第36話 同調律の痛み――ロキの声を受ける者、理解して沈黙する者――
王都アルセリアの朝は、薄い霧のような緊張を地面から立ち上らせながら、いつもと同じ顔をして始まっていた。城壁の上で交代の角笛が鳴り、石畳の継ぎ目を冷えた風が這い、屋根の上の鳩が羽音を立てる。その音だけを聞けば平穏だと錯覚できるのに、通りへ降りれば、誰もがその錯覚を自分の手で壊してしまう。人の歩幅が微妙に短くなり、顔を上げる角度が下がり、声を出す前に喉が一度閉じる。その小さな変化が、街全体に同じ規則で広がっている事実が、すでに平穏ではない証拠だった。
通りでは人が歩き、荷車が軋み、門番が定刻の手順で通行を捌いている。それでも街が生きているとは言い切れない。生きている街は、目的があって動く。だが今の王都は違う。目的ではなく、逃避が人を動かしている。逃げているのは刃からではない。火からでもない。噂からでも、反乱軍からでもない。人々が逃げているのは、「自分の行動が、どこかで誰かに“意味”を与えられてしまうこと」そのものだった。
荷車を押す男が、壁際の陰に寄る。中央を歩けば兵の視線とぶつかる。視線がぶつかることは、ただの偶然では終わらないかもしれない。巡回兵の心に「この男は落ち着きがない」「この荷は怪しい」「この時間にここを通る理由は何だ」という疑念が芽生えた瞬間、疑念は彼の行動の意味を勝手に書き換え、書き換えられた意味が次の兵に渡される。誰も「疑う」と命じていないのに、疑うという行為だけが伝播する。それを男は経験として知っている。だから彼は陰へ寄る。寄るという行為が怪しまれる可能性を理解しながら、それでも中央よりは分があると計算する。失敗したときに致命傷になる確率を、彼は無意識に低いほうへ寄せている。
兵の側も同じだ。彼らは鎧を着て剣を帯びているのに、その重みが「力」になっていない。力は、命令と確信があって初めて形になる。だが今の命令は曖昧で、確信は崩れている。兵の隊長は大声を出さない。大声は責任を伴う。責任が伴えば、世界がそれを“基準”の材料にするかもしれないという疑いが拭えないからだ。隊長は声を抑え、指示を短くし、叱責を避ける。その結果、兵たちは互いの表情を読み合って歩くようになった。誰が強気で、誰が怯え、誰が怒りを溜め込んでいるか。その差がいつか刃になることを、彼らは東区で最初の血が流れた日に学んでしまった。
市場では商人が声を張る。張らなければ物が売れない。だが声を張るという行為が「扇動」に見えるかもしれないと考えた瞬間、商人の喉は締まり、言い回しは回りくどくなる。誰の味方でもない、ただ商いをしているだけだという姿勢を、声色と身振りで演じる必要が出てくる。演技が増えれば疲労が増える。疲労が増えれば判断が鈍る。判断が鈍れば失言が増える。失言が増えれば次に誰かが死ぬかもしれないという連想が、朝から晩まで胸の奥で止まらない。だから人々は歩き方を変え、声の出し方を変え、視線の置き方を変えていく。
恐怖の対象が明確なら、人は逃げる方向を決められる。敵が城門の外にいるなら城門を閉ざせばいい。刃が来るなら盾を出せばいい。だが今の恐怖は、方向を持たない。恐怖は人の内側に入り込み、判断の瞬間にだけ姿を現す。だから人は逃げられない。逃げられない恐怖は、街の呼吸を浅くする。浅くなった呼吸が街の匂いを変える。汗と鉄と湿った石の匂いの中に、焦げた紙のような乾いた匂いが混じり始める。誰も火を焚いていないのに、喉が焼けるように感じるのは、恐怖が唾液を奪うからだ。
