尖らせているからだ。焼いたパンの匂い、魚の臓物の匂い、汗と馬糞の匂いに混じって、最近は紙とインクの匂いが強い。誰かが書類を増やしている。誰かが言葉を増やしている。言葉を増やせば安全だと信じる者が増え、その結果、街はますます「書かれたもの」に支配される。
兵の巡回は確かにある。甲冑の擦れる音も、鞘が腰に当たって鳴る鈍い響きもある。だが兵の足音は、以前のように堂々としていない。兵は民を見張っているのではなく、民が兵をどう見ているかを測っている。民は兵を恐れているのではなく、兵が恐れているものを恐れている。恐怖が層になり、重なり合い、誰もが自分の恐怖の輪郭を説明できないまま、ただ身体を硬くして歩く。硬くした身体は疲れる。疲れた身体は判断を誤る。誤った判断は、誰かの死につながるかもしれないという連想が、喉の奥を乾かしていく。
王宮の窓辺に立つ紬も、同じ空気の変質を感じ取っていた。紬は女性だ。刺殺された日本の大学院生として生きていた頃から、彼女は環境の情報を拾い上げ、頭の中で整理し、次の一手を組み立てる癖が身についている。その癖は「賢さ」ではなく「生存」だった。視線を向けられる理由、言葉が発せられる理由、沈黙が生まれる理由を読み違えれば、大学の廊下でも社会でも人は容易に傷つく。まして今は、国家が割れ、命令が偽装され、神々が神罰を現実として滑り込ませる世界だ。読み違えは、傷では済まない。
紬はメアリーの肉体と同じ器にいる。器の中には二つの意識が同居しているが、融合ではない。同調律だ。互いの理解が互いへ落ちる。互いの感覚が互いへ染み込む。だが意思決定が一つに溶け合うわけではない。紬が「語れる側」であり続け、メアリーが「理解する側」で沈黙を強いられ続ける構造は、利点と欠点を同時に抱えたまま、日に日に歪みを増していく。
メアリーは、ロキの言葉を音として聞けない。だが意味として受け取ってしまう。意味を受け取れば、理解が増える。理解が増えれば、沈黙が重くなる。沈黙が重くなれば、身体が反応し始める。息が浅くなる。指先が冷える。口の中が乾く。泣きたくなるのではない。叫びたくなるのでもない。ただ、言えないことが「言えないまま積み上がる」ことそのものが、内側から骨格を軋ませる。紬はそれを同調律として感じ取る。メアリーの痛みは、器の内側の圧力として紬の胸にも届く。紬は自分だけが耐えればいいとは言えない。自分が語るほど、メアリーは理解し、沈黙はさらに痛くなるからだ。
それでも紬は、語る側に立つしかない。語らなければ王都が壊れる。壊れればクラリスが傷つく。傷つけばメアリーが崩れる。崩れればこの器の均衡は破綻する。破綻が何を呼ぶかは、紬がもっとも知りたくない未来だった。
そのとき、紬の内側に、またしても「圧」が差し込んだ。眩暈ではない。視界が揺れるわけでもない。身体の調子が悪いのではない。にもかかわらず、思考の中心がわずかにずれる。ずれは一瞬で、しかし絶対に自分の意思では起きない種類のずれだった。紬はそのずれを、死の記憶と結びつけた。刺された瞬間、音が遅れ、痛みが遅れ、世界が遠ざかった。あの「剥がされる感覚」とは違うが、同じ種類の不可逆さがある。これは拒否できない接続であり、接続が成立した時点で、相手が誰かを当てる意味しか残らない。
紬は即座に断定した。ロキだ、と。
