シュレディンガーの箱
先日、親戚のばあちゃんの葬式に行った。
喪主だか僧侶だか薄毛のおっさんが箱を開ける。中には、ばあちゃんの人生が入っていた。
箱によると、ばあちゃんは良い人生だったらしい。大往生というやつか。それを聞いて涙する全員「ヨカッタヨカッタ」とおとぎ話を締めくくるみたいに。
誰しもが持っているこの『箱』のことを、幼い頃、母に尋ねたことがある。母は「赤ちゃんってどうやって作るの?」と問われたときみたいに苦笑しつつ、
「この箱はね、中を開けるまで何が入っているかわからないのよ」
じゃあ開けてもいいか、と訊いたら、
「絶対に駄目よ」
箱を開けるのは死んだとき。死んでからじゃないと箱は開かない。冗談でもそういうことを言うのは不謹慎なのだと。
「一人一個、この箱を持ってる。そうやって生まれてくる。亡くなったとき初めて開けて、その持ち主が『こんな人生だったな』ってのがわかるの」
聞いたときは「ふーん」とか「へえ」とか頷き、そういうものだと理解した。
箱は自分の身体の一部で、失くすということはない。放っといても、いつの間にかそばにある。
自分の箱なのに自分で生きて見られないというのが非常におかしな仕組みだと思う。
その箱の中身が一つ、今朝のニュースででかでかと掲示されていた。
先立つ不孝をお許しください。
地獄のような人生でした。
○△県の中学生の箱だった。
いじめられて自死に至った。というのが、メディアの見解。
両親らしき人物は涙を流しながらレンズとマイクに訴える。なぜ娘は死ななくてはならなかったのか。なぜ自分らに相談してくれなかったのか。こんな短い文章に収まってしまう娘の人生とは、娘の苦しみとは、それに気づけなかった自分たちの愚かさとは……
臨時保護者会での録音音声が流れたところで、シリアルを食べ終わったのでテレビを消した。制服に着がえ、箱を投げ捨て、学校へ行く。
水曜の授業は五限まで。五限目はみんな大好き道徳。テストの心配なくプリントを埋めるだけの簡単な作業。
一人の女子生徒が教師に当てられた。生徒は俯きながらプリントの内容をモゴモゴと発表する。クラスメイトは誰一人として発表を聞いていない。
下校時刻になって、たまたまその女子と帰途が似通った。
「明日、社会の小テスト。どこ出ると思う?」
学校指定リュックの肩紐を握ったまま、答えない女子。
「日清修好条規あたりは絶対出るよね」
俯いたまま歩く女子。
「君、いじめられてんの?」
少しの間を置いた後、ようやくふるふると首を横に振った。
「だよね」
老人ホームに沿う緩やかな坂道を下る。
「箱、きれいな灰色してるね。ロッカーの中に入ってるの、見えたんだ」
話題を振ると、やにわに立ち止まった。ゴソゴソとリュックから取り出したのは灰色の小箱。
意表を突かれつつも、
「うん。ありがとう」
礼は言っておく。終始表情すらうかがえないけれど。
「1874年……」
「え?」
「民撰議院設立建白書」
呪文のような声とともにT字路を左へ曲がったスカート姿。通学路の公約数は途切れ、彼女は彼女の帰り道へと歩んだ。
なんとなく、これはもう近づかないでおこう、と思った。
思った矢先に、コンタクトを図らねばならない機会が訪れた。体育のサッカーの授業、ボールのパス練習。二人一組の因果にて、向かい合ったその子へと。
「社会の小テスト、満点連続記録更新おめでとう」
彼女からしたら公立のいち小テストなど、児戯に等しいのだろう。ボールのパスついでに告げた。
相も変わらず返ってくるのは無言。
「駅前のスーパーいたよね、こないだの日曜……土曜だったかな? 一緒にいた人、母親? 仲良いんだね」
「放任主義なの」
──驚いた。言語のレスポンスが来るとは。
それにしても、と今のセリフを胸の内に反芻する。『放任主義』? 一緒にスーパーに行くくらいだし、むしろ逆のような気もするが。
「放任主義、なんだって」
情報が不十分だったとでもいうふうに、言い直した彼女。その先のコメントもとくになく、再び閉口するばかりだった。
「お母さんが言ったの?」
無言。
「……朝ご飯、何食べた?」
無言。
「何色のパンツ履いてんの?」
今度答えなかったのは、サッカーボールに足を取られた彼女が転んだから。
「大丈夫?」
近寄る間にも「プッ」と吹き出すような音が聞こえる。盛大に尻もちをついたその子に集まった視線はすぐに逸らされ、その他大勢となった。
片膝立ちでしばし静止すれば、立ち上がった彼女。その体操服の襟から複数の赤い線が一瞬覗いた。
肩か。なるほど。よく考えたもんだ。
「これ、落としたよ。常に持ち歩いてるなんて、よっぽど大事なものなんだね」
拾った灰色の箱を渡す。転んだ拍子にポケットから落としたらしい。自分のそばに置いておく必要もないし、そんな人もなかなかにいない。
受け取った持ち主の柔らかい眼差しが、灰色の箱へと落とされた。
「わたしの人生が入っているから」
小さな箱を両手で、優しく、壊れないように。
「ねえ。今度、勉強教えてよ」
しかし彼女は、困ったように微笑みながらふるふると首を横に振った。
シリアルを口に含み、指先はリモコンでチャンネルを回す。どの番組も似たりよったりで、そのセンセーショナルな話題を。
「あまりにも短すぎる文章……」中3女子いじめ自殺 遺族が公開した『箱』 学校側の〝対応〟は
赤いテロップの踊るテレビ。画面には開かれた小さな箱が映っていた。
朝飯を食べ終え、テレビを消す。制服に着替える。
学校に行く前に、窓から自分の箱を思いっきり放り投げた。いずれ、気がついたら手元に戻っているのだろうけれど。
どうせ箱は何も証明してくれないのだから。




