10
王宮で過ごしていたとある日、オリヴィアは決意を決めたように婚約に関する書類綴りをもって廊下をいつも通りの早歩きで歩を進めていた。向かう先はカルステンの自室である。
美しい調度品の並べられた大理石の廊下をカツカツと音を鳴らして颯爽と歩き、カルステンの自室の前に到着する。テオは変わらずオリヴィアの後ろについて部屋の前にいる侍女に扉を開けてもらうオリヴィアの後姿を眺めていた。
カルステンの居室の中に入ると、城の厳粛で洗練された雰囲気とはがらりと変わり、彼の人柄に染まったギラギラしい装飾の激しい室内に目が痛くなるような気がする。
家具のすべてに金の縁取りがされていて、所狭しと数々の芸術品や骨董品であふれている。
意味もなく宝石があしらわれた時計や、ソファー、天井でうるさく主張する神々しいシャンデリア、これはカルステンが特注で作らせた代物だった記憶している。
カルステンは先触れをしていたので、きちんと部屋にいてオリヴィアと顔を突き合わせて話をするためにソファーに腰かけている。オリヴィアが対面に座ると、にこりともしないで憂鬱そうにソファーの肘掛けに頬杖を突いた。
「来たか……オリヴィア」
「ええ、殿下。ごきげんよう。本日はわたくしの為にお時間を作っていただき感謝申し上げますわ」
「ハッ、其方なの顔など見たくもないが仕方なくだという事など分かっているだろうに」
「……ええ、存じておりますわ」
二人はまるで婚約者同士らしくない会話をして、侍女たちがお茶を淹れたり準備を整えるのを待ちつつにらみ合った。
学園から戻って初めての邂逅のはずであるのに、相変わらずのピリピリとした雰囲気に侍女が緊張して少し手を震わせている。
それもそのはず、普段は学生として制服に身を包み他の貴族や上級平民とともに、それなりにつつましく暮らしているが、こうして私服になって仕事の話をするときは高貴な身分だということを示すように威圧感を示している。
どちらともわざわざ意図してやっているわけでもないが、そのように育てられ普段からの習慣としてその姿勢が身についているのである。さらにカルステンに至っては私服を着ていると派手に宝石のついたアクセサリーをたくさんつけて部屋と同じくギラギラとした雰囲気を纏っているのだ。
そんな二人がにらみ合っていれば場の空気はすぐに凍り付くし、一つの失態も許されない重苦しい雰囲気になる。
支度が終わるまでそんな地獄のような雰囲気は続き、やっと仕事を終えた侍女は安堵するようにそそくさと下がっていく。今からする話の為にカルステンは自分の側近たちも排してオリヴィアに視線を向けた。
「其方の騎士も下がらせるのが礼儀だろう、オリヴィア」
それからテオへと視線を向けた。その威圧感にテオも少しだけ気後れする部分があるが、機嫌が悪い時のオリヴィアに比べると恐ろしくもないので自分の主の後姿に視線を移す。
「いいえ、殿下、話を長引かせる気もありませんもの。わたくしはただこちらの書類を殿下にお届けに参っただけですからね」
言いながら、オリヴィアは大切に抱えていた書類綴りを彼に向けてローテーブルへと置いた。それは彼らが幼いころに結ばれた婚約に関する権利関係や教会の認証そういったものの証明となる書類だった。
これがカルステンの手に渡った時点でオリヴィアの婚約は破棄されたも同然。それをわざわざ運んでやる時点で、オリヴィアもそれを望んでいるという意思表示に近しいものである。
それをカルステンは緩慢な仕草で、さもどうでもよさそうな顔をしながらペラペラと数枚めくる。それから不服な事をかくそうともしないでカルステンはオリヴィアに視線を戻した。
「まったく本当に可愛げの欠片も感じられないな、其方は」
「……どう思われても結構ですわ。それより早く手続きに移った方がいいのではなくて? 愛しの聖女をこの王宮に招きたいのでしょう? わたくしが大きな顔をして王宮にいるうちは、そのようなことできませんものね」
オリヴィアはカルステンを煽るようにそういって彼の反応を伺う。すぐにでもこの部屋を去りたいのだとテオはなんとなく察したし、ついでにいつソファーを立って、また颯爽と歩きだすのか分からないので、いつでも動けるように心積もりをしておいた。
しかし、その煽り文句にカルステンはすぐに反応せずに思案顔でオリヴィアを見つめる。彼女の真意を測るようなその視線は警戒の色以外にもいろい色な考えが渦巻いているように見えた。
「……」
「……」
またにらみ合いのような時間が続き、しばらくして、カルステンはふっとそのハンサムな顔を笑みに歪めて、オリヴィアに言い放った。
