case1 食堂店員のシングルマザー ハンナ・バートン 元女剣士 30歳(1)
子育ては送迎に始まり送迎に終わる。
ハンナ・バートンは帰り道を急いでいた。
日没までに近所に預けている3人の子どもたちを迎えに行かなければらない。女手ひとつで3歳の女の子と5歳の双子の男の子を育てているハンナに、ゆっくり歩ける道などない。
最初はハンナに同情して快く預かってくれた老婆も、この頃では顔を合わせる度に厭味を言ってくるようになった。自分に文句を言うならともかく、最近では子供たちに
「あんたたち3人をひとりで育てるなんて無理な話だよ。せめて一人ならねぇ」
なんて言い聞かせるようになってしまった。
そんなことしか言わない老婆の家の隅で、暗い顔でじっと自分の帰りを待っている子どもたちを見るのは辛い。しかし、老婆を黙らせるほどたっぷり謝礼を渡すことも、別の預け先を見つけることも、今のハンナにはできないことだった。
朝から夕方まで、下町の食堂で給仕として働くハンナの収入はたかが知れている。
狭いながらもそれなりの家を借り、3人の子どもたちを飢えることなく食べさせるだけで精一杯。
特別な日の外食や、ちょっとしたお菓子を買ってやることも、暇つぶしのための本や玩具を買ってやることもできない。読み書きだけはハンナが教えてやっているが、それも彼女に余裕がある時だけだ。先の見えない未来から目を背けるように、ハンナはさらに足を速めた。
「こんな時間まで働くなんて、子どものいる女がやることじゃないよ。まあアンタも大変なんだろうけどねぇ。あたしだって女ひとりで息子を育てたからアンタの気持ちはじゅうぶん分かるつもりだよ。だけど、子どもと一緒にいてこそじゃないかい?もう少し働く時間を短くしたって食べていけるんだからさ。あたしは昼下がりまでしか働かなかったよ。息子のことが一番大事だったからねぇ。」
まるでハンナが子どもを大切にしていないような口ぶりだ。ハンナはすみません、と頭を下げるしかなかった。シングルマザーの気持ちをよくわかっているなら、もう黙って欲しい。そもそもそっちは息子一人で、実家が近くにあって預けて働いていたんだろう?昔と比べたら物価もずいぶんあがったのに、給料は昔と変わらないまま。頼る先もなく3人育てている自分と一緒にしないで欲しい、という反論をぐっと飲みこむ。夫の急逝という予想外の不幸があったとはいえ、この道を選んでしまったのは他ならぬ自分なのだから。
暗い6つの小さな瞳が、早く帰ろうと言わんばかりにじっとハンナを見上げている。まだ小さくたって、何を言われているかはなんとなく理解できるのだ。老婆はそんなことはおかまいなしに喋り続けた。
押し付けるように謝礼を渡して老婆の家を後にしたが、明日の朝にはまた彼女のところへ子どもを預けなければいけない。そしてまた、迎えに行けばネチネチと厭味を言われるのだ。
善意の皮でくるんだ、子どものためには~~するべき、という小さな呪い。笑い飛ばして祓ってしまえる呪詛の言葉も、それが毎日毎日疲弊しきった心に降り積もれば人を変えてしまう。
自分が女剣士として活躍していた頃のことを、ハンナはもうほとんど思い出すことができなかった。あんなに美しかった赤髪も、今はろくな手入れもできず赤銅色にパサついている。
結婚・出産しても冒険者として活躍すればいい。子どもたちは工房に連れていって僕が見るから。
そう言ってくれた優しい夫は、3年前に流行り病で死んでしまった。ハンナの仕事に理解がある、腕の良い鍛冶職人だった。彼が夫でなければ、自分は出産という選択をしなかっただろうとハンナは思う。
夫の死後、生活はすぐに立ち行かなくなった。冒険者の仕事は基本的に数日がかりになることが多い。日帰りの依頼だって、確実にその日に帰ってこれる保証はないのだ。依頼内容によっては、大怪我や絶命も珍しくはない。
いくらハンナがA級冒険者だったとしても、生まれたばかりの下の子を預けてできる仕事ではなかった。
こうしてハンナは下町の食堂の給仕になるより他はなかった。給料が低くても、帰る時間が保障され、家の近くで働ける安全な仕事。しかも子持ちでも雇ってくれる場所は、そこしかなかったのだ。
やりがいや報酬、キャリアに栄誉。ある程度仕事を選ぶことができた冒険者から、消去法で残った仕事しか選べない立場になるなんて思ってもみなかった。考えても仕方がない。これが現実なのだと彼女は毎日言い聞かせる。
家に帰って一息つく間もなく、ハンナは3人の子どもたちに食事をとらせる。作り置きのスープが痛んでないことを確かめ、硬いパンを薄くスライスする。そのパンを、職場の人から貰ったクマのクッキー型で抜いていく。せめて少しでも見た目よく、楽しい気持ちで食べてもらたいという気持ちで、自分は型抜きした後のパンの耳をかじる。
