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神罰律導の王女メアリー ―十九柱の黙示録―  作者: 空識


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第26話 選別の始動

重要な展開が続いています。

 王都アルセリアにおける変化は、ある朝、記録の形で最初に表に現れた。


 門の通行制限は前日と同じで、巡回の頻度も増減はない。市場の価格も、急激な高騰や混乱を示す数字は並んでいなかった。内務局の報告書だけを見れば、前日と何も変わらない。むしろ、混乱が抑えられつつあるようにさえ見える。


 だが、現場の空気は違っていた。


 東区にほど近い兵の詰所で、夜明け前の点呼が始まったとき、誰もが理由を言葉にできない違和感を覚えていた。欠員が出たわけではない。命令が変更されたわけでもない。それでも、兵たちは互いの顔を必要以上に確かめるように視線を動かし、名を呼ばれるたびに小さく息を吐いていた。


 剣を抜いたあの若い兵士も、そこに立っている。


 彼は昨夜、ほとんど眠れなかった。処罰されるわけでもなく、かといって免責されたわけでもない状態が、彼の思考を摩耗させていた。自分の行動は正しかったのか。少なくとも、上官は何も言わなかった。それは承認なのか、それとも切り捨てなのか。判断がつかないまま朝を迎え、彼は再び槍を手に取っている。


 点呼が終わり、巡回の指示が出る。その内容は昨日と同じだった。区域も、時間も、特別な警戒命令はない。だからこそ、彼は一瞬、安堵しかけた。何も変わらないのであれば、自分は昨日の延長として立っていればいい。


 そのときだった。


 詰所の奥で、書類を整理していた下士官が、突然言葉を失った。声を上げることもなく、ただ手にしていた紙束を落とし、そのまま膝を折る。誰かが冗談だと思い、名を呼びかけるまでに、数秒の空白があった。その空白が埋まったとき、彼はすでに動かなくなっていた。


 原因はすぐには分からない。


 外傷はない。毒の痕跡もない。争った形跡もない。ただ、心臓が止まっている。医師が呼ばれ、形式的な確認が行われるが、誰も確信を持った説明を与えられなかった。過労だろう、という言葉が、最も無難な結論として採用される。


 だが、その場にいた兵たちは、奇妙な一致に気づいていた。


 倒れた下士官は、昨夜、東区の件について最も強く「現場判断は正しかった」と主張していた人物だった。命令がなかった以上、剣を抜いた兵を責めるのは間違いだと、彼は繰り返し言っていた。責任は曖昧にしておくべきだと、それが部隊を守ることになるのだと。


 誰も、その言葉を否定しなかった。否定すれば、自分が次に問われるかもしれなかったからだ。


 詰所には、説明のつかない沈黙が落ちた。


 その日の昼前、別の場所でも、似たような出来事が起きている。


 内務局の文書保管室で、長年勤務してきた書記官が、記録の整理中に倒れた。彼女は規則を重んじ、命令がない限り動かないことで知られている人物だった。王女裁判が凍結された後も、彼女は「何も決まっていない以上、これまで通りの手続きを続けるべきだ」と主張していた。


 彼女もまた、外傷なく、突然命を落とした。


 医師の見立ては同じだった。急性の発作。偶然が重なった不幸な事例。統計的には、起こり得ないわけではない。


 だが、王都の空気は、それを偶然として受け取らなかった。


 市場では、人々が言葉を慎重に選び始める。

 詰所では、兵が互いの判断を確かめ合うようになる。

 官庁では、書類の決裁が必要以上に遅れ始める。


 誰も「神罰」とは言わない。

 誰も「選別」とは口にしない。


 それでも、人々は無意識に理解し始めていた。


 ――何かが、見ている。

 ――何かが、区別している。


 王宮では、メアリーがその変化を、はっきりと感じ取っていた。


 誰かが助けを求めたわけではない。

 神々が名を告げたわけでもない。


 ただ、世界の流れが、一つの方向へと収束し始めている。


 クラリスは、姉の横顔を見つめながら、言葉にできない不安を抱えていた。昨日まで、沈黙は選択だった。だが今、その沈黙が、誰かの生死に結びつき始めている。その現実が、彼女の胸を締め付ける。


 紬の意識は、冷静に状況を整理していた。


 これは裁きではない。

 命令でもない。

 ましてや、感情的な報復でもない。


 人々が選び続けた結果が、個別事象として返ってきているだけだ。


(……始まった)


 それは宣言ではなく、確認だった。


 神々は、まだ前に出ない。

 だが、**もう止まらない段階に入った**。


 選別は、静かに、しかし確実に進行していた。


 王都で起き始めた出来事は、公式記録の上ではすべて「説明可能な範囲」に収められていた。急性の発作、過労、持病の悪化。医師の診断はどれも形式としては正しく、内務局の報告書も、それ以上の踏み込みを必要としない書き方で整えられている。誰も虚偽を書いていない。だが、誰も核心に触れていないという点で、それらは同じ性質を持っていた。