「……分かったぞ、其方。拗ねているのだろう?」
は?っとオリヴィアの声が聞こえてきそうだったが、そんなこともなくオリヴィアは微動だにしないままカルステンを見つめる。
「私の寵愛が、他の女に向けられて子供のように拗ねているのだろう」
「……仰っている意味がよくわかりませんわ」
「そう強がるな。お前との付き合いは長い、お前の気持ちなど言わずとも理解できる」
「……」
決めつけるように言われて、オリヴィアは無言を返した。しかし、カルステンは一人で納得したような顔になって、さらに笑みを深めて続ける。
「こんなものを自主的に持参してその心意気は褒めてやろうという気になるが、公務を放棄しているのはいただけないな」
カルステンは鬼の首を取ったように勝ち誇ったような声をしていた。
「私の私財の管理まで、信頼を置いていたから任せていたというのに、こんなことでは婚約を破棄された後のお前の未来は約束してやれないんだが」
偉そうに言うカルステンに、テオも頭の中で疑問符を浮かべていた。何を言っているのだろうと思う。
そもそも、カルステンが自分の予算に見合わない贅沢を尽くし国の予算に手を出した挙句に、留まらない浪費癖を持っているせいで、すべての管理を婚約者で将来を結ばれているオリヴィアが管理していただけであるのに、その言い草は何なのだろう。
オリヴィアだってやりたくてやっているわけではない。彼の私財の管理から彼のやるべきである公務を大方うけおってやったのは、すべては将来の王妃の座のためだ。
そもそも自分に非がありオリヴィアに頼りきっていたくせに、その言い草ではオリヴィアが喜んでそれをやりたがっているかのようではないか。
……それに、婚約は破棄するつもりだと聖女マイにも、学園でも口にしているのに未来の約束?
いったい何の話だろうか。
こんな風に成人前の大切な時期にいきなり婚約を破棄された慰謝料と、それから新しい婚約相手のあっせんの話であるならすんなり受け入れられるのだが、どうやらそんな話でもない様子でカルステンは深く沈み込んでいたソファーから膝に手をついて立ち上がる。
それからテーブルを回りこんでどっかりとオリヴィアの隣に座り込んだ。オリヴィアも少し驚いた様子を見せるが、いつも通りの厳しい顔を崩すほどではなかった様子で、じっと至近距離のカルステンを見つめる。
「……長く連れ添った情けで、側室にしてやろう。ただしこれまでと同じようにきちんと私に尽くすことが条件だ、何、私も王になる男、女の一人や二人を愛してやることなど造作もない」
「……」
言いながらオリヴィアの腰に手を回す。
……側室って、オリヴィア様は立派な公爵家の血筋なのに。
将来は王妃にと望まれた国で一番高貴で、有望な令嬢であるのに、異世界からやってきた聖女を支えるために側室になり下がるなどありえない。それでは大衆に彼女よりも劣っているのだと一生、あざけられる人生になってしまう。
そんな惨めな人生を送ってほしいとは到底思えない。しかし、召喚された聖女に国が沸き立っているのも事実、本人たちが望めばそうなることだってありえない可能性ではない。
……でも、ありえない。それにそんな風にいう事ですら侮辱だ。今までずっと対等であるがゆえに助け合いとしてカルステン王太子殿下をオリヴィア様は支えてきたのに。
格下のように扱われ、愛情があればいいのだろうと言われ、馬鹿にされているも同然だった。テオですら怒りに任せてカルステンをたたき切りたくなったのにオリヴィアは動かない。
しかし、ただ睨むように見つめるオリヴィアの腰を抱き寄せ、カルステンはそのまま引き寄せるようにして強引に唇を重ねた。
「っ、」
微かな、動揺した息づかいが聞こえる。それはオリヴィアのもので、彼女はすくっと立ち上がった。
それからしたり顔でオリヴィアを見つめるカルステンに、視線を向けながらオリヴィアは手の甲で唇を横にぬぐった。
赤い口紅が後を引いてオリヴィアの完璧な化粧を崩す。
「結構。わたくしは…………」
それから気丈に言い、しかし言い淀んでそのまま歩き出す。
テオは心臓が馬鹿みたいに音を立てて、怒りに震えて体が熱くなるのをそのままにしながら颯爽と歩きだすオリヴィアに続く。
カルステンの部屋の扉を風の魔法で開け放とうとしてか、扉を吹っ飛ばして轟音を響かせながらオリヴィアは歩いていく。
酷く動揺していても流石に今までは一度だってこんなことは無かったのだがそんなことにも驚く暇もなくテオは彼女の背中を追うのだった。