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知らないところでだったら何といってもいいけれど、聞いているとわかっていて言われる悪口は喧嘩を吹っ掛けられたのとそう変わらない。
とりあえず彼女たちの名前を憶えてやろうとテオは出来る限り怖い顔をしながら彼女たちを睨んだ。しかし、当のオリヴィアはまったく動く気配はない。
「え~、そう言ってくれるのはうれしいけど、なんか悪いよぉ」
「そう言うな、マイ。皆、其方を認めているという事だ。自信を持てばいい」
「カルステンまでぇ……だってあの子がぁ、可哀想じゃない?」
「そんなことは無い、其方は私の天使、いや愛の女神だこの美しい黒髪はなによりも神秘的で神聖な力を感じる」
はぁっと艶っぽいため息が聞こえてきて、テオはぎょっとした。急にカルステンはマイに触れ、腰に手を回し頬に手を添えて唇にキスをする。きゃあっと周りの貴族たちから声が上がった。
同時に勢いよくオリヴィアが立ち上がった。それにテオは反射でついていく。デリアは一歩遅れて慌てた様子でついてきた。颯爽と講義室を歩くオリヴィアの後ろをついていって、少しだけ離れた位置にいたマイとカルステンの元へと向かう。
彼らは突然、勢いよくやってきたオリヴィアに若干面喰ったような顔をしていたけれども、すぐに立ち上がってオリヴィアを警戒した。しかし、すぐに警戒したような態度をとったのはカルステンだけであり、当事者であるはずのマイは被害者のような顔をして、おずおずとオリヴィアに向き合うのだった。
「…………」
オリヴィアは、少しの間沈黙を置いて後から来たデリアが、自分の後ろに到着したぐらいで「ねぇ、お前」と口にする。
「お前、今、わたくしを可哀想といいまして?」
それはとても厳しい声であり、責める様な声だった。だからか、マイはふと視線を伏せて、オリヴィアの問いに答えない。
しかし、オリヴィアは続けた。
「お前のような他人の婚約者と公衆の面前で乳繰り合うような品性のない人間に憐れまれるほど、わたくしは落ちぶれていませんことよ」
「っ、……」
「この場所は多くの学生が自分の勉学の為に使う場所。そんな場所でふざけたことばかりしていないで自室に戻って、この世界の常識でも身に着けたらいかがかしら」
「っ~……」
「何も言い返せないということは、わたくしの言葉を認めるということで構わないわね? 分かったらさっさと荷物を纏めてお帰りなさい、もちろん男子寮ではなく女子寮にね」
言い切ったオリヴィアに、マイは心底悲しそうに言葉に詰まってそれから、無言のまま動かない。しかし、しばらくするとじわっと涙をためてその真っ黒の瞳を潤ませるのだった。
「っ~っ……」
そしてやっぱり何も言わない。ひたすらに被害者のようにふるまう。しかしオリヴィアはそれにまったく毅然とした態度をとった。何か言えと圧力をかけ、目だけで射抜けそうなほどに強い眼力で彼女を見た。
ウルウルと瞳を潤ませて、しかし、その状況が長く続くと流石に気まずい空気にも限度がやってくる。
マイはぱっと瞳を動かして斜め前でオリヴィアと向き合っていたカルステンに視線を移動した。
彼はマイの視線でやっと自分にマイが何を望んでいるのかわかったらしく、叱りつけるように「何とか言いなさい」と静かにいうオリヴィアの頬を思い切り平手打ちした。
パァンと音が響く。華奢なオリヴィアの体が反動に揺れて、テオは反射的に剣に手をかけ彼女の前に出ようとした。
しかし、オリヴィアは頬を押さえながら、静かにテオを片手で制止する。そうされてしまうと護衛騎士といえども前に出ることは出来ない。それにこんな男は、簡単に切り捨てることが出来るが、それをやってしまえば罪に問われるのはテオとオリヴィアの方だ。
だから実際は剣を向けることすらできない。止められるということはわかっていた。
……でも、オリヴィア様。俺、許せないんだけど……。
いつも冷静な彼女を少し恨めしく思いながらテオはぐっと拳を握る。そんな、二人の些細なやり取りなど知らないで勝ち誇ったような顔でカルステンはオリヴィアに視線を向けた。
