第32話 個別神罰の可視化 ―逃げ場の消失―
王女の命令が王都全域に伝達されてから三日目の朝、街は平静を装うことに成功していた。市場は定刻に開かれ、職人は作業場へ向かい、兵士は定められた巡回路を歩いている。遠目には、秩序はまだ生きているように見えた。だが、その秩序を支えているのは安心ではなく、互いの顔色を過剰に窺うことで成り立つ、歪んだ均衡だった。
人々は、もはや「何が起きるか分からない」段階を越えていた。次に来るものが危険であることだけは、誰の目にも明らかだった。ただ、その危険がいつ、どこで、誰に向かうのかが分からない。その不確かさこそが、街の空気を張り詰めさせていた。
南区の倉庫街に住む石材商ヴァルドは、自分がその「誰か」になるとは思っていなかった。彼は表向き、反乱とは無縁の商人だった。剣を持ったこともなく、集会に顔を出したこともない。彼が行ってきたのは、帳簿の数字を調整し、荷の行き先を一行だけ書き換えること、それだけだった。その程度の行為が、自分の生存を脅かすはずがないと、彼は長い間信じてきた。
朝、彼はいつも通り自宅を出た。湿った石畳の感触、夜の名残を含んだ冷たい空気、遠くで聞こえる荷車の軋む音。そのすべてが、昨日までと変わらない。彼は外套の襟を立て、足早に通りを進んだ。頭の中では、今日の取引と、昼過ぎに訪れる客の顔を思い浮かべていた。
異変は、足を止めた瞬間に起きた。
彼は理由もなく立ち止まったわけではない。胸の奥に、説明できない違和感が生じたからだ。寒さでも不安でもない。何かが欠けているような感覚だった。彼は深く息を吸おうとした。だが、肺が動かない。正確には、動かそうとする意志はあるのに、その命令が身体に伝わらない。
喉が塞がれた感覚はなかった。胸が痛むわけでもない。それでも、空気が身体の内側へ入ってこない。彼は二度、三度と呼吸を試みたが、結果は同じだった。そのときになって初めて、彼は理解した。これは苦しさではなく、拒絶なのだと。呼吸という行為そのものが、この世界から彼に対して許可されていない。
彼は周囲を見回した。通りには人がいる。朝の支度を急ぐ女、荷を担ぐ若者、巡回中の兵士。誰も異変に気づいていない。世界は彼を置き去りにして、いつも通り動いている。その事実が、恐怖を一層強めた。
ヴァルドは声を出そうとした。助けを求めるためではない。状況を確認するためだった。しかし、口を開いても音は生まれなかった。声を作るための空気が、彼の身体には存在しなかったからだ。彼はその場に膝をついた。転んだのではない。立っていられなくなっただけだった。
意識が遠のき始める中で、彼の頭には、これまでの行動が断片ではなく、連続した選択として浮かび上がってきた。倉庫の鍵を貸した夜、書類に署名しなかった判断、誰にも説明しなかった取引。そのすべてが、彼自身の意思によるものだった。誰かに強制されたわけではない。だからこそ、彼は理解してしまった。
これは罰ではない。
誰かに裁かれているのではない。
ただ、自分の選択が、この世界の整合性から外れていたという結果が、今ここに現れている。
彼は石畳に額をつけた。祈りではなかった。助けを乞う余裕は、すでに残されていなかった。数呼吸にも満たない時間の後、彼の身体は動かなくなった。霧の残る通りに、異様な静けさが落ちる。
その場に居合わせた人々は、誰一人として悲鳴を上げなかった。代わりに、無意識のうちに自分の胸に手を当て、呼吸を確かめていた。吸える。吐ける。その当たり前の事実が、これほどまでに重く感じられたことは、誰にとっても初めてだった。
同じ日の午後、西区の集会所では、別の神罰が進行していた。
反乱派の連絡役を務めていた女は、仲間を前にして説明を続けていた。彼女は知的で、言葉に説得力があり、これまで多くの人間を導いてきた。彼女自身、その自覚を持っていたし、その自覚こそが自分を安全な側に置いていると信じていた。
だが、その日、彼女の言葉は、意図した形で外に出なかった。
口は動く。声も出る。だが、意味が繋がらない。守ると言おうとすると、排除という語が混じる。正義を語ろうとすると、裏切りという響きが滑り込む。彼女は一瞬、自分の言い間違いだと思った。だが、何度言い直しても同じだった。
周囲の空気が変わる。仲間たちの表情が硬くなり、ざわめきが生まれる。彼女は焦った。自分は間違っていない。そうでなければならない。ならば、間違っているのは世界のほうだ。その思考が強まるほど、言葉はさらに歪んでいった。
彼女は声を荒げた。理解できない者を責め、従わない者を敵と断じた。その瞬間、彼女の中で一つの確信が完成する。自分は正しい。正しいがゆえに、周囲が敵に見える。その確信が、彼女の精神を完全に孤立させた。
彼女はその夜、独房の中で叫び続け、翌朝、死体として発見された。身体に外傷はなかった。だが、その顔には、逃げ場を失った者の表情が刻まれていた。
王都は、この二つの出来事を、偶然として受け取ることができなかった。人々は理解し始めている。神罰とは、雷や炎ではない。人間が人間であるために当然のように行ってきた機能を、選択の結果として正確に奪われる現象なのだと。
王宮で、メアリーは報告を受けていた。彼女は目を逸らさない。命令を出した責任としてではなく、この世界の中心に立つ者として、その現実を受け止めている。クラリスは姉の横で、沈黙の質が変わったことを感じ取っていた。それは恐怖でも迷いでもない。次に進むしかない段階に到達した者の沈黙だった。
個別の神罰は、すでに始まっている。
そしてそれは、誰か特別な存在だけに向けられたものではない。
逃げ場は、もはや存在しなかった。
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