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神罰律導の王女メアリー ―十九柱の黙示録―  作者: 空識


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第34話 嗤う神の指先 ――ロキによる個別神罰――

 反乱軍の臨時本営は、王都アルセリアから三日の距離にある丘陵地帯の古砦に置かれていた。かつては辺境を警戒するために積まれた石壁が、今は王都へ伸びる街道を見下ろし、兵の緊張と野心を同じ高さで抱え込んでいる。夜になると、砦の中庭に焚かれた篝火の匂いが湿った草木の香りと混じり、煙が石の隙間に絡みつくように漂った。風はあるのに、煙は真っすぐ上がらない。その不自然さが、ここ数日の恐怖の質を象徴していた。


 世界が、呼吸の形で人を屈服させた日から、反乱軍の人間は誰もが一度は胸に手を当てて眠るようになった。息が吸えることを確認しなければ、目を閉じる勇気が出ないのだ。表向きには士気を保っているふりができても、夜の静けさに紛れて聞こえる咳の回数が増え、喉を鳴らす音が途切れず、誰かの寝返りが石床に擦れるたびに兵がびくりと肩を震わせる。王都で起きた大規模な神罰が「噂」から「現実」に変わった瞬間、人間の本能は同じ結論へと滑り落ちた。ここは戦場ではない。ここは世界そのものが敵になった場所だと。


 砦の最上階、かつて見張り台だった部屋に、反乱軍の指導者の一人である女がいた。名をセラフィナ・ヴァルドという。貴族の落胤として生まれ、宮廷の周縁で笑顔を磨き、男たちの言葉の隙間に自分の居場所を縫い込んできた女だった。彼女の美しさは艶やかなものではなく、刃物のように整った輪郭と、相手を測る目の冷たさに支えられている。味方からは「聡明」と呼ばれ、敵からは「毒」と呼ばれたが、彼女自身はそのどちらにも満足していなかった。彼女が欲しかったのは、評価ではない。決定権だった。


 机の上には、王都周辺の地図と、各地から集めた報告が散らばっていた。紙の縁は指で弄られ、折り目は何度も開閉された痕で黒ずんでいる。蝋燭の火が揺れるたび、文字の影が伸び縮みし、まるで書かれていない行が増えたり減ったりするように見えた。セラフィナはその視覚の錯覚を、疲労のせいだと片づけようとしていたが、実際には疲労だけでは説明できない異常が、彼女の内側で増殖していた。


 彼女は、眠れていない。眠りに落ちそうになると、胸の奥で何かが笑う気配がして、指先が冷たくなる。冷えは外気から来るのではない。骨の内側からじわじわ広がるように、皮膚の下を滑っていく。彼女は幾度となく毛布を引き上げ、火鉢に近づき、熱い茶を飲んだが、温度だけが戻っても安心だけが戻らなかった。安心が戻らない理由を、彼女は自分で理解していた。ここ数日、彼女の判断が「正しいはずなのに」ことごとく裏目に出ている。部下を動かせば反発が生まれ、抑えれば不満が溜まり、妥協すれば弱腰と見なされ、強硬に出れば恐怖が広がる。彼女の言葉が兵に届く前に、空気がそれを別の意味へと歪めてしまうようだった。


 セラフィナは椅子に深く腰掛け、指でこめかみを押さえた。自分を責めるのは得意だった。責めれば次に活かせると思い込めるからだ。しかし今は違う。責めても、改善の形が見えない。改善の形が見えないことこそが、人間の精神を削る最も卑劣な刃であると、彼女は初めて身をもって知った。


「……誰かが、邪魔をしている」


 彼女はそう呟いた。声を出したのは、言葉にしないと自分の輪郭が溶けてしまう気がしたからだ。敵は王女ではない。王女はまだ命じていない。王女が沈黙しているという事実は、今はむしろ好都合だ。沈黙は空白であり、空白は誰かが埋められる。埋める者が勝つ。セラフィナはその論理でここまで来た。しかし、空白を埋めるはずの自分の言葉が、ここ数日、空白に吸い込まれて消えていく。彼女はその感覚を、外部からの干渉と呼ぶしかなかった。


 蝋燭の火が、ふっと細くなる。部屋の隅の影が、ほんの少し濃くなり、壁の石の継ぎ目が別の模様に見えた。セラフィナは目を瞬かせ、顔を上げた。誰もいない。扉も閉まっている。窓は細い。侵入は不可能だ。だが、それでも彼女は「誰かがいる」と感じた。人間が感じる気配とは、音や匂いの総合ではなく、理屈に先んじて脳が危険を分類する反応だ。彼女の脳は今、ここを危険として分類している。


