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神罰律導の王女メアリー ―十九柱の黙示録―  作者: 空識


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第35話 ロキの嘲弄 ―砦に残る者、壊される者―

 砦が沈黙したのは、指導者が死んだからではなかった。死は戦争の付属品として、兵も民もどこかで受け入れている。だが、死に至る筋道が見えないとき、人は死そのものよりも「次は自分かもしれない」という曖昧な予感に骨の髄まで支配される。まして今回の世界は、刃や毒より先に、神の気まぐれと秩序の歪みが人間を選び取っている。誰かが斬られたのなら犯人を探せる。誰かが毒で倒れたのなら器を調べられる。しかし、セラフィナ・ヴァルドが姿を消した夜から砦に広がったのは、調べても意味がないという絶望の種類だった。


 古砦の石壁は冷たかった。昼の篝火が残した煤の匂いが、夜になると湿りを含んで重く落ち、そこに兵の汗と油の匂いが混じる。眠れない者たちが火鉢の灰を掻き回し、必要もないのに水を飲み、必要もないのに剣の柄を拭く。動作が増えるのは、動作を止めた瞬間に胸の内から恐怖が溢れるからだ。動いていれば「自分はまだ生きている」と錯覚できる。錯覚がなければ、この砦の空気は人を狂わせる。


 兵は二つの集団に分かれていた。分かれたというより、互いに視線を交わさなくなった。片方は、何事も起きていないふりをする者たちだ。彼らは口数を減らし、報告を定型句に押し込み、夜回りの順番さえも紙に書いて確認し合う。紙に書かれたものは、少なくとも「誰かの思い込み」ではなくなるからだ。もう片方は、見えない原因を無理にでも形にしようとする者たちだ。彼らは火のそばで囁き合い、誰の目が泳いだか、誰が先に席を立ったか、誰がセラフィナの部屋の前を通ったかを、息を潜めて記憶している。証拠ではない。だが恐怖は証拠を必要としない。恐怖は納得できる物語だけを欲しがる。


 翌朝、砦の中庭に集合の角笛が鳴った。鳴ったはずだった。音は確かに耳へ届いたが、いつもの鋭い切っ先のような響きではなく、布で包まれた刃のように鈍かった。大気の密度が変わっているのかと誰かが呟いた。その呟きに反応して周囲の兵が胸へ手をやる。呼吸はできる。だが「できる」ことが、いつまで保証されるか分からない。保証のない呼吸は、薄い氷の上を歩くような感覚を人に与える。


 臨時本営の指揮官代理として壇上に立ったのは、セラフィナの補佐役だった男、グラナート・ヘイルズだった。四十代に差し掛かる年齢で、頬の肉が薄く、髭は常に剃り跡が残る。彼の視線は冷静で、言葉は明瞭で、兵の前で背筋を曲げない。表面上は「指揮官らしい」男だったが、その冷静さがこの砦では逆に不気味に映った。冷静さとは、恐怖を感じていない証拠ではない。恐怖の出し方を知っている証拠だ。そして恐怖の出し方を知っている人間は、他人の恐怖を利用できる。


「昨夜、セラフィナ殿は急報を受け、単独で動かれた」


 グラナートはそう言った。言い終えた瞬間、兵の間で空気がざわつく。「単独」という言葉が、彼らの背中に冷たい針を刺したからだ。単独行動は危険だ。世界が基準を持ち始めた今、孤立は死と同義になる。だが同時に、単独行動は「責任を切り離す」ための最も都合のいい言い訳でもある。


「動かれた先で何が起きたかは、まだ確認できていない。ただし、砦内での争闘の痕跡はない。よって、無用な憶測は禁じる」


 禁じる、と言った瞬間、兵の背中がまた硬くなる。禁じるという言葉は、以前なら秩序の象徴だった。しかし今は違う。禁じるという言葉は「誰が、どこまで責任を持つのか」を必ず問われる。禁じる権限を持つ者は、同時にその命令の責任を負う。責任は、今の世界では最も危険なものになっている。だからこそ兵たちは、グラナートの命令の裏にある計算を嗅ぎ取ろうとしていた。


 彼らの視線が、壇上の男へ集中する。視線は刃になる。刃は、臆病な者の手にも握れる。誰も声を上げないが、誰も心の中で黙っていない。沈黙の質が、じわじわと変わっていく。


 グラナートは、その沈黙に耐えるために言葉を重ねた。言葉を重ねれば、沈黙が薄まると人間は錯覚する。しかし錯覚は短い。錯覚が消えれば、残るのは言葉の矛盾だ。


「砦内の警備を強化する。巡回は二重にする。夜間の移動は許可制とする。許可を出すのは私と、指揮官会議に参加する者のみだ」


 会議、という言葉が刺さる。会議に参加する者が誰かは、その場で明言されなかった。明言されないということは、明言できない事情があるということだ。兵の間に、さらに別の物語が生まれる。グラナートが権力を握るために、セラフィナを排除したのではないか。セラフィナが生きているなら、なぜ姿を見せないのか。もし死んだなら、なぜ死体がないのか。死体がない死は、死として処理できない。処理できないものは、恐怖として残る。


