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神罰律導の王女メアリー ―十九柱の黙示録―  作者: 空識


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第23話 新秩序の軋み――血の匂いが戻る朝

 王都アルセリアの朝は、静かというより、重かった。音が少ないのではない。音が空気の奥へ沈み、外に出る前に押し潰されているような、そんな圧が街全体に張りついていた。夜の名残の冷気が石畳の隙間にこびりつき、鼻を刺す湿った匂いが喉の奥に残る。窓を開ければ、いつもなら市場の掛け声が先に飛び込んでくるはずなのに、今日は人の息遣いと衣擦れの音だけが、遅れて、慎重に漂ってきた。


 広場の噴水は動いている。だが、水の跳ねる音が妙に遠い。旗ははためいている。だが、風の鳴き方が弱い。鳥は飛び、羽音もあるのに、どれも「世界の外側」で起きているように感じる。誰もがそれを言葉にできず、言葉にした瞬間、何かに触れてしまう気がして、唇を閉ざしていた。恐怖というより、自覚だ。嘘が息をする前に、胸の奥で引っかかる感覚。悪意が形になる前に、喉が渇く感覚。王都はもう、元の王都ではない。


 市場の端で、干した果実を並べる老人が、いつもの癖で声を張ろうとして、途中で止めた。口を開いたまま、舌が鉛のように重くなるのを自分で確かめるように、短く咳払いをしてから、隣の若い商人へ小声で言う。「……今朝、鳥が鳴かなかったな」若い商人は顔を上げ、空を一度見て、すぐに視線を落とした。喉仏が上下し、王宮の方角を避けるように肩がわずかに丸まる。「鳴いたさ。……ただ、耳が拾わなかっただけだ」言いながら、自分の言葉が嘘になっていないか確かめるように、無意識に胸元へ手を当てていた。


 王宮北棟。隔離区画と呼ばれていた場所は、もはや隔離ではなかった。あの透明な膜は消え、代わりに空間そのものが、薄い熱で揺れている。窓から差し込む朝の光が、床の模様をなぞるたびに、輪郭だけが一瞬遅れて追いかけてくる。蝋燭の炎が燃えているのに、ゆらめきが「跳ねない」。空気が柔らかいのではなく、粘りを持っている。触れられないはずのものに、指先が触れてしまいそうな、気味の悪い近さ。


 メアリーは窓辺に立っていた。王都を見下ろす瞳は澄んでいる。だが、澄んでいるのに疲れている。眠れていない疲れではなく、世界の底から押し上げられる情報に晒され続けた者の疲れだ。王都の人間が何かを考えるたび、祈るたび、怯えるたび、その重さが彼女の胸の内へ、微かな波として届く。匂いでも音でもない。意図の震えだ。


「……血の匂いがする」


 メアリーの口から零れた言葉は、朝の光に似合わないほど生々しかった。クラリスは背筋を伸ばし、反射で「姉上」と呼びかけたものの、否定の言葉が喉に引っかかった。確かに、血は流れていない。王都のどこにも、目に見える争いは起きていない。それでも、彼女自身もまた、舌の奥に鉄の味を感じていた。空気が乾いているだけではない。人間の決意が擦れる匂いだ。


「まだ、何も起きていません。……けれど、起きようとしているのは分かります」


 クラリスの声は震えないように整えられていたが、指先は僅かに白い。メアリーは窓枠を掴んだ。石の冷たさが掌に刺さり、同時に、自分がまだ人間の皮膚を持っていることを思い出させる。


(起きてるよ。まだ形になっていないだけで、もう人は“殺す理由”を探し始めてる)


 胸の奥で、紬の声が落ち着いて響いた。以前のような怒りの刃はない。だが、静かな確信は、刃よりも冷たく胸に残る。メアリーは目を閉じ、吐息をゆっくり落とした。


「紬……あなたは、怖いの?」


(怖い。だけど、それ以上に嫌なんだ。人が、弱さを正義の仮面で覆って、また誰かを踏みつけるのが)


 紬の言葉の端に、路地の湿った匂いが混じった気がした。刺された夜の冷たさが、メアリーの背中をなぞる。メアリーは肩を落とさないまま、ただ声を低くする。


「世界が落ち着いたわけじゃない。……ただ、息を整えているだけ。次に殴るために」


 クラリスの喉が小さく鳴った。姉の言葉が、予言ではなく、観測であることを知っているからだ。メアリーが恐怖を煽りたいなら、もっと大きな言葉を選べる。けれど彼女は、事実だけを拾っている。世界が見せる、あまりにも正確な兆しだけを。


 同じ時刻。王都南部、軍本部に近い兵舎では、汗と油と金属の匂いが壁に染みつき、そこへ焦りの熱が上塗りされていた。鎧の擦れる音、革靴が床を叩く乾いた響き、机を叩く拳の鈍い音が、互いにぶつかり合っては引っ込む。兵たちの視線は真っ直ぐ前を向いているのに、どこか泳いでいる。誰もが同じ問いを飲み込んでいる――王女に刃を向けることは、世界に刃を向けることなのか。