子どもたちと休日に一緒にクッキーを作るなんて、夢のまた夢。これがハンナにできる精一杯の気遣いだった。
「ママ、明日お仕事おやすみ?」
下の娘マリーが、無邪気にそう聞いた。もちろん明日も仕事だ。それを傷つけないように伝えるにはどうしたらいいだろう。ハンナが言葉を選んでいると、双子の兄のジャンが
「休みなんてあるわけないだろ。」
とぶっきらぼうに答えた。
「ジャン。お休みは月末にあるから、その時はみんなで出かけようか。」
なだめるハンナに、ハンスは目を合わせようとしない。代わりに双子の弟のポールが反論した。
「そういって、出かけたことなんか一度もないじゃん。」
ハンナは曖昧に笑うことしかできなかった。月に一度の休みは、食材の買い出しや洗濯、子どもの家庭学習で終わり、そこから3人を連れて出かける気力は残っていなかった。
子どもたちはこの歳でいろんなこと諦めなければいけない。
休日に家族と出かけること。季節の変わり目に服を慎重すること。家でお菓子やパンを焼くこと、祖父母を訪ねて帰省すること。勉学すること。すべて、今のハンナにはすべてしてやれないことだった。
簡素な夕食を済ませて子どもたちを寝巻きに着替えさせていると、誰かが控え目にドアをノックした。
こんな時間に一体誰だろう。今月分の家賃は先日払ったし、ツケ払いをしている店もない。来訪者に心当たりがなくて、ハンナは用心しながらそっとドアを開けた。そこには、小柄な若い娘が立っていた。栗色の髪に人懐っこい顔。取り立てて特徴のない、つまり美人でもブスでもない地味な女だった。
麻のロングシャツにズボンをはいて、藍色のローブを羽織っているところを見ると、一見冒険者のように見えなくもない。生成りの大きな鞄を斜めがけにしているところを見ると、女性の一人歩きを用心してこんな格好をしているのかもしれない。
剣士時代の勘で害はないと瞬時にに判断して、ハンナはドアを大きく開けた。
「夜分に突然お尋ねして申し訳ありません。こちらハンナ・バートンさんのお宅でお間違いないでしょうか。」
幼い見た目に似合わず落ち着いた口調で彼女はそう聞いた。
「そうだけど、若いお嬢さんがこんな時間に何の用だい?」
「すみません。昨日の昼にお伺いしたのですが日中はお仕事に出ていらっしゃると近隣の方にうかがったものですから。私、冒険者ギルド中央本部より参りましたリタ・パルマと申します。」
差し出された職員証を確認して、ハンナは小さくため息をついた。
飲食店で働き始めてすぐの頃、この町のギルド職員が家までやってきたことがあった。ライセンスを持っている以上冒険者として活躍するべきだと、一方的に責められたことが思い出される。
あの時はこちらの事情を何度も説明して最終的に理解してもらったが、何度も家に来られて疲弊しきりだった。今回はわざわざ王都のギルドから来たという。害はないが、厄介な客だ。
「悪いけど、冒険者は廃業したよ。他を当たっておくれ。」
「小さなお子さんがいるとうかがっています。よければお話を聞かせていただけませんか?なにかギルドで力になれることがあるかもしれませんので。」
リタはそう言って鞄から長方形の包みを取り出した。
「良かったらこちらみなさんで召し上がってください。」
ふわりと広がる柑橘の爽やかな香りに、末っ子のマリーが近寄ってきた。
「いい匂いがする!お姉ちゃん、それなぁに?」
「コギト村というところで作られているシトレケーキです。木の実がいっぱい入っていて、とっても美味しいんですよ。」
さっきまでつまらなさそうに着替えていたマリーは目を輝かせた。
「いいなー、マリーこれ食べたい!」
「ちょっと、マリー。」
リタはしゃがみこむとマリーの顔をみてにっこりと笑った。
「マリーさんと言うのですね。見たところもうお休みの時間のようです。こちらはママに預けるので、明日の朝のお楽しみにするというのはどうでしょう?」
「お楽しみするー!」
無邪気に喜ぶマリーの背後で、ジャンとポールが不安そうにリタを見上げていた。
「もらえないよ。うち、お金ないもん。」
その言葉に、ハンナは胸が痛んだ。欲しいものを素直に欲しいと言えない子にしてしまったのは、他ならぬ自分なのだ。
しかしリタはそんなハンナの表情を気にする様子もなく鞄からもう4つ取り出した。
「大丈夫です。実はこのように5つも買ってしまったので、こちらはおすそわけです。とっても美味しいので、ぜひ食べてみてください。」
顔色をうかがうように自分を見上げる双子を見て、ハンナはもう一度ため息をついた。
元冒険者の性分として、ケーキだけ受け取ってお帰り下さいとは言えない。
ハンナはケーキを受け取ると「話を聞くだけだよ。」とリタを招き入れた。
 