「隠れているなら、出てきなさい。私は忙しいのよ」


 彼女は強い口調を作った。支配者は、支配されていることを悟られてはならない。たとえ相手が目に見えなくても、言葉の姿勢で優位を取る。それが彼女が宮廷で学んだ唯一の武器だった。


 その直後、笑い声が聞こえた。


 耳で聞いたのではない。部屋の空気が震えたのでもない。心臓の裏側に、指で軽く弾かれたような振動が走り、それが笑いの形を取った。セラフィナの背筋に、冷たい汗が浮く。恐怖とは、出来事ではなく、意味が分からないことに対する本能的な拒絶である。今の彼女は、その拒絶を飲み込めない。


《忙しいのは結構だよ。忙しさは、人間を簡単に壊す》


 声は軽い。甘い酒のように舌触りがよく、しかし飲み込んだ後に喉が焼ける種類の軽さだった。セラフィナは声の主を見つけようとして、視線を部屋中に走らせる。だがどこにもいない。影の角度がわずかに歪み、蝋燭の火がいつもと違う揺れ方をするだけだ。


「……誰だ」


 問いかけた瞬間、彼女は自分の声が震えていることに気づく。震えを止めようと喉に力を入れると、今度は息が浅くなる。彼女は自分の体が自分の命令に従わない感覚に、さらに苛立つ。その苛立ちが、焦りに変わり、焦りが怒りに変わる。怒りは、恐怖をごまかすのに都合がいい。彼女はその心理の動きを熟知していた。熟知していても、止められない。


《名乗る必要があるのかい。君は、名で人を支配してきた。だから名を欲しがる。だけど私は、君の欲しがる餌をわざわざ与えない》


 声が笑う。セラフィナは歯を噛みしめた。相手は会話の主導権を握っている。言葉の綾で優位に立っているのではない。彼女の頭の中で、彼女が最も嫌う「主導権を奪われた状態」を作り出している。これは人間ではない。人間がこんなふうに、他者の内側へ直接触れることはできない。


「神……か」


 言葉にした瞬間、セラフィナの胸の奥がひやりとした。自分がいま発した音が、世界のどこかに届いてしまったような感覚がある。呼びかけは契約になり得る。彼女は宗教的な教育を受けていなくても、宮廷で生きるうちに、その危険だけは肌で知っていた。


《そう、神。君たちの嫌いなやつだ》


 声が弾む。その弾み方が不気味だった。敬意を求めない。畏怖を求めない。むしろ、畏怖が崩れる瞬間を楽しんでいる。セラフィナはその性質を、直感で理解してしまう。理解したくないのに、理解してしまう。この「理解してしまう」ことが、すでに罠だと彼女は遅れて気づく。


「なぜ私に」


 セラフィナは問うた。彼女はここで、必死に理屈の線路へ戻ろうとしていた。神であろうと、意図があるなら交渉ができる。条件があるなら取引ができる。彼女はそう信じたい。信じなければ、今の自分の恐怖に形がなくなる。


《なぜ私に、だって? 可愛い質問だね。君はいつも、他人に問いを投げる側だった。問いを投げれば相手が答え、その答えの形で相手の立場を決められると思っていた。だけど今は逆だ。君が答える》


 笑いが、もう一度、心臓の裏側を叩いた。


《君は命令を偽った。君は責任を偽った。君は、自分が王になるために、世界の言葉を偽った。そういう人間はね、面白いんだ。崩れるときの音が、とても綺麗だから》


 セラフィナの額に汗が滲む。彼女はこの数日、世界が変わったことを理解していた。だが理解していたのは「大気が人を殺す」程度の話であり、こうして神が個人へ語りかけてくるという現象は、彼女の想像の外側にあった。想像の外側にあるものは、人間の判断を無力化する。無力化された判断を補うために人間は感情へ逃げる。セラフィナはその逃げ道を選びたくなかった。だが、選びたくないという願いが、彼女の手の震えを止めてくれない。


「私は国のためにやっている。あの王女が沈黙しているのは無責任だ。民は死ぬ。兵も死ぬ。秩序は崩れる。だから私は――」


 言葉を継ごうとした瞬間、彼女の舌がもつれた。言葉が口の中で絡まり、思った音にならない。彼女は驚く。口は動くのに、語尾が別の音へ滑る。自分の意志が自分の喉を支配できない。セラフィナは背筋が凍る。呼吸の神罰とは別種の支配だ。これは、もっと個人的で、もっと悪趣味な支配だ。


