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神罰律導の王女メアリー ―十九柱の黙示録―  作者: 空識


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第30話 最初の命令

 沈黙が限界に近づくとき、人はようやく「動かないことが選択である」という事実に気づく。王都はその段階に入っていた。市場は開かれているのに、そこで交わされる言葉は少ない。門は定刻に開閉されるのに、門を通る者たちは互いの背中を避けるように歩く。兵は巡回しているのに、視線は市民よりも先に、同じ隊の兵の指先へ向けられる。剣の柄に触れる癖が増えたのは警戒ではない。自分がまだ「命令に従う側」でいられるかを確かめるための、落ち着かない仕草だった。


 人々は王女が何も命じていないことを知っている。その事実は、秩序が保たれている証拠であると同時に、秩序がいつ崩れてもおかしくない兆候でもあった。誰もがその二面性を理解しているからこそ、王女の沈黙は次第に重みを増していく。沈黙は慈悲ではなくなり、判断の不在として受け止められ始めていた。そして判断の不在は、勝手な判断を呼び込む。勝手な判断は、基準を拒む者たちの燃料になる。


 役所では、これ以上先送りにできない段階に来ていた。治安担当の部署は巡回経路の変更や人員配置の見直しを何度も提案していたが、そのすべてが最終決裁で止まっている。決裁が下りない理由は単純だった。責任の所在が明確になるからだ。今、何かを決めるという行為は、基準に触れる可能性を自ら引き受けることを意味する。書類は机の上に積み重なり、紙の重みだけが増していく。紙は動かないが、そこに封じ込められた「決めなければならない」という圧だけが、日ごとに濃くなる。


 兵の間でも同じ空気が流れていた。巡回中、兵士たちは互いの視線を過剰に意識する。命令に忠実な者と曖昧に振る舞う者、その違いがいつ致命的な差になるのか分からないからだ。隊長は声を荒げることを避け、指示は必要最低限に抑えられる。強い命令は強い責任を伴う。責任を伴う行為は、今や最も危険な選択のひとつだった。


 王宮の内部でも沈黙は均衡を失いつつあった。使者たちは各地の報告を運び込み、その内容は日に日に重くなる。地方都市では基準を拒む集団が衝突寸前の緊張を生み、要塞都市では一部の部隊が独断で動く兆候を見せ始め、宗教都市では異端と断じられた者が密かに排除され、その事実が表に出ないまま恐怖だけが拡散している。報告書の文面は整っていても、その行間には、現場の汗の臭いと、血の予感と、人々が自分の魂の置き場を失っていく空白が詰まっていた。


 それらを前にしても、メアリーはすぐに命じなかった。命令を出せば世界は確実に一段階進む。その進み方が収束になるのか破裂になるのかは、命令の質とタイミングに大きく左右される。彼女はそれを理解しているからこそ、言葉を選び続けていた。選ぶのは言葉だけではない。どの恐怖に触れ、どの怒りを刺激し、どの誤認を増幅させるかという、世界の神経に触れる指先の置き方そのものを選んでいる。


 クラリスは姉の沈黙が単なる迷いではないことを分かっていた。それでも周囲の空気が変質していくのを感じるたび、胸の奥が締め付けられる。人々が王女の沈黙を慈悲と解釈する段階はすでに過ぎている。今は判断の放棄と受け取られ始めている。その転換点に差し掛かっていることを、クラリスは皮膚の内側で感じていた。自分の姉が王女である前に、ひとりの人間として消耗していくのではないかという恐怖が、手のひらの汗になって滲む。


 紬の意識はさらに冷静だった。基準が作用している以上、完全な安全は存在しない。ならば必要なのは、すべてを制御することではなく、暴走の方向を限定することだ。命令とは世界を止めるためのものではない。世界が壊れない方向へ転がすための最初の力点である。基準そのものを定義することはできないが、人間側の行動範囲を定めることはできる。その違いを理解しているかどうかが、王女としての資質を決定づける。


 王宮の一室で、メアリーは長く息を吐いた。窓の外では夕刻の光が王都の屋根を赤く染めている。その光景は平穏そのものに見える。だが、その平穏の下で積み重なっている緊張を、彼女ははっきりと感じ取っていた。今、ここで何も言わなければ、次に動くのは基準を拒む者たちになる。その動きは粗暴で、誰かを巻き込み、取り返しのつかない血を呼ぶ。その血は、神の力によってではなく、人間の誤認と恐怖によって生まれる血だ。だからこそ止めなければならない。しかし止めるための命令が、別の誤認を生む可能性もある。


 メアリーは理解していた。最初の命令は世界を救うためのものではない。世界が壊れきる前に、壊れ方を限定するためのものだ。正義ではなく、救済でもなく、まずは線を引く。線とは、神の力に抗う線ではない。人間がこれ以上踏み越えてはならない線であり、その線を踏み越えた瞬間に、王権として「成立しない」と宣言できる線だ。


 彼女が立ち上がったとき、その動きは静かだった。だが、その静けさこそが周囲に緊張を走らせる。近侍たちは姿勢を正し、言葉を待つ。誰もがこの瞬間が境目になることを理解している。メアリーは声を張らない。命令の重さは音量で決まるものではない。言葉の選び方と、そこに込められた覚悟で決まる。


 彼女はまず禁止を口にしなかった。禁止は拒絶を生む。拒絶は基準を拒む者たちの燃料になる。そうではなく、彼女は限定から入った。無許可の集会を一律に禁じれば、沈黙を強いるだけで、怒りを地下へ押し込める。武装を伴う集団行動を制限し、治安維持を名目にした独断行動を禁じ、指揮系統を明示し、それを逸脱した行動のみを問題とする。そして何より、曖昧な正義を掲げ、具体的な責任を伴わない命令を「無効」と定義する。


 誰が命じたのか分からない行動、誰の責任か分からない排除、誰の正義か分からない裁き。そのすべてを無効と宣言することで、王女は世界に最初の楔を打ち込んだ。


 命令が伝達され始めると、王都の空気がわずかに変わる。人々は安心したわけではない。恐怖は残る。だが、「何をしてはいけないのか」ではなく、「何をすれば確実に逸脱になるのか」が示されたことで、行動の指針を得た。恐怖が怒りへ変換される速度は、確実に落ちた。それでも、すべてが収まるわけではない。基準を拒む者たちはこの命令を弱さと解釈するだろう。理解しようとする者たちは時間稼ぎと見るかもしれない。だが、メアリーはその評価を恐れなかった。最初の命令に必要なのは喝采ではない。次の命令へ繋げるための最低限の秩序だった。


 命令が出た瞬間、世界は再び一歩進んだ。戻ることはできない。その事実を、メアリーは受け止めている。裁かないという選択は、もはや成立しない段階に近づいている。それでも今は、裁く前に枠を示す。その枠の中で人々がどう動くのかを見極める必要があった。


 神々は相変わらず語らない。だが、基準は確実に作用を続けている。王女の命令がその作用とどう交差し、どのような歪みを生むのか。それを見届ける覚悟を、メアリーはこの瞬間に引き受けた。最初の命令は静かに出されたが、その静けさこそが、次の混乱を呼ぶ火種にもなり得ることを、彼女自身が誰よりも理解していた。

どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。

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