 その日の昼、砦の内部で小さな事故が起きた。食糧庫の鍵が壊れ、乾燥肉と麦袋が床に散らばった。事故は偶然のように見えたが、偶然ほど疑われやすいものはない。麦袋を拾う兵の手が震え、誰かが「罠だ」と小声で言った。その声は周囲の耳へ入り、耳から胸へ落ち、胸から胃へ沈む。胃が沈むと、人は吐き気を覚える。吐き気は弱さの証拠だ。弱さはこの世界では危険だ。危険だと思った瞬間、吐き気はさらに強まる。感情は連鎖する。連鎖が広がる速度は、神罰が広がった速度と同じだ。人は恐怖に学び、恐怖を増幅させる。


 夕方、砦の裏手の井戸で、別の事故が起きた。水桶が落ちた。落ちた音が妙に大きく響いた。響き方が、まるで井戸の底から笑いが返ってくるようだった。兵が顔を見合わせる。その顔色が青い。青い顔色は病気の前兆にも見えるが、今は違う。青い顔色は「世界に目をつけられている」という錯覚の色だ。


「……セラフィナ様が消えてから、井戸の水が冷たい」


 若い兵がそう言った。言葉自体は幼稚だった。だがこの砦では、幼稚な言葉ほど鋭く刺さる。理由が分からないものに理由を与えるのが、人間の本能だからだ。冷たい水が恐怖に結びつくなら、冷たさは警告になる。警告があるなら、避ければ助かるという希望が生まれる。希望が生まれると、人は希望に従う。希望に従うと、集団が同じ方向へ動く。集団が同じ方向へ動けば、誰かがそれを利用できる。


 その夜、誰かが兵舎の隅で小声で言った。


「これは神罰じゃない。人間の仕業だ。セラフィナ様を消したのは、王女側の間者だ」


 その言葉が、火種になった。火種になった理由は単純だ。神罰は理解できないが、間者は理解できる。間者なら捕まえられる。捕まえれば安心できる。安心できるなら眠れる。眠れるなら生きられる。生きたいという欲求は、どんな正義よりも強い。だから兵は、その物語に縋りつく。


 だが縋りついた瞬間、砦の中で新しい支配が始まる。支配は剣ではなく、疑いで始まる。疑いは一度生まれると、誰をも対象にできる。対象にされた者は、自分が疑われていることに気づく。気づけば身構える。身構えれば挙動が硬くなる。硬くなれば怪しく見える。怪しく見えれば疑いが強まる。疑いは自己増殖する。


 グラナートは、その増殖を止めなかった。止められなかったのではない。止めない方が都合がいいと判断した。疑いが砦を満たせば、兵は「誰かの命令」に縋る。命令に縋れば、命令を出す者が強くなる。強くなれば、権力が確立する。権力が確立すれば、次の一手が打てる。グラナートの目は、そういう計算を宿していた。


 彼は翌朝、指揮官会議を開いた。会議室は砦の中心にある小部屋で、石壁の湿り気が肌にまとわりつく。窓は狭く、光は入らない。光が入らない場所では、人は声の大きさと目の動きで相手を測る。測れば測るほど、信頼は減る。


「王女が出したという“無効”の命令は、こちらの動きを縛るための罠だ」


 グラナートはそう言った。言葉は確信に満ちているようで、同時に穴だらけだった。穴だらけでも構わない。重要なのは「敵がいる」という物語だ。敵がいれば、味方がまとまる。味方がまとまれば、疑いの矛先を外へ向けられる。外へ向けられれば、砦の内部で起きている崩壊を隠せる。


 しかし会議室にいる男たちは、彼の言葉をそのまま飲み込まなかった。飲み込めなかった理由は、彼らもまた権力を欲しているからだ。反乱指導層は大義名分を掲げているが、実態は「誰が玉座を握るか」という椅子取りゲームに過ぎない。椅子取りゲームでは、敵より先に味方が怖い。味方が怖いなら、味方の言葉を信じられない。


「罠だとしても、我々が動けば同じだ。世界が基準を持ち始めた今、強い命令は強い責任を生む。責任を負った者が、次にどうなるか……王都の呼吸の件を見ただろう」


 別の男が言った。声が掠れていた。掠れは疲労ではなく、恐怖の残滓だ。彼は呼吸の神罰の噂を、ただの噂として処理できていない。噂が現実に変わったことを知ってしまった人間は、言葉を慎重に選ぶ。その慎重さが逆に、臆病に見える。臆病に見える者は、権力争いでは弱い。


