第24話 最初に血が流れた日
王都が静まり返っていたのは、ただ不安が広がったからではない。命令の形をしたものが、街のどこにも掲げられないまま、確かに人々の生活へ入り込み始めていたからだ。
議会は沈黙し、王女裁判は凍結された。勅命も布告もない。それなのに二日前から、巡回の頻度は増え、兵の立ち位置は変わり、夜の門限は「慣例」として厳しくなった。誰かが決め、誰かが命じている。だが、その“誰か”の名だけが徹底して消されている。
王宮官僚の一部と軍司令部の上層が、互いの責任を曖昧にしながら同じ文言を流していた。
――治安を最優先せよ。集団は解散させよ。判断は現場に委ねる。
その命令は文書にならない。署名もない。公示もしない。口頭で伝わり、口頭で分岐し、最後は「現場判断」という言葉で末端へ押し付けられる。
意図は明確だった。もし血が流れても、誰も“決めた”とは言えない仕組み。
そして、血が流れたという事実だけをもって、さらに強い統制へ踏み込める仕組み。
反乱は剣から始まるのではない。命令系統が腐るところから始まる。
その腐臭は、まだ多くの民には“噂”としてしか届いていない。それでも、兵は知っている。従わなかった者は切り捨てられる。守られなくなる。次に消されるのは自分かもしれない。
その恐怖が、王都の空気を硬くしていた。
王都アルセリア東区。城壁に沿って続く倉庫街は、朝の光を拒むように建物が密集し、石畳の隙間に夜の冷気を溜め込んでいた。空は晴れている。それでもこの通りに差し込む光は鈍く、影は長く伸び、重なり合い、誰かの背中と背中を縫い止めるように貼り付いている。
空気は湿り、乾ききらない木材の匂いと、錆びた鉄、皮革の油の匂いが混じり合い、深く息を吸うと喉の奥がひりついた。荷車の軋む音も、工房から漏れる金属音もない。ただ、人の足音と衣擦れだけが、必要以上に大きく響く。
この場所が選ばれたのは偶然ではない。
王宮から遠すぎず、だが目が届きにくい。商業区と職人区の境界にあり、身分も立場も曖昧な者が集まりやすい。何より、ここで起きた出来事は「事故」にも「暴徒の衝突」にも見せかけることができる。
昨夜から、この一帯には人が集まり始めていた。誰かが声をかけたわけではない。命令も、檄文も、旗もない。ただ噂が噂を呼び、沈黙が沈黙を引き寄せただけだ。
「王女裁判は凍結されたらしい」
「議会は何も言わない」
「……じゃあ、次は誰が選ばれる」
酒場で交わされたそんな言葉が、夜明けとともに人々の足をここへ向かわせた。抗議でも、忠誠でもない。ただ、黙って切り捨てられる側になりたくないという、極めて切実で、極めて個人的な恐怖だった。
倉庫の前に集まった人々は、誰一人として武器を持っていなかった。職人、荷運び、下働き、商人、年老いた男、顔にまだ幼さの残る若者。誰もが互いと距離を取り、視線を合わせることすら躊躇している。声を張り上げれば、次の瞬間に「危険分子」になると分かっていた。
それでも、誰かがここに立たなければならなかった。
人が増えれば増えるほど、沈黙は重くなる。咳払い一つで、何人もの肩が強張る。誰かが足を引きずる音が、やけに大きく響いた。
「……軍が来る」
それは警告というより、確認だった。
通りの影から姿を現したのは、五人の兵士だった。簡易鎧。剣はまだ抜かれていない。歩調は揃い、視線は前方を外さない。その背後、さらに奥の路地には、もう一隊が控えている。表に出る役と、裏で封じる役。配置は整っていた。
これは偶発ではない。
ここは、最初から「起こすため」に選ばれている。
先頭の兵士が足を止める。声は張らない。それでも通りの空気が一段、硬くなる。
「解散しろ」
短い命令だった。だがその裏には、命令を出した上官の焦りが折り畳まれている。
――ここで騒ぎが拡大すれば、責任は現場に落ちる。
――だが、何もせずに引けば、“王女寄り”と疑われる。
――疑われた者は、次に守られない。
兵士自身も分かっていた。命令は「鎮圧」ではない。「解散させろ」だ。威圧し、距離を保ち、最悪でも押し返す。それまで何度もやってきたことと変わらない。
だが、状況が違った。
王女の存在が、彼の剣を重くしたのではない。
「正しさを示さなければ、疑われる」という空気が、
彼から制動を削り取っていった。
「理由を聞かせてもらえますか」
声を上げたのは、中年の職人だった。背後には仲間がいる。年老いた荷運び、怯えた商人、逃げ場を失った若者。彼らの視線が、無言で彼の背中を押している。
ここで引けば、自分は“選ばれなかった側”になる。
「理由は不要だ」
兵士の声が低くなる。
「集会は禁止されている」
「集会は禁止されている」
その言葉が兵士の口から落ちた瞬間、民の側にざわめきが走ったのは、反発というより“確認”だった。禁止――そう命じた布告が、王都の壁にも門にも掲げられていないことを、ここにいる誰もが知っていたからだ。
法律として常に禁じられているわけではない。市場の寄り合いも、同業者の会合も、教会の集会も、昨日までは当たり前に行われていた。だからこそ、今この場で「禁止」と言い切るには、本来なら根拠が必要になる。
だが、その根拠は見せられない。見せる文書がない。