言葉は耳に届かない。だが意味は、思考の中枢に直接届く。軽い。ふざけているようで、底に残酷がある。残酷の中に好奇心がある。好奇心の中に「壊れるまで見たい」という愉悦が張り付いている。紬が十九柱の中で最も厄介だと感じていたのは、この神が「罰を罰として与えない」点だった。雷で焼けば、火で斬れば、苦しみは分かりやすい。分かりやすい苦しみには対処の形がある。だがロキは、人の認知を歪ませ、判断の基盤を崩し、「自分で自分を壊している」と思わせる。自分の手で壊していると思えば、救いを求める先が消える。救いを求める先が消えれば、人は孤立する。孤立は死より遅く、死より深い。
『ねえ、紬。王都の匂い、面白いよ。みんなが自分の正しさを守りたいって必死なのに、その必死さが正しさを食い潰してる』
紬はすぐに返さなかった。返す前に、返すことがどこへ落ちるかを確認した。返せばメアリーが理解する。理解すれば沈黙が痛む。痛めばメアリーの呼吸が浅くなる。浅くなった呼吸は紬の胸にも影響する。器は一つだからだ。紬は自分の身体反応を制御し、喉の乾きを飲み込み、唇の裏の微かな震えを抑えた。恐怖の反応が出れば言葉は短くなる。短い言葉は誤解を生む。誤解が生めば、誰かが死ぬ。
ロキはその一拍の間を嗅ぎ取るように、言葉を重ねてきた。重ね方が巧妙だった。紬を追い詰めるためではなく、紬が自ら口を開くように誘導する。
『王女も分かってるよね。分かってるのに黙ってるのって、可哀想だよね。君だけが聞こえて、君だけが返せる。ほら、すごく“役割”っぽい』
メアリーの指先が小さく震え、指の関節が白くなった。メアリーは声を出せないわけではない。政治的に出せない。出せば、発言として記録され、解釈され、利用される。利用されれば血が増える。血が増えれば、王女が責められる。責められれば、王女側の均衡が崩れる。崩れれば反乱指導層が笑う。笑うのは反乱指導層だけではない。ロキも笑う。誰かが破綻する瞬間を、神は甘い果実のように味わう。
紬は怒りを感じた。だが怒りの形は単純ではない。ロキの言葉がメアリーを刺していることへの怒りと、メアリーを刺す言葉を自分が受け取ってしまう構造への怒りと、さらには「怒りに飲まれればロキが望む反応をしてしまう」という自分への抑制が、同時に渦巻く。渦巻く感情は、言葉の選択を難しくする。紬は感情を押し殺すのではなく、感情がどこから来ているかを分解した。怒りは、守るべき者を守れない無力感から来る。無力感は、判断の余地が奪われる恐怖から来る。恐怖は、王都が次の血へ進みつつある事実から来る。紬はその因果を自分の内側で組み直し、言葉の骨格を作ろうとした。
『ねえ、紬。君はどうする?』
問いは短い。だが紬には、問いが短いほど背後に膨大な条件が隠れていることが分かる。どうする、とは何か。王都の命令空白に楔を打つのか。神罰の連鎖に介入するのか。メアリーの沈黙を守るのか。クラリスを守るのか。国を守るのか。器の均衡を守るのか。どれか一つを選べば、別の何かを削る。削ることを知ったうえで選ぶことは、刃を握るのと同じだ。握れば血が出る。出る血が自分のものか、誰かのものかは、その時点では分からない。
紬は窓の外の王都を見た。見たというより、王都が放つ「判断の匂い」を嗅いだ。市場で声を張ることができない商人が、値段を言い換え、客の目を見ないようにしながら、しかし必死に売ろうとする気配。兵が巡回の角を曲がる前に、仲間の表情を一瞬だけ確かめる目配せ。役人が帳簿を抱えて廊下を急ぎ足で通り過ぎる時、紙束を胸の前に強く抱きしめる仕草。抱きしめるのは紙ではない。責任を抱えているのだ。抱えている責任を誰かへ押し付けたいのだ。押し付けたいことを自覚すると罪悪感が生まれる。罪悪感が生まれると正当化が必要になる。正当化の言葉を作る者が増えれば、言葉は武器になる。
