15
死の淵に瀕して以来、テオの生活はがらりと変わった。いつも眠っていた使用人用のベットは貴族用の綿がたくさん詰まった柔らかなものへと変わったし、お飾りだけで養子に入れられた後継ぎがいいない下級貴族の爵位継承権を持っていたが、実際に継承する事になるとは思っていなかった。
マイや、カルステンに関してはテオは一切かかわることもないうちにオリヴィアがかたをつけていて、後から事後報告で彼らの結末を聞かされた。
オリヴィアが天啓を受けたのはやはり、オリヴィアがテオの死を受けてマイを殺害することに原因があったらしい。
その運命を変えるために運命の女神がこの世界に権力のないマイの方ではなく、オリヴィアの方へと悲劇を回避する方法として運命が向かっている未来を見せたのだ。
それはそれとして、だからこそマイさえ殺さなければ運命の女神は手を出してこない、そしてマイの……運命の女神の聖女の力は運命を信じる人間を突き動かす力。
その力を発揮できない丁度いい場所へと送り飛ばすことが出来たのだとオリヴィアは言っていた。
それも運命に縛られた二人をそろってその場所へと送り出したらしい。
大方、とても小さな田舎の村だとかそういう場所だと思う。そういう場所は村民全員が知り合いであり土着信仰でマイの力が及ばない可能性が高い。それに浪費癖の激しいカルステンとともに過ごすのだから苦労は逃れないだろう。
テオがオリヴィアに言われたことで想像できるのはこのぐらいの事で、もしかしたらテオが想像もつかないもっとひどいことになっている可能性もあったが、それをされても文句を言えない事をした人間だとテオも思っている。
それに結局、オリヴィアは王妃の座を手に入れることは出来なかった。
今は女王となったアマーリエが王配をむかえて国を治めている。オリヴィアはアマーリエが王座につくことを支援していたので、それなりに融通を効かせてもらうことはしているが、それでも国の重役につく夢は叶わなかった。
はたから見れば、王太子と、その婚約者となった二人は両方破滅した。そんな風に取られてもおかしくないような惨状だ。
だってオリヴィアは公爵令嬢の気高い血筋なのに名も知れぬような廃れた男爵家へと嫁入りし、そのまま社交界にも姿を表さなくなったのだから。
そんなオリヴィアがテオの目の前にいた。テオの両手を握ってテーブル越しにじっと手を見据えている。
「……」
そんな責めるような視線にテオは困ったような媚びる様な目線を返した。それでもオリヴィアはその鋭い瞳を変えることは無い。
「テオ、もう一度聞くわ。わたくしの名は?」
「……オリヴィア様」
テオの小さなつぶやきにオリヴィアは高く結い上げた金髪をふるふると頭を振って靡かせる。艶やかな髪はどんな身分になっても高貴に見えて、そんな彼女を敬わないなんてテオには出来ない。
「はぁ、聞き分けの悪い駄犬ね。わたくしはお前の妻なのよ。妻をそんな他人行儀に呼ぶ夫がありますか」
「でも……」
「口答えは許しませんわよ。テオ、ほらもう一度わたくしの名は?」
「……オリヴィア……様」
しょんぼりしながらテオはオリヴィアの事をまた敬称をつけて呼んでそれにオリヴィアはまたため息をつく。
どうにか頑張ってテオもオリヴィアの要望に応えたいとは思うのだが、どうにも口癖になってしまっていて難しい。
しかしそれでもオリヴィアは名実ともにテオのものとなって、テオだってずっと前からそうだったけれどもオリヴィアのものになった。
これからはずっとお互いがお互いを一番大切で然るべきそれに、愛の女神によると夫婦の関係には上下関係はなく対等であるべきだとも定められている。
そんなオリヴィアとテオが近隣の貴族と多少の交流をするときに、夫の方が妻だけを敬っていたら妙な関係にうつるだろう。だから早いうちから矯正しますわよ、とオリヴィアは言ってこうして毎日、お茶時の時間帯に練習をさせられている。
「……はぁ、まったくお前も頑なね」
「申し訳ありません」
「謝罪は結構、それより聞きなさいテオ」
「……? はい」
しかし早々に話は終わり、切り替えるようにしてオリヴィアは紅茶を飲みながら窓の外を見ていう。
この場所は王都から遠く離れた男爵の領地で穏やかな土地だ。カルステンの横領の証拠を上げてアマーリエに貢献した代わりにオリヴィアが手に入れた。土地と屋敷のある場所は気候も安定していて住みやすく、なにより住民の人柄がいい。
平民になれていないオリヴィアも彼らと少しずつ交流していくうちにこの土地に愛着を持っているようだった。
「村の教会にこの土地に住まう美しい毛を持つ猫がいるという話は覚えているかしら」
「うん」
「その猫が先日、子猫を生んだのよ」
「……素敵な話だと思う」
「そうでしょう。だからわたくし一匹買い取る事にしたわ。ここなら毒殺の危険もないし、大切なものを増やしても危険はないもの」