 旧評議院棟の地下会議室に再び集まった三人は、その報告書を前にして、微妙に異なる反応を示していた。


 エドワード・ヘイルズは、数字と文言を丹念に追いながら、胸の奥に広がる不快感を抑え込もうとしている。偶然だ。そう結論づけることはできる。統計的にも、同じ日に複数の急死が起きること自体は、完全に否定できない。彼はそれを理解しているし、理解しているからこそ、なおさら不安を感じていた。


 もしこれが偶然でないとすれば、問題は自分たちの手を離れる。制度で管理できない現象が、制度の内部で起きていることになる。その可能性を認めることは、官僚としての彼自身を否定することに等しい。だから彼は、慎重に、しかし確固として「偶然」という枠に事態を押し込めようとする。


「……現段階では、関連性を示す証拠はない」


 彼がそう口にしたのは、理性的な判断であると同時に、自分自身を守るための言葉でもあった。もし関連性を認めれば、次に問われるのは「では、どう対処するのか」という問いだ。その問いに、彼は答えを持っていない。


 ローレンス・グレイは、エドワードの言葉を聞きながら、報告書の行間に目を走らせている。兵の詰所で倒れた下士官の経歴、内務局で亡くなった書記官の立場。二人に共通しているのは、命令の欠如を肯定し、現場判断を是とした点だった。彼はそれを、偶然として片付けるには無理があると感じている。


 だが、ローレンスもまた、声を上げられずにいた。もしこれが偶然でないとすれば、軍は次にどう動くべきなのか。敵が見えない状況で、兵に警戒を促すことはできない。見えないものを恐れさせることは、さらなる混乱を招くだけだ。彼は軍人として、その危険性を熟知している。


 マーガレット・クレインだけが、二人とは異なる結論に辿り着いていた。


 彼女は、これを超常現象として捉えていない。神の介入だとも考えていない。重要なのは、原因ではなく効果だ。王都で起きている出来事が、人々の行動をどう変えているか。それだけを見れば、答えは明白だった。


 人々は、曖昧な判断を避け始めている。

 責任を分散させる発言を控え、立場を明確にしない態度を恐れ始めている。

 命令を出さないことが、安全ではなくなりつつある。


 それは、王女の存在をめぐる空気を、一段階変質させる。


「偶然だと断定して構わないわ」


 マーガレットは、あえてそう言った。その言葉が、二人に安心を与えることを知った上での発言だ。だが、彼女の内心では、別の計算が進んでいる。偶然だと断定すること自体が、次の選別を呼び込むという事実を、彼女は理解していた。


 もし偶然だと言い切れば、人々は「では次は誰だ」と考え始める。考え始めた瞬間から、行動は変わる。誰もが、自分が安全な側にいることを示そうとする。その結果、象徴に近づき、判断を明確にし、曖昧さを捨てようとする。


 その象徴が、王女メアリーである限り、流れは一方向に収束する。


 マーガレットは、それを止める気はなかった。むしろ、利用するつもりでいる。王女を直接排除する必要はない。だが、王女が「何もしない存在」でい続ける限り、周囲が勝手に動き、やがて彼女を中心に混乱が集積する。その段階で、「秩序を回復するための措置」が正当化される。


 この国の主を、誰が務めるのか。

 その問いに、再び答えを与える時が近づいている。


 一方、王宮では、事態を別の角度から捉えている者たちがいた。


 メアリーは、王都で起きている個別の出来事を、断片としてではなく、連続した流れとして感じ取っている。神々が語りかけてきたわけではない。具体的な未来が見えるわけでもない。ただ、世界が「選んでいる」という感覚だけが、確かに伝わってくる。


 クラリスは、その変化に戸惑いを隠せずにいた。誰かが裁かれたわけではない。命令が下されたわけでもない。それでも、人が死に、空気が変わり、誰もが自分の立場を気にし始めている。その現実を前にして、沈黙を選び続けることが正しいのか、彼女には判断できなかった。


 紬の意識は、二人の間に静かに存在しながら、かつての世界を思い出していた。曖昧な判断が積み重なり、誰も責任を取らない構造が続いた末に、取り返しのつかない事態が起きる。その過程を、彼女は何度も見てきた。


 だからこそ、彼女は理解している。ここで力を振るえば、選別は裁きに変わる。裁きに変われば、世界は敵と味方を単純に分け始める。それは、神々の加護が最も避けるべき未来だった。


 メアリーは、静かに王都を見下ろしながら、自分が置かれている立場を受け止めていた。何もしないという選択が、すでに重い意味を持ち始めている。だが、今はまだ、止める段階ではない。選別がどのような形で進むのかを、見極める必要がある。


 次に起きる出来事は、偶然では済まされない。

 誰かが「自分は安全だ」と誤認した瞬間、選別は一段階進む。


 王都は、すでにその誤認を待ち始めていた。

どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。


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