第一章 18話 逃げてやる
レーグは驚いて、刃を振り払った。
そしてぐにゃり曲がった鎧を、可愛い赤子をあやすように撫ぜる。
「ク、クハハッ。貴様これが、なんと奇怪なことかわかるか? まるで、空が裂けるがごとき現象であるぞ」
しかし、そんな話、今のヴァニスにはどうでもいい。
レーグなど放って、ゲースティのそばへと走る。
「爺やっ! 血が!」
腹部から流れ続ける血。止めよう、止めようと手を差し伸べるが、何も効果をなさず、血の流れを感じるだけ。
「それに貴様、気づいていないだろうが、先程よりもずっと動きがいい。怒りや恨みによってエネルギーが活性化するのか? うーむ、興味深い、興味深いぞ!」
「爺やっ、爺やっ! 死なないでっ」
まるでレーグとヴァニスが全く別の場所にいるのかのように、互いに互いを微塵も気にしていない。
「か、かふっ、坊ちゃま……私はもうダメでゲス。坊ちゃんは、お逃げ、くだされッ」
「──ッ!!」
ゲースティが最期にヴァニスの頬に差し伸べた手のひらが、冷たく、動かなくなったのが分かった。
ゆっくりとヴァニスは立ち上がる。
──逃げろ、そうか。逃げろか。
「む、なんだ貴様、逃げるのか?」
「……」
「貴様には随分と期待しているのだぞ? もっと闘ってみせよ。それともなんだ? そのおいぼれのように、貴様も雑魚に変わりなかったのか?」
「…………」
目に見えた、こんなにも明らかな挑発があるだろうか。だが、頭に血が上り切った相手には、こういう“分かりやすい”挑発こそが、
「黙れっクソ野郎、ぶっ殺す」
よく効く。
「ああああああああ」
とにかく声を荒げ、斧槍を振り回す。
頭に血が昇って、呼吸による酸素の供給が足りていない。それでも、ただガムシャラに斧槍を振るった。
「クハハッそうだ。こい、来い!」
金属がぶつかりあって、甲高い音が辺り一体に鳴り響く。
打ち合う度に、次なる刃は加速する。
刻み込まれた悔恨が、斧槍を強く握って離さない。
「いいぞ、いいぞ! そうだ、怒りに任せてかかってこおおおおい‼︎」
レーグは歓喜に悶えながら、ヴァニス全力の斬撃を簡単に捌く。そしてその最中、レーグは期待に声を張り上げてしゃべりだす。
「ヴァニス、貴様、吾輩のもとへ来い! ここで失うにはあまりにも惜しい才能ッ。吾輩の“生徒”になる気はないかね?」
「うるせぇッ!」
「吾輩のもとに、剣術に長けるものがいるのだ。貴様の才能と、吾輩のトレーニングがあれば……クフッ、『伝説』もそう遠くはないぃいぃ!」
ずっと此奴は何の話をしている? 僕が、こいつのもとに就く? ふざけるのもたいがいにしろ。今僕は、お前だけをみているんだ。
「死ねぇええええ!」
怒りが、我が臓器をぐつぐつと煮込む怒りが、次へ次へと己を駆り立てる。
もう止まれない。この化物を殺して、仇を討つまで、止まれないのだ。
さァ、僕はお前を絶対に殺してやる。絶対、絶対に許さない。逃げ出さない。
…………と、いった風に、演技をしてみる。
勿論、怒りも悔しさも恨みも全部張り裂けそうなぐらい詰まっていて、やれるなら今すぐにでもこの魔王を殺してやりたいが、自分には無理なことは十分に分かった。
──ゲースティは、逃げろと言った。
おう、逃げてやろうとも。逃げてやるぞ。
ヴァニスの眼差しには、覚悟が宿っていることに、レーグはまだ気づかない。