そういいながらまだ見知らぬ子猫に思いをはせて、少し優し気にその瞳をオリヴィアは和らげる。声音もいつもよりずっと柔らかい。
……そっか。オリヴィア様は言葉の通じない動物は、どんなに注意していても危険にさらしてしまうことが怖くて、嫌いだったけれどここなら、オリヴィア様の大切なものを傷つける人はいないから……。
だからオリヴィアは自分の好きなようにペットを飼って、時折愛でて、面倒を見て、その優しさを向ける。
元からそれなりに愛情深い人間であるから、平穏が訪れたらそういう風に少しずつ、オリヴィアの本来の優しい性格が見えてくるのは当たり前のことで、テオだってそういう人だと知っていた。
「名をなんと付けるか、連れて帰ったらお前も共に考えてるのよ。飼うからには大切にしてあげなければならいわ」
嬉しそうな彼女を見ているとテオはやっぱり、どうにも素直にうんとは言えなくて、それどころかその子猫に妙な対抗心がわいてきた。
「猫は野原を駆け回るよりも、どこかに上ったり上下の運動の方が好むと教えてもらったわ。猫用の部屋にはそのように遊べるアスレチックを作る予定よ」
すでに部屋の様子まで考えて思案するオリヴィアは、お茶菓子を口にして、それから早々に席を立つ。
「家具職人に頼んで最高級の寝床も用意するわ。ですからしばらくは部屋の用意に時間をかけますから、これで失礼するわ。お前もわたくしの名を正しく呼べるように練習をしておきなさい」
「……あ」
まだお茶の時間は始まったばかりだというのに立ち上がり、オリヴィアは猫を迎え入れる準備の為に動き出す。それにテオはどうしても我慢ならなくなって、颯爽と歩き出す彼女の背中を追いかける。
今までだったら主を引き留めるなんて滅多にしなかったし、その体にも触れらない限りは触れなかった。しかし、そういう当たり前の夫婦になれるようにと今のオリヴィアは望んでいる。
ならば、そうすればオリヴィアは喜んでくれるし、テオはただのオリヴィアの従者からきちんと夫婦になれる。
「お、オリヴィア……待って」
少しだけ勇気を出して彼女の腕を掴み、名を呼んだ。止まってすぐに踵を返した彼女はテオをじっと見て「もう一度」と指示をした。
それにテオは、申し訳ない気持ちになりながらも「オリヴィア」ときちんと口にする。
そうすれば褒めるようにオリヴィアはテオの頭に手を乗せてよしよしと優しくなでる。
テオはそれだけで幸せで、それだけで満たされるのだが、どうやらそうして受け身で彼女の指示に従って飼われているだけでは、新しくやってくる彼女のペットの子猫にずっと嫉妬する羽目になると思う。
「やれば出来るわね。テオ、えらいわ」
本当は彼女をずっと独り占めしておきたいが、そういうわけにもいかないだろう。
テオは今はオリヴィアの夫で、犬でも猫でもないのだから、そんなことを言っていられない。例え彼女を守れるほど強くはなくても、対等にと望まれて、テオも納得しているのだから、自ら考えてオリヴィアに媚びるぐらいは出来るようになりたい。
……俺にされて不快だと思わなければいいけど……。
そんな風に少しだけ不安に思いながらも、彼女が嫌がったらすぐに止められるように肩に手だけ添えて、振り返ったオリヴィアの唇に軽く唇を当てる。それからすぐに離してオリヴィアを伺った。
「……」
そうすると驚いたことを顔に出して、目を丸くしたオリヴィアはテオを見つめたまま固まった。何か言った方がいいだろうと思ってテオは、ニコッと笑顔を浮かべて、彼女に言う。
「……オリヴィア、に大切にされる子猫は幸せだろうけれど、俺もオリヴィアに愛されるのが一番うれしいから……だから、その、子猫に負けないように俺なりに頑張る事にする」
自分でも何言ってるんだろうと思うが、オリヴィアだって同じ気持ちだろうと思う。そしてその言葉をゆっくりと咀嚼してそれから、オリヴィアは驚いた表情のまま言う。
「お前、わたくしがお前と子猫を対等に見ていると思うの?」
「……少しだけ」
「ふ、ふふふ。ふふっ」
テオが素直に返すと、オリヴィアは口に手を添えて笑みを見せる。その笑みはやっぱり美しくてなんでだか笑ってもらって嬉しいとテオは思う。それから、少しの間笑ってそれから、オリヴィアはテオをやさしく抱きしめた。
「そうね。お前がそう思うなら、それでいいわ。精々、人にしかできない芸でわたくしを楽しませてね、テオ」
「……はい」
ふわっと温かな体温に包まれて、それからテオの頭にオリヴィアは触れて大きな犬を撫でるように頭を撫でた。
けれどもぽつりと言う。
「でもいつか、自ら触れたいと思ってわたくしに触れて、芸ではなくお前の意志でわたくしと対等になって側にいてくれたら嬉しいわ」
……はい。いつかきっと。
心の中で答えたテオは、まだ変化しきらない主従関係にもう少しだけ甘えていようと思う。彼女の言った言葉が実現するときは近く、その幸せを味わってしまったら、もう二度と元には戻らないのだろうなと思ったのだった。