王宮の窓からその街を見下ろす者たちも、同じ空気を吸っている。窓ガラスが隔てているのは風だけで、緊張は隔てられない。王宮の廊下では、絹の裾が擦れる音が小さくなった。侍女が歩く速度がわずかに速くなった。物音を立てることそのものが「気配を主張する行為」になり、主張が選別の材料になり得ると、誰もが心のどこかで信じ始めているからだ。近侍の男は扉を開ける前に一呼吸置く。開けるタイミングが悪ければ、王女の沈黙に割り込むことになる。割り込むことは政治的な意味を持つ。政治的な意味を持つ行為は、神罰と無関係ではいられない。そんな理屈を自分で笑いたくなるほど非現実だと理解していても、非現実が現実に変わった世界では、理屈より生存が優先される。
その一室に、紬は立っていた。
紬は女性だ。刺殺された日本の大学院生として生きていた頃から、知性と身体の両方を使って世界を渡ってきた。その習慣は死んでも消えず、むしろこの世界で生き残るための骨格になっている。彼女は今、メアリーの肉体と同じ器にいる。器の中には二つの意識が同居しているが、二つが混ざって一つになる「融合」ではない。互いの感覚が流れ込み、互いの理解が影のように重なり合う「同調律」だ。
同調律は便利だ。情報が増える。判断の幅が広がる。過去の歴史と現代の倫理が同じ頭の中で衝突し、衝突した結果だけが残る。だが同調律は痛い。痛みは感情だけではなく、構造に宿る。紬が何かを受信すれば、メアリーも“意味だけ”を受け取ってしまう。メアリーが何かを理解すれば、紬の中に「その理解が言葉にできない重さ」として沈む。言葉にできない重さは、言葉にできる者の肩にのしかかる。つまり、語れる者が背負い、語れない者が沈む。二人とも苦しいが、苦しみの種類が違う。
紬はその違いを、呼吸の差で感じ取っていた。
メアリーは、息を吸うたびに胸の奥で一瞬だけ止まる。止まるのは恐怖があるからではない。理解が先に来てしまうからだ。理解が先に来れば、反応は遅れる。反応が遅れれば、発言の権利は奪われる。発言の権利が奪われたまま理解だけが増えると、沈黙は「選択」ではなく「拘束」になる。拘束された沈黙は、肺の奥に小さな棘のように刺さる。メアリーは刺さる棘を抜けない。抜こうとすれば、それは行動になり、行動は政治になり、政治は神罰の対象になり得ると、彼女は理解してしまっているからだ。
紬は、その理解がメアリーを縛っていることを知っている。
知っているが、紬はその鎖を切れない。鎖は神々が編んだものだからだ。紬ができるのは、鎖が食い込む場所を変えることだけだ。紬が語れば、メアリーの沈黙の理由が「恥」から「必然」へ移るかもしれない。だが紬が語り方を誤れば、沈黙は「王女の怯え」に見え、怯えに見えた瞬間、王都の拒む者たちは「王女は弱い」と結論づける。弱い王女を見限る者が増えれば、偽命令は増え、兵は迷い、血は増える。紬の口はその未来を読み、だからこそ言葉を選び続ける。選ぶという行為は、絶え間ない疲労を生む。疲労が増えるほど、判断は鈍る。鈍った判断は、ロキにとって最高の玩具になる。
そして、その瞬間が来た。
紬の意識に、外側から圧がかかった。
眩暈ではない。耳鳴りでもない。視界の揺れでもない。肉体に異常が起きた兆候はない。にもかかわらず、思考の中心が強引に掴まれ、ほんのわずかな方向へ“ずらされる”。そのずれは、足元の石が動くような大きな揺れではなく、針の先で地図の座標を一つだけ移されるような細さだった。細いからこそ厄介だ。細いずれは、気づかなければ自分の判断だと誤認してしまう。
紬は、刺殺された瞬間の感覚を思い出した。
あのとき、世界は唐突に遠ざかり、音が遅れて届き、血の匂いが最後に来た。死とは、意識が剥がされていく感覚だった。
だが今、起きているのは剥がされる感覚ではない。逆だ。意識の奥に、最初から存在していた接点が急に太くなり、拒否権のない接続が成立する感覚だ。
紬はすぐに判断した。