「見苦しいな。……いくら其方が私の愛情に飢えていたとしても、誰かを貶めていい理由にはならないと分からないのか?」
「……」
「オリヴィア、お前はいつからそんなに醜い女になったのだ。お前がそんな風に聖女マイに当たるたびに、私の愛情が薄れていっているのが分からないのか、愚かであさましい悪女め」
忌々し気にそういうカルステンは、流石幼いころからオリヴィアと交流があり、貴族とも対等に社交界をこなしてきただけあって言葉選びが秀逸である。
確かにその言い回しなら、オリヴィアの外見も相まってそのように周りに見せることは出来る。しかしながら、有能さと貢献度で言えばオリヴィアの方がずっと王妃になるためにこの国の為に貢献してきたはずだ。
それをすっ飛ばして、愛だの情だのですべてを片付けるのは強引が過ぎる。
彼の言葉をそう分析したのはいいが、テオは心の中では、腸が煮えくり返っていた。オリヴィアを傷つけるのは誰であろうと許せない。気高い彼女が、叩かれたぐらいで傷つけられるほど繊細ではないというのだと分かっていても腹が立って仕方がなかった。
しかし、そうして頭の血管がいくつか切れそうなほど怒っても何もしてはいけない事があるのが貴族であり従者職である。これが仕事なのだとわきまえてテオは口を引き結んで行く末を見守る。
「あら、仮にも教会に認められた婚約者だというのに、そのような悪態をつくなど言語道断。どのようにわたくしを悪役のように取り繕おうとも、一つのとりえ以外はまるで何もない女を重用するのは如何なものかしら」
「聖女を侮辱するのか? 恥ずかしい女め。これだから嫉妬に狂う女性というのはいつも男を困らせる」
「男女の性差など関係ありませんわ。そもそも嫉妬などではありませんもの」
「よいよい、其方のような可愛げのない女を愛でる趣味はない、さっさと私の前から消えてくれ」
二人の口論にも近い言葉の応酬は、その場に居た誰もが入ることが出来ずに重たい雰囲気が流れる。
しかし、毅然とした態度をしているが後からオリヴィアの白い頬がじんわりと赤く染まり、言いがかりをつけている心の醜い女という構図はどうにも取り払えそうにない。
「そうしてまともに取り合わず、わたくしの事を貶めても構いません。しかし、事実は事実。この場所は神聖な魔術の学び舎、風紀を乱しまともに勉学に励むものの邪魔になるのならば間違っているのはお前たち。わたくしはその考えを変えるつもりはありませんわ」
「……正論ばかりを振りかざして、それで社会が成り立つのか? 女の頭のなかは極論ばかりでいつも辟易してしまう」
「物事の事実をすり替え、話の話題をすり替え、真実から目を背ける誠実性に欠ける人間よりもよほどましですわ」
オリヴィアは真剣にカルステンを見返して言い切る。たしかに彼の言っていることは話題のすり替えだと、今までの議論と非難をきちんと聞いていた人間だったら思うのかもしれない。
けれども、カルステンのまともに取り合わない態度に、まともなオリヴィアの主張は届かずに、聖女にカルステンを取られたことが気に入らない悪女として周りからの視線は変わらない。
それに、貴族たちは見極めている。結局どちらが王妃の座に就くのかを息をひそめて見つめていて、勝ち馬が決まった途端に媚びを売る。だから表立って国中で話題の聖女と対立しているオリヴィアに加勢する者はいない。
カルステンは、真剣なオリヴィアの声を聴いて、それでも周りに、困ったいちゃもんだというように片方の眉を上げて、身近にいる自分の派閥の人間に視線を送った。
そうするとくすっとマイは笑みをこぼし、それからすぐに被害者のような表情を取り繕う。けれどもその笑みを皮切りにオリヴィアを笑う風潮が生まれて、嘲笑があたりを包んだ。
「結局、カルステンは私と運命の赤い糸で結ばれているのにぃ、婚約していたってだけで、こんなに責められるなんてぇ、すごく怖い」
「……」
またウルウルと瞳に涙を溜めて、マイはカルステンの胸の中に飛び込んだ。それに同情するようにカルステンは「マイ……」とよび、その他の人間も嘲笑から非難に瞳の色を変える。
それから、オリヴィアはまた唐突に踵を返して講義室の出口に向かって歩き出す。それをテオはすぐに追って、またデリアは一歩遅れてついてくるのだった。