「議会が王女裁判計画を“凍結”しただと?」


 低い声が室内に落ちた。凍結、という言葉は本来、保留を意味する。だが今の王都では、保留は逃避と同義だった。答えを先送りにするほど、世界の視線が重くなる。それを分かっているから、笑いも怒鳴りも続かない。


「破棄じゃない。様子を見てる。……神罰が次にどこを噛むか、な」


 誰かが鼻で笑った。だが笑いは乾き、すぐ喉の奥で折れた。別の男が、言葉を噛み砕くように吐く。


「問題は議会じゃない。軍が割れたままだってことだ。保護派と危険視派――どっちも正しいと思ってる。正しいと思ってるまま、相手を“国家の敵”にできる。その瞬間、血は流れる」


 この言葉に、周囲の兵が一斉に目を伏せた。誰も否定しない。否定できない。剣を握る手が、ほんの僅かに湿る。内戦は、戦の形を取る前に、心の中で始まる。


 王都北区。かつて聖樹教会の香が満ちていた区画は、いま匂いがない。香を焚けないのではなく、焚く意味が溶けた。石と木と、湿った紙の匂いだけが残り、人々は言葉を選ぶのではなく、感情を選んで歩いていた。祈りは声にならず、視線だけが王宮へ伸びる。誰かが囁く。


「王女殿下は、何も命じていない。それなのに、世界が勝手に正しくしようとしてる……」


 別の女が唇を噛み、幼い子を抱き直す。子の頬は赤く、息は甘い。けれど母親の目は笑っていない。「正しく、って……誰が決めるの。私たち、昨日までだって正しいつもりで生きてた。だけど誰かが泣いてても、知らないふりをした。今は……知らないふりができないだけよ」


 その言葉の重さが、王都全体へ染み込む。救済ではない。改心でもない。逃げ道が狭まっただけの、静かな恐怖。人間はそれを“秩序”と呼び始める。


 王宮に戻る。メアリーは瞼を下ろし、胸の奥へ流れ込む波を受け止めていた。怒り、恐怖、正義感、自己保身、それらが混ざった濁流が、王都のどこかで泡立つたびに、彼女の呼吸がわずかに浅くなる。世界が「王女を中心に回る」というのは、王女が命令するという意味ではない。王女の感覚が世界の感覚と直結してしまうという、呪いに近い状態だ。


(来るよ)


 紬の声が、早すぎず遅すぎず、心臓の鼓動に重なった。


(これは崩壊じゃない。人間同士が選ぶ戦争。神罰が始めるんじゃない。人が始める。だから厄介なんだ)


 クラリスが、姉の袖を掴んだ。掴んだ指先が震えないように、爪が布へ食い込む。


「姉上……それでも、前に立つんですね」


 メアリーは目を開けた。瞳の奥にあるのは陶酔ではない。恐怖の放棄でもない。自分が中心に据えられた現実を、ひとつも誤魔化さない決意だ。万能感は、彼女の中に確かに芽を持ち始めている。世界が反応するのを知ってしまったからだ。だが彼女は、その万能感を快感に変えない。刃の柄を、汗まみれの手で握り続けるように、重さとして持つ。


「ええ。私が望まなくても、世界は私を中心に動く。なら……せめて私は、見届ける責任を引き受ける。逃げて、誰かが代わりに壊れるのは、もう嫌なの」


 紬が、微かに笑った気配がした。路地の闇ではなく、朝の空気に似た静けさで。


(万能である必要はない。だけど、弱くはない。あなたはもう、誰かの悪意に“殺されるだけの存在”じゃない)


 その言葉が、メアリーの背骨を真っ直ぐにした。クラリスは姉の横顔を見上げ、唇を震わせながらも、声を落とさずに言い切る。


「姉上が人でいるために、私がいます。姉上が世界に飲まれないように、私がここに立ちます」


 その瞬間、王都の外から風が戻った。遅れてきた風は、花の匂いを運ばない。干した皮革と鉄、汗、そして遠くの煤の匂いを運んだ。戦の匂いだ。目に見えない火種が、誰かの胸の中で火を噛み、いよいよ煙を上げ始めた匂い。


 メアリーは窓の向こうにある街を見て、ゆっくり言った。


「始まる。……血が流れる前に、誰かが“理由”を叫ぶ。その叫びが正義の顔をしていたら、いちばん危ない」


 そして、彼女の胸の奥で、十九柱の存在が静かに重なった。声ではない。命令でもない。ただ、観測が深くなる感覚。世界が呼吸を整え、次の瞬間に備える感覚。


 王都はまだ、血を見ていない。だが血の匂いは、もう戻っていた。

どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。


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