《国のため。ああ、いいね。正義の衣装は着心地がいいだろう? 君はいつも、他人にそれを着せてきた。着せれば相手が動く。動かせば結果が出る。結果が出れば、君が正しいことになる。君の世界はそういう循環でできていた》


 声は優しい。優しいからこそ残酷だった。セラフィナはその優しさの内側に、爪の先で肉を裂くような意図があることを感じ取る。彼女は必死に立ち上がろうとした。椅子の脚が石床を擦り、音がやけに大きく響く。その瞬間、部屋の隅の影が、ほんの少しだけ形を持った。


 細い男の影だった。角度によっては少年にも見える。肩は軽く、首は長く、笑みだけがやけに鮮明だ。だが目は、見たはずなのに焦点が合わない。セラフィナの脳が「それを見た」という事実を拒絶している。拒絶しても、影はそこにいる。影は、彼女が目を逸らすたびに位置を変え、彼女の視界の端に滑り込んでくる。


「……ロキ」


 セラフィナは名を口にした。伝承の中で、神々の間に混乱を撒き、秩序を笑い、誰よりも執着深いとされるイタズラ神。王都の宗教にその名が定着しているわけではない。だが、なぜか彼女は知っていた。知ってしまった。知ってしまうように、導かれていた。


《そう。よく言えた。褒美に、少しだけ教えてあげる》


 ロキの影が、ふっと揺れた。揺れたのは影ではなく、セラフィナの視界そのものだった。彼女の目の前に、彼女が最も信じていた部下の顔が浮かぶ。忠実で、実務に強く、彼女の命令を実行してきた男だ。男はセラフィナを見下ろし、薄く笑っている。その笑いは、軽蔑の笑いだった。


「違う……そんな顔をするはずがない」


 セラフィナが否定しようとした瞬間、男の背後に別の顔が現れる。今度は、彼女の側近の女だ。女は泣いている。泣きながら、誰かの名前を呼んでいる。その名前はセラフィナではない。セラフィナの心臓が跳ねる。彼女は、裏切りという言葉を頭に浮かべる前に、身体が先に反応してしまう。喉が乾き、唾液が出ない。唾液が出ないと、飲み込む動作がぎこちなくなる。飲み込めないと、呼吸のリズムが乱れる。呼吸のリズムが乱れると、恐怖が増幅する。恐怖が増幅すると、判断が粗くなる。


 ロキは、その連鎖を眺めて笑った。笑うという行為が、ここまで明確に「意図」になることを、セラフィナは知らなかった。


《君は賢い。だから、壊すのが楽しい。賢い人間は、自分で自分を壊す方法をいくつも知っている。私はそれを、少しだけ手伝う》


 セラフィナは机に手をつき、現実へ戻ろうとした。木の硬さ。蝋の匂い。冷えた石壁。これらは確かだ。確かさに縋れば、幻は消えるはずだ。彼女はそう信じた。しかし、指先に触れた木の感触が、途中で粘つく。樹脂のような粘りではなく、皮膚にまとわりつく生温い粘りだ。彼女は慌てて手を離し、掌を見る。何も付いていない。何も付いていないのに、掌だけが「汚れた」と叫んでいる。感覚が現実を裏切り、現実が感覚を裏切る。どちらが正しいかを決められない状態が、人間の精神を最も早く摩耗させる。


《君は、命令が欲しかったんだろう? 命令があれば安心する。命令があれば責任を外へ押し出せる。君はそれを、ずっと人にやってきた》


 ロキの声が、急に近づく。近づいたように感じる。実際には距離はない。距離という概念が、ここでは意味を持たない。声が耳元に落ちる。


《だから今、君に命令をあげる》


 セラフィナは息を呑む。命令は、支配だ。命令を受け取った瞬間、自分は負ける。彼女の理性はそう告げる。だが本能は、命令を欲しがる。命令は輪郭になる。輪郭がなければ、自分が溶ける。セラフィナはその誘惑に抗おうとして、喉が震える。


《君は、今から自分の言葉を信じてはいけない》


 ロキは、笑いを含んだ声でそう言った。


 その命令は、刃だった。セラフィナは息が止まりそうになる。自分の言葉を信じられない人間は、自分の思考を信じられない。自分の思考を信じられない人間は、判断できない。判断できない指導者は、指導者ではない。セラフィナはその論理を即座に理解した。理解した瞬間に、彼女の内側で何かが崩れる音がした。石が割れる音ではない。糸が切れる音に似ていた。