命令は存在するのに、命令の形が存在しない。
昨夜、詰所で兵に渡されたのは、紙ではなく言葉だった。上官は言った。
――治安を最優先せよ。五人以上の滞留は解散させよ。抵抗があれば排除せよ。
そして最後に、必ずこう付け加えた。
――判断は現場に委ねる。
従わなければ、疑われる。弱腰と見なされる。王女寄りと見なされる。
その疑いが一度つけば、次に何が起きても誰も助けない――それだけは、兵も民も肌で知っている。
禁止。
誰が。
いつ。
どこまで。
問いが喉までせり上がるが、誰も整理できない。整理する余裕がない。
「……議会は、もう何も命じていない」
若い商人が言った。声は震えている。
「裁判も凍結された。だったら、今ここで俺たちを止める理由は何だ」
論理としては粗い。だが感情としては鋭かった。
兵士の眉が、わずかに動く。
その瞬間、背後の兵が一歩前に出た。
――躊躇すれば、弱腰と見なされる。
――弱腰は、次の選別対象だ。
誰も声に出さない計算が、同時に働いた。
「下がれ」
「これ以上は――」
言葉は、最後まで届かなかった。
誰が押したのかは分からない。躓いたのか、恐怖が足を前に出させたのか。人がぶつかり、列が崩れ、距離が消える。混乱は一瞬で十分だった。
剣が抜かれた。
金属音は鋭く、冷たく、通りの奥まで響いた。刃が振るわれる。深くはない。だが、若い職人の前腕が裂け、赤が噴き出す。血が石畳に落ち、朝の光を反射する。
赤は、あまりにも鮮やかだった。
時間がずれた。
誰かが叫ぶ前に、全員が理解した。
これが“最初”だということを。
ここから先、誰も無関係ではいられないということを。
神の声はない。
裁きの宣告もない。
ただ、選択が選択として返ってきただけだ。
血が落ちた瞬間、通りの空気は一度だけ止まった。誰もが叫ぶ前に理解してしまったのだ。これはただの小競り合いではない。ここから先の王都は、戻れない。
そして、その理解を最も必要としている者たちが、王都のどこかにいる。彼らは姿を見せない。姿を見せれば責任が生まれる。責任が生まれれば反乱は名を持ち、正当性を失う。
だから彼らは、命令を曖昧にし、現場判断に押し付け、血が流れたという事実だけを欲した。
最初の血は、偶然であってはならない。象徴でなければならない。
――王都は統制されねばならない。
――統制のためには、恐怖が必要だ。
――恐怖のためには、誰かが最初に傷つかねばならない。
その思想が、まだ名を持たぬまま、王都を覆い始めていた。
――そしてその瞬間だった。
メアリーの視界が、王宮の窓景から引き剥がされるように歪んだ。眩暈ではない。意識が遠のいたのでもない。世界が、強引に彼女の感覚を掴み、別の場所へ引きずり込んだのだと、即座に理解できるほどの明瞭さだった。
東区――倉庫街。
石畳の冷たさが、足裏から伝わる。朝の湿気。錆びた鉄と皮革の匂い。人の呼吸が近すぎる距離で交錯する圧迫感。誰かの喉が鳴る音、剣の鞘が擦れる微かな金属音。そこに立っている“誰か”の視点で、彼女は見ていた。
いや、見させられていた。
視界の端で、兵の指が剣の柄にかかる。その瞬間に生じる迷いと、理屈で押し殺される恐怖。次の瞬間、刃が抜かれ、金属が空気を裂く音が、頭の内側に直接叩き込まれる。
血。
若い腕から噴き出した赤が、石畳に散る。その温度。その匂い。その色が、誇張もぼかしもなく流れ込んでくる。叫びが遅れて上がり、混乱が連鎖し、「これはもう戻れない」という理解が、その場にいる全員の胸に同時に落ちる。
――世界法則が、初めて破られた瞬間。
映像は、唐突に切れた。
メアリーは王宮の床に足をつけたまま、激しく息を詰まらせた。胸の奥が焼けるように痛み、喉が張り付く。視界は戻っているのに、あの血の色だけが、まだ網膜の裏に残っている。
「……来た」
声は、彼女自身のものとは思えないほど掠れていた。言葉を選ぶ余裕などない。ただ、事実だけが喉を突き破る。
「最初の……血が……」
クラリスが反射的に支えようとするより早く、メアリーは自分の足で立ち直った。倒れれば楽だった。目を閉じれば、あの光景から逃げられた。だが、それを選んだ瞬間、この血は「王女が耐えきれなかった結果」になる。
それだけは、許されないと理解していた。
(これが、内戦の入口だ)
紬の声が、重く、しかし異様なほど静かに沈む。
(最初の血は、誰かの悪意じゃない。
正しさを守ろうとした人間たちが、同時に一線を越えた結果だ。
だからもう、誰も“知らなかったふり”はできない)
メアリーは歯を食いしばり、王都を見据えた。そこにあるのは救済の幻想でも、裁きの快感でもない。世界が、自分の感覚を通じて“現実を通知してきた”という、否定しようのない事実だけだった。
最初の血は流れた。
そして王都は、
その血が「合図」だったことを、
理解してしまった。
どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。
ブックマーク・ポイント⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️・感想など、励みになります!




