第05話 風精霊の声
風が吹いた。
優しく、やわらかく、草の上を撫でるように。
ユノはその中で目を閉じ、あの淡い光を思い出していた。
ほんの一瞬だった。
けれど、確かに声が聞こえた。名前を呼ばれた。
そして胸に浮かんだあの紋章。意味はまだわからない。
でも、何かが始まりかけていることは、ユノにもわかっていた。
風がふたたび吹き抜け、彼の前にもう一度、あの光が現れた。
今度は最初よりも大きく、形がはっきりしている。
光の中心に、小さな輪郭が浮かび始め――耳のような葉、透き通る羽、ふわりとした緑の髪。
それは、風のように軽やかで、草原の精を思わせる姿だった。
「……君が、声の主?」
ふわりと浮かぶ光の中から、やさしい声が返ってきた。
『そうだよ。こんにちは、ユノ』
声は確かに存在していた。
だけど、どこか風に乗ったような、輪郭のあいまいな声だった。
ユノは少しだけ戸惑いながらも、まっすぐに問いかける。
「君は……精霊?」
『うん。私は風の精霊。ユイリっていうの』
風の精霊――初めて聞いた言葉だった。
だが、不思議と納得できた。
ずっと風と草に導かれてきたような感覚があった。そしてその中心に、このユイリという存在がいた。
「なんで……僕に?」
ユイリはゆっくりとユノの周りを回りながら答えた。
『君は、草を愛してくれた。土を乱さず、大地を傷つけず、ひとつひとつに言葉をかけてくれた。そんな人間、滅多にいないよ』
ユノの胸が少しだけ熱くなる。
誰からも必要とされなかった自分が、誰かにそう言われた。それだけで、何かが報われた気がした。
『ずっと見てたよ。裏庭で、誰もいない場所で、君が草を抜いてたの。君の手は優しくて、風も草も、みんな喜んでた』
「……僕、ただ草をむしってただけだよ?」
『でもね、それは“ただ”じゃなかった。君のやさしさは、私たちにちゃんと届いてた』
言葉の意味が、じんわりと心に染み込んでいく。
誰も見ていなかったはずの行動が、誰かに見られていた。
その事実が、胸に温かさを灯した。
「……ありがとう」
そう呟くと、ユイリの輪郭が少しだけ明るくなった。
『うれしい。君に会えてよかった』
草がふるえ、風がひとしきり吹き抜ける。
ユノの髪がふわりと揺れた。
『でも、まだ全部を話すには早いの。君の中の力は、まだ眠ってる。まずは、私とちゃんと『つながって』くれないと……』
「つながる……って?」
ユイリは、ユノの手のひらに触れた。
彼の手の中に、ふわりとした風が流れ込む。それは痛みでも刺激でもなく、ただあたたかくて、心地よい気配だった。
『これは仮の契約――風と君が、心を交わした証』
ユノの手の甲に、再び小さな紋章が浮かぶ。
今度は、はっきりと葉の形をしており――淡い緑の光が、ユノの手に宿る。
「……これが、精霊との契約……?」
『第一歩、ってとこだね。君にはこれから、もっとたくさんの精霊が見えるようになる。声も、気配も、そして――』
ユイリの声が少しだけ沈んだ。
『この世界が、どうなりかけているのかも』
ユノは息をのむ。だが、ユイリはすぐに微笑むような声で続けた。
『でも、まだ大丈夫。今は、君が『ここにいる』ってことだけで、十分だから』
「僕は……ここにいて、いいの?」
『もちろん。君は、ここに必要な存在だよ』
その言葉に、ユノの視界が滲む。
涙を流すほどの感情はもうとっくになくなったと思っていた。
でも今、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
(僕は……見てもらえてたんだ)
精霊。
草。
風。
今まで自分が“話しかけていた”存在が、ほんとうにそこにいた。
草むしりしかできないと思っていた自分に、何か意味があった。
風が、再び優しく吹く。
ユイリの姿が淡くなっていく。
『また話そうね、ユノ。風が呼ぶとき、私はすぐそこにいるから』
その言葉とともに、ユイリの姿は風に溶けるように消えていった。
ユノは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
風の余韻が残る草原で、手の甲に浮かぶ紋章を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
自分にはまだ何もできない。
けれど、たしかに『つながった』。
それが、ユノにとってすべての始まりだった。
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