紬は、その武器がどこへ向くかを理解していた。武器は弱い者へ向く。弱い者とは、声が小さい者であり、立場が低い者であり、弁明の機会を持たない者だ。そういう者を守るために行政があるはずなのに、行政が恐怖で萎縮すれば、守るはずの機構が刃になる。刃になった機構は、最も効率よく人を傷つける。ロキはそこを愛している。人が「正しくあろう」とするほど、正しさが他者を切り刻む瞬間を、彼は面白がる。
紬は一度、息を深く吸った。吸う行為に意味を持たせた。意味を持たせれば、呼吸は自分のものに戻る。自分のものに戻れば、言葉は短くならない。短くならなければ、読者に察しろの文章にならない。紬は自分の言葉が短くなることが、王都の誰かの死につながる可能性を、ありありと感じ取っていた。だから彼女は息を整えた。
そして、紬はロキに返す言葉を準備した。準備には手順がある。第一に、ロキが欲しがっている「感情反応」を渡さない。第二に、メアリーの沈黙を傷にしない。第三に、王都の空気を乱さない。第四に、紬自身の立ち位置を守る。立ち位置とは、万能感の誇示ではない。万能感の根拠を読者が理解できる形で示すことだ。加護は万能だと最初に定めた。ならば、万能は「なぜ万能か」を語る必要がある。語らなければ万能はただの都合になる。都合は陳腐になる。陳腐になれば読者が離れる。
紬が言葉を発する寸前、ロキは急に話題を変えた。変えることで紬の準備を崩すのだ。崩れれば短文が出る。短文が出れば誤解が出る。誤解が出れば血が出る。ロキの狙いは一貫している。
『ねえ、紬。君に見せたいものがある。王都じゃないよ。君が守ろうとしてる“王都の論理”が、どれだけ滑稽か分かる場所』
圧が増した。視界が歪むわけではないのに、意識の焦点が移動する。紬は抵抗しなかった。抵抗できないと知っているからではない。抵抗しても「抵抗した」という事実がメアリーに落ち、沈黙がさらに痛むからだ。紬はあえて受け入れた。受け入れることで、自分が主導権を持っている錯覚を作る。錯覚はロキに対抗する武器になる。少なくとも紬はそう学んできた。相手が支配を好むなら、支配の手触りを曖昧にしてやればいい。
次の瞬間、紬の感覚は別の場所へ引きずり込まれた。
そこは王都の外縁、行政区と職人区の境界にある古い庁舎だった。空気が違う。石壁が湿気を吸い込み、階段の隅に埃が溜まり、紙が古くなった匂いが染みついている。遠くで羽虫が飛ぶ音がする。誰かが咳払いをする音が、廊下の奥で反響して戻ってくる。音が戻ってくるまでの時間が長い。つまり、庁舎は人が少ない。人が少ない場所は監視が薄い。監視が薄い場所は、決裁が裏で動く。紬はその構造を直感的に理解した。日本で見てきたものと同じ匂いがする。制度は違っても、人間の心理が作る構図は似る。
視点は一人の男に固定されていた。男は四十代半ばで、顔色が土気色にくすみ、唇が乾いて薄く割れている。髪の生え際に汗が滲み、額を拭う仕草が癖になっている。彼は書記官で、決裁権は持たないが、書類を通す力を持つ。命令を出さず、命令の形を整える役割にいる。彼の机の上には紙束が積まれ、紙束の端が摩耗して波打っている。彼は紙を「命」と同じ重さで扱っている。紙が命を動かす世界だと知っているからだ。
男は朝、庁舎へ来た。来るまでの道で、彼は市場を避け、兵の巡回路を避け、なるべく人混みを避けた。避ける理由は単純だった。目立ちたくない。目立てば誰かに覚えられる。覚えられれば、意味を与えられる。意味を与えられることが、今の世界では最も危険だ。彼はそう考えている。考えているが、本人はそれを「慎重さ」だと呼ぶ。慎重さは美徳だ。美徳は免罪符になる。免罪符が欲しいのだと、彼は自分でも気づかない。