「そんな……ふざけるな」


 彼女は声を絞り出す。怒りの形を借りなければ、泣きそうだった。だが怒りを出した瞬間、ロキの笑いがさらに甘くなる。


《ふざけているのは君の方だよ。君は自分の言葉で人を殺し、自分の言葉で自分を正当化し、自分の言葉で世界を塗り替えようとした。その言葉が、いま君を守ってくれると思うのかい》


 セラフィナの目の前で、部屋の景色がわずかに変わる。壁の石の隙間から、外の篝火の光が差し込むはずなのに、その光が青白い。冷たい色だ。火は赤い。火は温かい。そういう常識が、ここでは役に立たない。役に立たない常識を抱えたまま、人間は生きられない。生きられないから、人間は新しい常識を作る。だが新しい常識は、誰かが与える必要がある。今それを与えているのは、ロキだ。


《君は、君の部下を疑う》


 ロキが告げると、セラフィナの頭の中に、部下たちの会話が流れ込む。聞いたことがない言葉だ。だが声色は知っている。彼女が何度も命令を飛ばし、何度も報告を受けた声だ。その声が、彼女を嘲笑している。彼女の死を語っている。次の王の座を語っている。


 セラフィナは耳を塞ごうとした。耳を塞いでも音は消えない。音は耳から入っていない。音は彼女の内側に直接刻まれている。彼女は喉から呻き声を漏らした。自分が壊れていく音が、自分の口から出ることが耐えられない。


《君は、君の味方を罰する》


 ロキの声が重なる。次の瞬間、セラフィナは部屋の外の廊下へ出ていた。彼女の足が勝手に動いたのではない。彼女が歩いたのだ。歩いた理由が分からないだけで、歩いた事実はある。廊下には兵が二人いた。彼らはセラフィナの顔色を見て、姿勢を正す。しかしその目の奥に、一瞬だけ「怯え」と「計算」が混じる。怯えは神罰への怯えであり、計算は権力への計算だ。セラフィナはそれを見てしまう。見てしまった瞬間、彼女の胸に熱いものが走る。怒りだ。裏切りへの怒りだ。自分を守るための怒りだ。


「あなたたちは……何を隠しているの」


 彼女は問いかけた。問いかけながら、問いの意図が自分でも分からない。分からないのに口から出た言葉は、すでに命令に近い圧を持っている。兵が小さく身を引く。その身の引き方が、彼女には「肯定」に見える。肯定に見えるから、確信が生まれる。確信が生まれるから、罰が正当化される。


 セラフィナは自分の手を上げた。彼女は剣を持っていない。だが彼女の指は、指揮権を持っている。指揮権は、人を殺せる。彼女はその事実を知っている。彼女は低い声で命じた。


「拘束しなさい。二人とも。尋問が必要です」


 周囲の兵が動く。動いたのは、命令があるからだ。命令があると、人は動ける。動けることが、安心になる。安心になるから、命令は強くなる。セラフィナは今、ロキに与えられた命令の中で動いていることに気づかない。気づけない。気づけないように、ロキは彼女の思考の順序を少しずつずらしている。


 拘束された兵の顔は青ざめ、彼らは何も隠していないと訴えた。訴えの言葉は長く、具体的で、必死だった。だがセラフィナの耳には、その言葉の中で「嘘だ」という部分だけが鮮明に残った。鮮明に残るように、ロキが選別している。


《ほら、君は正しい》


 ロキが囁く。囁きは褒美だ。褒美は麻薬だ。セラフィナは褒美を飲み込み、次の行動へ進む。進めば進むほど、戻れなくなる。戻れなくなるほど、正しさが必要になる。正しさが必要になるほど、罰が増える。


 その夜、砦では二人の兵が消えた。処刑ではない。事故でもない。記録の上では「逃亡」になった。逃亡になった理由は、逃亡と書けば責任が薄まるからだ。薄まった責任の中で、人は眠れる。眠れるから、また命令に従える。セラフィナはそれを「秩序の維持」と呼んだ。呼んだ瞬間、胸の奥でロキが小さく笑った。


 翌日、セラフィナはさらに多くの部下を疑い、さらに多くの罰を与えた。罰を与えるたびに、砦の空気は重くなり、兵は互いの目を避け、噂は増殖し、沈黙が粘ついた。沈黙の中で、人間は自分の生存本能を研ぎ澄ます。研ぎ澄ます先は、敵ではない。味方だ。味方が怖いという世界は、すでに崩壊している。セラフィナは崩壊を止めようとしているのに、崩壊の中心になっている。ロキはその矛盾を、最も美味しい果実として味わっていた。