これは攻撃ではない。攻撃なら防御がある。防御があるなら抵抗がある。だがこの圧には抵抗の隙がない。対話だ。しかも、こちらが同意するかどうかを前提にしない対話だ。紬が日本で培ってきた理屈が、嫌な形で噛み合う。すでに回線が敷かれているなら、流れる情報を止めるには回線そのものを断ち切るしかない。だが回線を敷いたのは十九柱の神々であり、紬は加護を受けた瞬間に“受信者”になっている。受信者が送信者の都合で呼び出されるのは、仕組みとして当然だった。
だから、紬は内心で断定した。
ロキだ、と。
音として耳に届く声ではない。だが言葉の意味が、理解の回路に直接届く。意味だけが届くという形式は、神々の介入の特徴だ。さらに、その意味の輪郭には軽さがある。軽さの中に悪意があり、悪意の中に好奇心があり、好奇心の下に「壊れるまで見たい」という愉悦が張り付いている。そういう混ざり方をする神格は、紬の記憶に一柱しかいない。
メアリーが小さく息を呑んだ。
声は聞こえない。だが「ロキが来た」という事実と、その事実が持つ危険性が、意味としてメアリーに落ちてくる。落ちてくる瞬間、メアリーの沈黙がほんの少し重くなる。その重さは、紬の胸にも伝わる。器が同じだからだ。紬はその重さを「他人事」として扱えない。扱えないことが同調律の利点であり、同時に罰でもある。
『ねえ、紬。王都の匂い、好きだよ。みんなが自分の正しさを守るために、正しさを捨て始めてる』
ロキの言葉は、軽い笑い声のように弾んでいた。
紬はすぐに返さない。返せば、その返答の意味がメアリーへ落ちる。メアリーは理解できるが、意見を言えない。意見を言えないまま理解だけを増やせば、沈黙の棘は深く刺さる。紬が不用意に応じるほど、メアリーは静かに壊れていく。その壊れ方は外から見えない。外から見えない壊れ方ほど危険だ。壊れた瞬間に政治が崩れるからだ。
紬はまず、自分の身体反応を制御した。喉が乾く。舌が上顎に貼りつく。呼吸が浅くなる。これらは恐怖の反応でもあるが、同時に「死の記憶」が呼び覚まされた証拠でもある。紬は死んだ。死んだ者は、死に近い圧を覚えると身体が先に構える。構えが先に出れば、言葉は短くなる。短い言葉は誤解を生む。誤解は政治を壊す。政治が壊れれば、守るべき者が死ぬ。紬はその連鎖を止めるために、あえて一呼吸置いた。
『王女も分かってるよね。自分が口を開けない理由。分かってるのに黙るって、可哀想だよね』
メアリーの指先が、わずかに震えた。震えは弱さではない。理解が増えた結果、身体が先に拒否反応を示しているだけだ。メアリーは沈黙を選んでいるつもりで、実際には沈黙を“維持させられている”部分がある。紬の言葉が外へ出るほど、メアリーは理解する。理解するほど、沈黙は「選択」から「拘束」へ変わる。拘束が続けば、心身は必ずどこかで悲鳴を上げる。悲鳴が外へ漏れれば、王都はそれを“王女の動揺”として利用する。利用されれば、偽命令はさらに増える。
紬はロキの言葉を、ただの挑発として処理しなかった。
ロキは目的を持っている。目的は、紬の魂を壊すことではない。紬の魂は加護で守られている。守られているものは壊せない。だからロキは別のものを壊す。状況だ。関係だ。誤認だ。誤認が増えれば、世界は勝手に血を増やす。ロキはその過程を見て笑う。
紬はその意図を読み取り、読み取った上で、読み取ったことをロキに悟られないように言葉を整えた。悟られれば、ロキはもっと面白いほうへ振る。面白いほうとは、より残酷なほうだ。
『ねえ、紬。君はどうする? 君は語れる。王女は語れない。これ、すごく良い形だと思わない?』
問いは短い。
だが短い問いほど、背後に切り捨てがある。