庁舎に着くと、彼は同僚と挨拶をした。挨拶は長くしない。長くすれば心情が漏れる。心情が漏れれば、相手に付け入られる。付け入られれば、書類の流れが変わる。書類の流れが変われば、責任の矢印が自分へ向く。彼はそうやって、挨拶一つにも判断経路を挟むようになっていた。それが「仕事ができる者」の振る舞いだと信じている。
その日、彼の机に一枚の書類が回ってきた。文言は平凡だった。「安全確保のための人員再配置」。彼はその文言の危険性を理解している。再配置とは、兵が動くことだ。兵が動けば、現場が判断することだ。現場が判断すれば、弱い者が傷つく可能性が上がる。だが彼は同時に別のことも理解している。書類を止めれば、自分が目立つ。目立てば自分が危ない。危ないのは嫌だ。だから書類を通す。通すことが「組織のため」だと自分に言い聞かせる。組織のためという言葉は、罪悪感を薄める麻酔になる。
男は署名をした。署名をする瞬間、羽根ペンの先が紙の繊維に引っかかり、微かに震えた。その震えは偶然だ。だが偶然を偶然として流せないほど、彼の神経は過敏になっていた。彼は紙を指で撫でた。紙がざらつく。ざらつきが指に残る。指に残ったざらつきが、なぜか胸の奥まで伝わってくるような気がする。気がするだけだと、彼は自分に言う。言わなければ、怖くなる。
怖さは、次に呼吸へ現れた。
男は息を吸う。吸える。だが吸う瞬間、肺が一拍遅れる。遅れる理由が分からない。分からないまま吸うと、空気が胸に入ってくるのに、安心が入ってこない。胸が膨らむことと安心することが結びつかない。結びつかないことが、恐怖を増幅させる。恐怖が増幅すると、身体は呼吸を浅くする。浅い呼吸はさらに安心を遠ざける。悪循環が、ほんの数秒で出来上がる。
男は立ち上がろうとした。立ち上がれば血が巡る。巡れば呼吸も整う。そう判断した。判断は理屈だ。理屈は彼の武器だ。武器があると思えば安心できる。彼はその武器に縋った。
だが立ち上がった瞬間、足元の水平が数度だけずれた。転ぶほどではない。だが世界が「傾いた」と身体が先に認識する。認識すると、脳が理由を探す。理由が見つからない。見つからないと、脳は無理矢理に理由を作る。理由が作られると、それは妄想の入口になる。
男は机に手をついた。手の感触が遠い。遠いという感覚は、身体の境界が曖昧になったことを意味する。境界が曖昧になれば、自己が曖昧になる。自己が曖昧になれば、判断が揺らぐ。判断が揺らげば、彼が頼ってきた「仕事の武器」が崩れる。崩れた瞬間、彼は自分が裸で戦場に立っていることに気づく。
彼は恐怖した。だが恐怖の対象は死ではなかった。
死なら、まだ分かる。刺される、斬られる、焼かれる、落ちる。
しかしこの恐怖は違う。自分の判断そのものが信用できない恐怖だ。信用できないものを使って仕事をしてきた自分が、崩れる恐怖だ。
その瞬間、男の意識の中心へ、「意味」が落ちてきた。
『ねえ、君。ずっと器用にやってきたよね』
声ではない。音でもない。だが男は「誰かがいる」と理解する。理解する理由が自分でも説明できない。説明できない理解は、本能に近い。男は喉を開き、声を出そうとした。助けを呼ぼうとした。だが声は出ない。喉が閉じているわけではない。声を出すための「理由」が見つからない。理由が見つからないのに声を出すと、何を言えばいいか分からず、言えば言うほど自分が壊れていることが周囲に露呈する。露呈は危険だ。危険は避けるべきだ。男はそう判断し、結果として黙る。黙ることが正解だと、彼は長年学んできた。
『命令しなかった。決めなかった。責任を持たなかった。だけど結果は全部、君の紙の上を流れた』