《いいね。君はよく壊れる》


 ロキの声が、ある夜、さらに明確な形を持って響いた。セラフィナが鏡の前に立ったときだった。鏡は磨かれていない。砦に贅沢はない。それでも彼女は鏡を必要とした。鏡がなければ、自分の顔が自分のものかどうかすら分からなくなりそうだったからだ。


 鏡の中の彼女は、彼女の顔をしている。だが目が違う。目の奥に、彼女自身が知らない笑いがある。笑ってはいけない場面で、笑いが残っている。セラフィナはその笑いを消そうとして頬を引き締めた。引き締めたのに、笑いは消えない。消えない笑いは、彼女に恐怖を与えた。恐怖は彼女に怒りを与えた。怒りは彼女に自傷的な決断を与えた。


「私は……私は正しい。私は間違っていない」


 彼女は鏡に向かって言った。言葉を繰り返せば輪郭が戻ると思った。輪郭が戻れば、王になれると思った。王になれれば、世界が自分に従うと思った。


 だがロキは、そこで最も残酷な一手を差し込んだ。


《君は正しい。だから、君だけが間違っている》


 矛盾した言葉が、矛盾のまま彼女の頭へ落ちた。人間は矛盾を解釈しようとする。解釈しようとするほど、精神は回転する。回転が止まらないほど、脳は熱を持ち、眠りは奪われ、幻覚は現実を侵食する。セラフィナの世界では、今、すべての出来事が彼女を証明する材料になり、同時に彼女を否定する刃にもなる。その二重構造が、彼女を逃がさない。


 セラフィナはとうとう、部屋の隅に座り込んだ。膝を抱えた。彼女は自分が弱いからではなく、自分が強いから壊れているのだと理解してしまった。理解してしまった瞬間、涙が出た。涙が出ることが、彼女には最も屈辱だった。屈辱は、彼女の最後の自尊心を燃やした。


「ならば……ならば、私は神に勝つ」


 彼女はそう口にした。勝つという言葉は、彼女が最後まで捨てられなかった麻薬だ。勝てないと分かっていても、勝つと言えば自分が自分でいられる。彼女はその言葉に縋った。


 ロキは、その言葉を待っていた。


《勝つ? いいね。じゃあ、君の魂で勝ってみせて》


 次の瞬間、セラフィナは、自分が死ぬよりも怖れていたものを見た。死ではない。処刑でもない。敗北でもない。誰にも理解されず、誰にも残らず、誰にも正当化されないまま、自分の存在が「嘘」になる未来だ。彼女が積み上げた決断が、決断ではなく「歪み」だったと世界が断定する未来だ。


 その未来が、鏡の中で先に起きた。


 鏡の中のセラフィナは、王冠を被っていた。だが王冠は骨でできていた。兵の骨ではない。彼女が罰した「味方」の骨だった。王座の足元には、彼女が信じたはずの部下たちが膝をつき、誰一人として彼女を見ていない。彼女は王であるのに、誰にも認識されていない。認識されない王は、王ではない。彼女は叫んだ。叫んでも声が届かない。声が届かない世界で、権力は成立しない。


 セラフィナは鏡を叩いた。叩いた拳が痛む。痛みがあるのに現実感がない。現実感がないのに絶望感だけがある。絶望感は彼女を立たせ、立たせた彼女をさらに叩き落とす。ロキはその反復を、丁寧に、飽きるまで続けた。


 彼女の精神が崩れる直前、ロキはようやく姿をはっきりさせた。影は少年のようであり、男のようでもあり、笑みは軽薄で、目だけが深い。深い目の奥に、奇妙な執着がある。その執着がセラフィナへ向けられているのではないことを、彼女はなぜか理解した。ロキが見ているのは、自分ではない。ロキが守ろうとしているのは、自分ではない。ロキが壊そうとしているのは、自分だ。


《君はね、私の子の邪魔をした》


 ロキの声が、初めて感情を帯びた。怒りではない。嫉妬でもない。愛情に似たものだ。だが人間の愛情と違い、それは対象を守るために他者を壊すことを当然とする種類の執着だった。


《私はあの魂を壊さない。壊させない。加護を与えたのは私たちだ。私たちが許さない。だから代わりに、君を壊す。君の魂を、君自身の手でぐしゃぐしゃにして、最後に私が拾う》