どうする、とは何か。紬が命令を出すのか。王女の名を使うのか。神罰の連鎖を利用して反乱指導層を削ぐのか。民の恐怖を別の対象へ誘導するのか。クラリスを守るために、クラリスを政治から遠ざけるのか。守るために遠ざけるという行為は、遠ざけられた側にとっては裏切りになる。裏切りは同調律を揺らす。同調律が揺らげば、器の中の均衡が崩れる。均衡が崩れれば、メアリーの沈黙は「崩壊」として現れるかもしれない。
紬は窓の外を見た。
ただ眺めたのではない。王都全体が発している「判断の匂い」を嗅ぎ取った。市場で声を張れない商人の喉の動き。兵が巡回の角を曲がる前に、仲間の表情を確認する一瞬の目配せ。役所で決裁印が押されない紙が積み上がり、紙の重みだけが増えていく空気。誰もが同じ方向へよろめいている。よろめきの方向は「自分だけは選ばれたくない」という一点へ収束していく。収束すればするほど、誰かが犠牲になる確率は上がる。犠牲になる者が出れば、怒りが生まれる。怒りが生まれれば、偽命令は正当化される。正当化されれば、血は増える。
メアリーも同じものを理解している。理解しているが、言えない。
言えないという事実が、紬の胸を圧す。怒りではない。悲しみでもない。選択を引き受ける重さだ。引き受けなければ、メアリーが沈黙のまま壊れる。引き受ければ、紬が語った言葉が政治を動かし、政治が血を動かす。
紬は自分の中で、判断の経路を一つずつ確認した。
ロキは今、紬に「言葉」を使わせようとしている。言葉は最も便利な刃だ。言葉は誰も殺さずに殺せる。言葉は誰も殴らずに殴れる。言葉は誰も命じずに命じられる。ロキが欲しいのは、紬がその刃を抜く瞬間だ。抜けば、刃は必ずどこかを傷つける。傷ついた場所から血が出れば、世界は次へ進む。世界が次へ進めば、ロキは笑う。
だから紬は、言葉を刃にしないための言葉を選ぶ必要がある。
それは矛盾だ。だが同調律という仕組みそのものが矛盾で成り立っている。矛盾を抱えたまま、壊れない形を探すしかない。
紬はゆっくりと息を吸い、吐いた。
吐いた息が喉の乾きをわずかに和らげ、胸の奥の震えを抑える。抑えた上で、紬はメアリーの沈黙の重さを感じ取る。感じ取ることで、紬はその重さを一人で背負う覚悟を固める。覚悟とは気合いではない。覚悟とは、次に言葉を発したときに生じる結果を、逃げずに引き受けると決める行為だ。
紬はロキに応じるためではなく、メアリーの沈黙を守るために口を開く準備をした。
その準備の間、メアリーは理解し、沈黙する。沈黙することで、王都の均衡が一秒だけ保たれる。だがその一秒が、永遠ではないことを二人とも理解している。
窓の外では、王都が今日も動いている。
誰もが「基準」から逃れようとして、自分の行動の意味を削り続けている。
その削り続けた先に残るものが、救いなのか、破滅なのかを、まだ誰も知らない。
だが神は知っている。
少なくともロキは、その過程を玩具として知っている。
『さあ、紬。語ってみて。君の言葉で、王都の空気をどう変えるのか、見せて』
紬の内側で、ロキが笑った。
笑いは音にならない。だが意味としては、刃物より鋭い。
紬はその鋭さを受け止めながら、あえて言葉を急がなかった。急げば短くなる。短くなれば誤解される。誤解されれば死ぬ。死なせないために、紬は言葉を伸ばす必要があった。
同調律の痛みは、ここにある。
理解が増えるほど、言葉は重くなる。
言葉が重くなるほど、沈黙は痛くなる。
痛みが増えるほど、神は笑う。
それでも紬は、語る側に立つ。
語ることでしか守れない沈黙が、この器の中にあると知っているからだ。
どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。
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