男の胸が締まった。締まるが、痛くはない。痛くないことが恐ろしい。痛みがあれば、身体が警告を出していると分かる。だが痛みがないのに締まるのは、身体が「原因」を特定できない種類の圧力だ。原因を特定できない圧力は、逃げ道を消す。
『不思議だよね。呼吸って、生きるための機能なのにさ。今の君には、生きる理由が整理できてない』
男は必死に理由を並べた。家族。子ども。生活。地位。習慣。
だが並べた瞬間、彼は気づく。それらは「自分が選んだ」理由ではない。選ばされた。流されてきた。選ばなかったことが安全だと信じてきた。だからこそ彼は、決めない役を選んだ。決めない役は責められない。責められなければ生き残る。生き残ることが目的になった時点で、彼の人生の中心には「生きる理由」ではなく「死にたくない理由」しか残っていない。
呼吸が、さらに遅れた。吸える。だが吸うたびに確認が必要になる。確認が必要になることは、呼吸が自動機能から外れたことを意味する。自動機能から外れれば、呼吸は思考の支配下に入る。思考が乱れれば呼吸が乱れる。呼吸が乱れれば思考が乱れる。円環が閉じる。
男は理解した。これは雷ではない。炎でもない。剣でもない。
それでも、これほど確実な罰はない。罰とは苦痛ではない。罰とは「選択の結果を逃がさない仕組み」だ。彼は逃がしてきた。責任を逃がし、決断を逃がし、言葉を逃がし、その結果だけを誰かへ渡してきた。その逃がし方が、今、逆流している。
ロキは笑った。笑いは軽い。軽いからこそ深い。深いからこそ救いがない。
『安心して。すぐには死なないよ。君には理解する時間が必要だから。理解して、崩れて、最後にやっと、君が何をしてきたか“自分で”分かる』
男は崩れ落ちた。倒れるのではない。立つ理由が失われるのだ。立つ理由が失われた者は、筋肉が残っていても立てない。意思が残っていても立てない。男は床に膝をつき、額が汗で濡れ、視界がぼやけ、唇が震え、歯が鳴る。歯が鳴るのは寒いからではない。身体が自分の境界を保つために震えている。境界が崩れれば、自己が崩れ、自己が崩れれば、世界に適合できない。
紬は、その一部始終を見せられていた。
見せられているという感覚が、紬の背骨の奥を冷たく撫でる。ロキは「見せる」ことを神罰にしている。見せられる側は、助けたいと思う。助けたいと思えば、言葉が生まれる。言葉が生まれれば、政治が動く。政治が動けば、王都が動く。王都が動けば、血が増える。ロキはその連鎖を、指一本で転がそうとしている。
紬の胸の奥で、メアリーが「理解」だけを受け取って震えた。震えは声にならない。だが紬には分かる。メアリーは怒っている。彼女は王女として怒っているのではない。人として怒っている。自分の国で、自分の民が、こういう形で壊されることへの怒りだ。だがメアリーは言えない。言えば政治になる。政治になれば血が増える。血を増やしたくない。増やしたくないから沈黙する。その沈黙が、彼女の喉に棘として刺さる。
同調律の痛みが、また一段深くなる。
紬はその痛みを「耐える」だけでは済ませなかった。耐えるだけなら、ロキの玩具になる。痛みは情報だ。痛みは「この構造が破綻しかけている」という警告だ。紬は警告を読み、次にどう動くかを決めなければならない。
ロキの意味が、再び落ちてくる。
『ねえ、紬。君はこれを見て、まだ“語らない”って言える? 君が黙れば、王女が壊れる。君が語れば、誰かが壊れる。ほら、選べないよね。選べないって、楽しいよね』
紬は、怒りと嫌悪と冷静さを同時に抱えた。