 セラフィナは息を吸おうとした。息は吸える。呼吸の神罰ではない。だからこそ残酷だった。息が吸えるということは、苦しみを続けられるということだ。セラフィナは涙をこぼしながら、必死に言葉を探した。交渉したい。謝罪したい。取引したい。何でもいいから、この状態から抜けたい。


「……私は、ただ……王に……」


 言葉が途切れる。王になりたかった。その望みが、ここまで彼女を動かしてきた。その望みが、ここで口にできない。口にした瞬間、自分の望みが幼稚な欲望として露出するからだ。露出すれば、正義の衣装が剥がれる。剥がれた自分は、ただの人間になる。彼女はその「ただの人間」を最も嫌っていた。


 ロキは、彼女のその嫌悪を最後の糸として引っ張った。


《言ってごらん。王になりたかったって。国のためではなく、自分のためだったって。そう言えば、少しは楽になるかもしれない》


 甘い声だった。甘い声は罠だ。セラフィナはそれを理解している。理解しているのに、口が勝手に動きそうになる。口が勝手に動くことが、最も屈辱だった。屈辱は彼女を守る盾であり、同時に彼女を刺す刃だった。


「私は……」


 彼女は言いかけた。言いかけた瞬間、ロキの笑いが弾けた。笑いが弾けた途端、彼女の頭の中で「自分が言ったはずの言葉」が別の意味へ変わる。彼女は「国のため」と言った記憶と、「自分のため」と言った記憶の両方を同時に持つ。両方持つと、どちらが真実か分からない。分からないと、自分が自分でなくなる。


 セラフィナの目が、虚ろになる。


 彼女はその虚ろさを恐れた。恐れたが、逃げられない。逃げ場は砦の外にはない。逃げ場は王都にもない。逃げ場は死にもない。ロキは死をも奪っている。死は救いではなく、最後の幕引きだ。ロキは幕引きを惜しむ。惜しむから、長く遊ぶ。


 そして、セラフィナが完全に壊れる直前、ロキはようやく終わりを与えた。終わりを与えた理由は慈悲ではない。飽きでもない。必要だからだ。次の盤面へ駒を進めるために、不要になった駒を片づける。それだけのことだった。


《さあ、落ちるよ》


 セラフィナの視界が暗くなる。暗くなるというより、色が剥がれる。匂いが消え、音が消え、触覚が薄れる。世界の輪郭が消えると、人は自分が死んだと思う。だがセラフィナは死を確信できない。確信できないまま、ただ落ちていく。落ちる途中で、自分が作った命令が、自分の首に巻きついている感覚がする。命令は言葉だ。言葉は縄になる。縄は締まる。締まるのに息は止まらない。息が止まらないから、苦しみは続く。


 最後に残ったのは、自分は正しかったという確信だった。確信は彼女を守らない。確信は彼女を孤独にする。孤独は彼女の魂を薄くし、薄くなった魂はロキの指先で容易く裂けた。


 ロキは笑いながら、裂けた魂の欠片を拾い上げた。拾い上げる仕草が、子どもが宝石を拾うように軽い。軽いのに、行為は重い。神が魂に触れるという事実は、世界のどんな剣よりも決定的だ。


《これでいい。私の子は傷つかない。君は、私の遊びの痕になる》


 その言葉とともに、セラフィナの意識は完全に砕けた。砕けたが、消えたわけではない。消えることを許されなかった。許されなかったことが、ロキの罰の最後の一撃だった。


 砦の外では、篝火がまだ燃えていた。兵たちは何も知らず、いや、何かが起きた気配だけを感じて互いの顔色を窺い、言葉を飲み込んでいた。誰かが「指導者が姿を見せない」と小声で言い、別の誰かが「今は触れるな」と返す。そのやり取りの奥に、次の裏切りと次の命令の匂いが立ち上り始めていた。


 ロキはその匂いを嗅ぎ、楽しげに息を吐いた。人間の恐怖が膨らむ速度を、彼は誰よりも正確に知っている。恐怖が膨らめば、世界はさらに乱れる。乱れれば、神罰はさらに形を変えて降りる。形が変わるほど、物語は面白くなる。


 そしてロキは、王都の方角を見もしないまま、確信だけを胸に抱いた。


 加護を与えた魂は、壊させない。

 壊れるべきものは、別にある。

 自分が気に入らないものは、必ず先に壊す。


 その執着の輪郭だけが、夜の砦に残り、煙と混じって静かに広がっていった。

どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。

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