 グラナートは、その弱さを見逃さなかった。見逃さないことで、自分の立場を強める。


「だからこそ、責任の所在を明確にする。明確にすれば、こちらは基準に適合する。曖昧な命令が無効なら、明確な命令は有効だ」


 彼はそう言い切った。言い切った瞬間、会議室の空気が少し冷たくなった。冷たくなった理由は物理ではない。そこにいる者たちの脳が同じ危険を嗅ぎ取ったからだ。グラナートは今、「基準を利用する」という発想を口にした。基準は理解できない。理解できないものを利用するという発想は、賭けであり、傲慢であり、そして神の反感を買う可能性がある。だが同時に、その発想は魅力的だ。理解できないものを利用できれば、世界に勝てる気がする。勝てる気がすれば、恐怖が薄れる。恐怖が薄れれば、人は危険な選択をする。


 会議はまとまらなかった。まとまらなかったことが、砦の不安をさらに増幅させた。決まらないという状態は、責任が宙に浮く状態だ。責任が宙に浮くと、人は自分の責任で動き始める。自分の責任で動き始めると、統制は崩れる。統制が崩れると、誰かが「統制を取り戻す」と言って権力を握る。権力を握る者は、ますます疑いを武器にする。砦の内部は、そういう自滅の循環に入りかけていた。


 その夜、ついに“最初の裏切り”が形になる。兵舎の一角で、見張り役の若い兵が首を吊って見つかった。縄は粗末な麻縄で、梁に結ばれている。吊ったのは自分だと周囲は言う。だが誰も確信していない。確信できない死は、死よりも恐ろしい。若い兵の爪の間に、土が詰まっていた。抵抗した痕ではない。だが抵抗しなかったとも言い切れない。誰かが彼を脅し、吊らせたのかもしれない。誰かが彼を罠に嵌めたのかもしれない。神が彼を選んだのかもしれない。可能性が増えるほど、人間の脳は暴走する。


「……次は俺だ」


 誰かが呟く。その呟きは短い。だが短い言葉の裏側には、眠れない夜の積み重ねがある。胸に手を当てて呼吸を確かめた回数、仲間の目を避けた回数、笑い声のない食事、喉を通らない酒、祈りが届かない感覚、そういうすべてが「次は俺だ」という一言に凝縮されている。凝縮された恐怖は、周囲へ伝播する。伝播した恐怖は、さらに別の行動を生む。


 翌朝、兵の一団が勝手に動いた。砦の外へ出て、街道沿いの村へ向かった。目的は食糧の徴発だと言う者もいた。間者の捜索だと言う者もいた。だが本当の目的は一つだ。動いていないと自分が壊れるからだ。動けば、少なくとも「自分で選んだ」という感覚が得られる。基準が世界を選ぶなら、せめて自分は自分を選びたい。そういう必死さが、兵を暴走させる。


 グラナートはその報告を受け、唇の端をわずかに上げた。上げたことを誰にも悟られないように、彼はすぐに顔を引き締めた。だが彼の内側では計算が動いている。暴走した兵が村で何をしたかによって、彼は「秩序を取り戻す」という名目でさらに強い命令を出せる。命令を出せば、責任が生じる。責任が生じれば危険だ。だが危険であるほど、権力は甘美になる。彼はその甘美さを知ってしまっている。


 砦の空気は、もう戻らないところまで来ていた。セラフィナが消えたことで、恐怖の矛先は一度外へ向かうはずだった。だが外へ向かう前に、砦の内側が先に腐り始めた。腐り始めた原因は、神罰そのものではない。神罰をきっかけに、人間が自分の生存本能を裏切り合いへ変換し始めたことだ。


 夜、砦の屋根の上を風が撫でた。撫でたのに、慰めにはならない。風はただの空気の流れではない。今や風は命令の記憶だ。命令の記憶が砦を通り過ぎるたび、人間は自分が誰の言葉で動いているのかを疑う。疑いはやがて確信になる。確信はやがて処刑になる。処刑はやがて内輪の戦争になる。


 ロキはどこにも姿を見せない。だが、彼の罰は終わっていない。個人を壊した神罰は、個人だけで完結しない。壊れた個人の周囲にある組織は、その破片を踏んで歩く。破片で足を切った者は、怒りを抱く。怒りはさらに別の命令を呼ぶ。


 砦の中で、誰かが低く祈った。


「神よ……俺は違う。俺は関係ない」


 祈りは短い。だがその短さの裏側に、彼が誰かを裏切った記憶と、裏切られる恐怖と、明日まで生きたいという欲望が詰まっている。神は答えない。答えないからこそ、人は自分で答えを作り始める。答えを作る者が、次の指導者になる。


 反乱軍は、王都を落とす前に、自分たちの足元から崩れ始めていた。崩れ始めたことを誰も口にしない。口にした者が、最初に吊られるからだ。吊られたくないから、沈黙する。沈黙するから、腐敗が進む。腐敗が進むから、次の神罰が降りる。


 そして、王都の方向とは別の暗い場所で、次の“個別神罰”の対象が、すでに選ばれつつある気配があった。選ばれる理由は、人間には分からない。だが切っ掛けは必ずある。切っ掛けは、いつも人間が自分の心を誤魔化した瞬間に生まれる。


 砦の夜は深く、煙は低く、兵の呼吸は浅く、誰もが「次の朝」を恐れながら目を閉じた。

どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。

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