第33話 風が命令を思い出した日 ――エンリルの神罰――
最初に変わったのは、音だった。
王都の朝はいつも同じ音から始まる。門の軋み、荷車の車輪、商人の呼び声、兵の足並み。そのすべてが重なり合い、都市という巨大な生き物の呼吸を形作っている。だがその日、メアリーが窓辺に立った瞬間、その呼吸に僅かな乱れが混じった。
風が、止まっている。
完全な無風ではない。旗はわずかに揺れ、髪も動く。だがそれは、空気が動いているというより、世界が「そう見せている」だけの挙動だった。肌に触れるはずの流れが、どこにも届かない。
胸の奥で、紬の意識が即座に反応する。
(来る)
理由はない。予兆でもない。ただ、**もう配置が整った**という確信だけが、唐突に流れ込んでくる。
メアリーは息を吸おうとして、わずかに詰まる感覚を覚えた。苦しくはない。だが、深く吸えない。空気はあるのに、肺がそれを拒んでいるかのようだった。
「……何か、変ですわね」
近侍が言葉を選びながら応じる。その声も、どこか平板だ。音が空気に乗らず、直接耳に触れてくるような違和感がある。
その瞬間、**声が重なった。**
《命令が、忘れられている》
低く、広く、方向を持たない声だった。頭の内側から響くのではない。世界そのものが、意味を持って震えたような感触。
エンリル。
風と大気の神。命令と支配の神。
紬は、即座に理解する。理解してしまう。
(あなたが……始めるのか)
《始める? 違う》
声には感情がない。だが冷たくもない。ただ、**当然のことを告げている**だけだ。
《命令は、守られることで意味を持つ。
守られない命令は、空気と同じだ。
存在していないのと変わらない》
王都の遠くで、鐘が鳴った。
定刻の合図だ。だがその音は、途中で歪み、細く千切れる。
人々が足を止める。
誰もが同じ違和感を覚えている。呼吸が浅い。声が届かない。叫んでも、空気が震えない。
「……息が……」
誰かがそう呟いた。恐怖ではない。ただの確認だ。だが、その確認が広がる速度は、異様だった。
兵士が胸を押さえ、膝をつく。
商人が商品を落とし、拾おうとして失敗する。
人々はまだ倒れていない。死んでもいない。
**だが、支配が始まっている。**
《命令は誰が出した》
エンリルの問いは、紬に向けられている。
答えを要求しているのではない。**確認**だ。
(……偽の命令だ。軍と行政の一部が)
《曖昧だ》
その一言で、風が動いた。
いや、動いたのではない。
**方向を持った。**
突風が吹き抜けたわけではない。王都全体の空気が、一斉に「上から押さえつけられた」。見えない天蓋が降りてきたかのように、空間そのものが重くなる。
呼吸が、さらに浅くなる。
苦しい。だが即死ではない。
肺は動くが、空気が命として変換されない。
メアリーはその場に立ったまま、顔色を変えなかった。変えられなかった。恐怖はある。だがそれ以上に、**これは自分の意思では止められない**という理解が、はっきりしすぎていた。
(エンリル……これは、罰なのか)
《違う》
即答だった。
《これは、命令の回収だ。
誰が命じたか分からない言葉を、
誰もが都合よく解釈する世界は、
呼吸を持つ資格がない》
倒れる者が増える。
だが、全員ではない。
黙っていた者。
命令を疑いながら従わなかった者。
逃げた者ではなく、**選ばなかった者**。
彼らは、苦しみながらも立っている。
誰かが叫ぶ。
「王女が……王女が何かをしたんだ!」
その言葉が空気に乗らないまま、消える。
エンリルは気にしない。
《一人を選んでいない。
だが、世界は常に選択の結果だ》
紬は歯を食いしばる。
この神罰は正しい。理屈としては理解できる。
だが、守りたい者たちが巻き込まれている。
(……彼らは、メアリーにとって)
言い終わる前に、風の圧が変わった。
《理解している》
その一言で、王宮の空気だけが、僅かに緩む。
メアリーの呼吸が、深くなる。
**主人公の魂だけは、傷つけない。**
その加護は、絶対だ。
だが、外では人が倒れ続けている。
《これは警告ではない。
命令が命令であることを、
世界に思い出させているだけだ》
そして、唐突に、風が解放された。
空気が一気に流れ込み、人々は咳き込み、倒れ、泣き、嘔吐する。死者も出た。だがそれは「選ばれた者」ではない。**耐えきれなかった者**だ。
王都は沈黙する。
神罰は終わった。
だが、意味は残った。
メアリーは震える手を握りしめる。
紬の意識が、その内側で静かに言う。
(……これが、神のやり方だ)
救いはない。
説明もない。
だが、次に誰も「知らなかった」とは言えない。
エンリルは、もう語らない。
命令は、世界に刻まれた。
そして神々は、次に動く。
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