怒りはある。嫌悪もある。だが冷静さが消えないのは、紬が「加護」を受けているからだ。加護は万能だと定めた。万能は精神を守る。精神を守るとは、感情を消すことではない。感情に飲み込まれず、感情の意味を整理し、次の一手を選べる状態を維持することだ。紬は今、その万能の守護を体感している。体感は甘さではない。体感は責任になる。守られている者は、守れない者を放置できない。
紬は内側で、メアリーへ語りかけた。声ではない。同調律としての確認だ。
メアリーが理解する。理解して沈黙する。沈黙することで王都の均衡が一秒だけ保たれる。だがその一秒が永遠ではないことを、紬もメアリーも知っている。紬はその事実を、今ここで「言葉」にしなければならない。言葉にしなければ、ロキが言葉を奪う。奪われた言葉は、反乱指導層の偽命令に化ける。化ければ、民が死ぬ。
紬はロキへ返す言葉を、短くしなかった。
短くしないために、紬は自分が何を守り、何を捨て、何を選ぶのかを、順序立てて言語化する必要がある。順序立てて言語化するために、紬は自分の呼吸を整え、喉の乾きを飲み込み、舌を動かし、唇を開く。
そして紬は、内側で、はっきりと告げた。
「ロキ、あなたは私に選べない形を押し付けて面白がっている。私はそれを理解した上で、あなたの遊びに合わせて壊れない。私は語るが、あなたの望む語り方では語らない。私は王都の空気を煽らない。私はメアリーの沈黙を、恥でも怯えでもなく、意図として成立させる。私はあなたが今見せた男の崩れを“例外”ではなく“構造”として扱い、その構造を切る」
言葉は、意味として返ってくる。
ロキが笑った。笑いが近い。近いほど危険だ。近いほど、ロキは楽しくなっている。
『いいね。そういうの、好き。じゃあ見せてよ、紬。切れるなら切ってみて。君が切ろうとした瞬間、別の場所で誰かがまた崩れるけどね』
紬はその予告を聞き、背筋の奥が冷えた。
ロキは「次」を用意している。
次はこの庁舎ではない。王都のどこか、あるいは王都の外のどこかで、さらに残酷な形の個別神罰を起こす。起こすことで紬の判断を急がせる。急がせれば短文が出る。短文が出れば誤解が出る。誤解が出れば血が出る。
だから紬は急がない。
急がないことを選ぶ。
急がないことで、判断の経路を保つ。
判断の経路を保つことで、言葉を長くし、因果を描き、読者に察しろをしない。
窓の外では、王都が今日も動いている。
だが今、王都のどこかで「一人だけが崩れる」という形の神罰が始まった。
それは雷でも炎でもなく、呼吸でも剣でもなく、人が人であるための「責任の逃がし方」を逆流させる仕組みだった。
紬は、その仕組みを見せられた。
見せられたからには、止める道筋もまた、見つけなければならない。
同調律の痛みが、紬の胸の奥でうねる。メアリーが理解し、沈黙する。その沈黙が、紬の言葉を重くし、重くなった言葉が、次の命令を生む準備になる。命令は血を減らすために出すものではない。血を増やさないために、壊れ方を限定するために出すものだ。紬はその現実を、嫌というほど理解していた。
ロキの最後の意味が落ちてくる。
『さあ、紬。次は誰にしようか。君が守りたいものに近いところがいいよね。守りたいものが近いほど、君の言葉は揺れるから』
紬は唇を噛んだ。血は出ない。だが痛みがある。痛みは現実だ。
そして紬は、揺れないために、メアリーの沈黙を抱えたまま、次の一手を選ぶ準備をした。
どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。
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