1 義母に作られた偽の姿
「このグズ! いつまで食べてるの! さっさと働きなさい!」
ガシャンッ
テーブルの上の食器を落とされ、割れた音が狭い部屋の中に響く。
割れた破片が足首をかすったのかチクッとした痛みが走ったけれど、それを顔には出さずに私を見下ろしている義母に謝罪した。
「申し訳ございません。お義母様。すぐに準備いたします」
「言われる前に動きなさい! そのお皿もあなたが片付けるのよ!」
「はい」
「ちょっと! 私のドレスにスープがかかったわ! どうしてくれるのよ!」
「申し訳ございません。マーサ様」
「あなたのお金から新しいドレス代を抜いておくわよ!」
「はい」
「まったく……本当に使えない女ね」
そう言い捨てるなり、義母と義姉のマーサ様はこの暗く湿った屋根裏部屋から出て行った。
ふぅ……もっと早く食べておくんだったわ。
丸1日ぶりの食事だったというのに、カチカチに固まったパンを2口食べただけで終わってしまった。
割れた食器に残ったわずかなスープを飲みたい衝動に駆られるけれど、なんとか理性でそれを止める。
ダメよ。
私はこれでも一応公爵夫人なんだから。
その誇りと品までなくしてしまってはいけないわ。
そう心の中で思いながら、自分の着ている見窄らしいワンピースをチラリと見る。
数日お風呂に入っていないため、1つにまとめた髪の毛もボサボサだ。
「……でも、今の私を見ても誰も公爵夫人だなんて思わないわね」
メイドだと思われるかしら?
いえ。綺麗な服を着て清潔にしているメイドよりも汚いわ。
それが、この家──ドロール公爵家の若奥様である私、リリーの姿だ。
この家に嫁ぐ前、私は貧乏な男爵家の長女だった。
舞踏会に行くお金もなく、必死に刺繍などして家計を補助していた私には、婚約の話などこないだろうと思っていた。
それがまさか、この国で有名な騎士であるドロール公爵家のルイ様から婚約のお話がくるとは──。
私も家族も何かの間違いかと思っていたけれど、その数日後には結納の品としてたくさんの宝石とドレス、そして大金が贈られてきた。
その瞬間、私には断るという選択肢がなくなり、ドロール公爵家へ嫁ぐことが決まったのだ。
あの時はなぜ私が選ばれたのかと不思議で仕方なかったけど、今ならわかるわ。
形だけの妻──どんなに虐げられても逃げられない弱い家の娘。
そんな都合のいい相手として、私がピッタリだったのね。
「……よし。もうガラスの破片はないわね。庭の掃除に行かなくちゃ!」
今の私は、公爵夫人という名の使用人……いえ。使用人以下の存在。
この家に私の味方は1人もいない。
義母も義姉も使用人も、そして旦那様も──。
屋根裏部屋を出て階段を降りていると、ものすごい勢いでマーサ様が戻ってきた。
「グズ女! もうすぐルイが帰ってくるわ! 早く着替えなさい!」
「えっ? ルイ様が?」
「早くしなさい! ああっ、なんて汚いの! 早くお風呂に連れて行って!」
うしろに控えていたメイド達にそう叫ぶなり、マーサ様はスタスタとドレスルームに向かって行った。
おそらく、私に着せるためのドレスを選びに行ったのだろう。
「早くしてください。時間がないんですから」
「あっ……ごめんなさい」
若いメイドのグレンダに文句を言われ、私は早足でお風呂場へ向かう。
ここに嫁いできてから、お風呂に入れるのは旦那様がいる間だけだった。
旦那様がいる間だけは、私はお風呂に入り、屋根裏部屋ではない広く綺麗な部屋のベッドで眠り、腐っていない普通の食事をして、公爵夫人らしいドレスに身を包むのだ。
そう。
普段、義母や義姉、使用人から私がこのような扱いをされていると気づかれないように──。
はぁ……今回の討伐は長かったから、とても久しぶりのお風呂だわ。幸せ。
「早く体と髪を洗ってください! すぐに出ますよ!」
「あ、はい」
グレンダに急かされ、慌てて全身を洗っていく。
お風呂を出て偽の私の部屋へ入ると、真っ赤で派手なドレスが飾ってあった。
……今日はこのドレスなのね。
わりと派手なドレスを着ている義母と義姉よりも、さらに目立つドレス。
装飾品も多く色も濃い。
正直、とてもセンスの悪いドレスだ。
そんな派手なドレスだけでなく、高価なアクセサリーもびっしりと用意されている。
これをすべて身につけたなら、間違いなくただの金遣いの荒い悪趣味なご夫人と化すだろう。
「さあ。メイクをしますよ」
そう言って、グレンダがいつものメイクを施してくれる。
真っ青のアイシャドウに、丸く浮いているようなピンク色のチーク。義母でもつけないような、赤黒いリップ。
そしてくるくるに巻かれた髪の毛には、無駄にヘアアクセがいくつもついている。
1つだけなら可愛くても、ここまでたくさんついていたらとても変だ。
そうして、もう見慣れた『ドロール公爵夫人』が出来上がった。
はぁ……今日もなんてひどい姿なのかしら……。
初めてこの姿にさせられた時には羞恥心で消えたくなったけれど、数年経った今ではもう慣れてしまった。
義母や使用人達から向けられる蔑むような視線も、旦那様から向けられる軽蔑の眼差しも、今では何も感じない。
帰るたびにこのような姿で迎える妻。
義母や義姉から聞かされる私の我儘で散財ばかりの堕落した生活態度。
最初から結婚に興味のなかった旦那様が、私のことを嫌いになるのに時間はかからなかった。
たしか大量にくる縁談の話を断るのが大変で、お義母様が目をつけた私と形だけの結婚をさせたと言っていたわね。
この公爵家の実権を取られたくなかった義母は、自分の言いなりになる都合のいい嫁として私を選んだのだ。
結婚して早々に私の悪行を旦那様に伝え、私達夫婦の仲を壊し、この家での私の居場所を奪った義母と義姉。
はじめのうちは否定して誤解を解こうと努力したけれど、旦那様は私の話を聞いてはくださらなかった。
旦那様の前ではお義母様は優しく聡明な母親を演じているから、私が事実を話したところできっと信じてくれなかったでしょうけど。
この家で邪魔なのは義母ではなく私──。
それに気づいた瞬間、私は旦那様への説得を諦めた。
世間体を気にして離婚は絶対に許してもらえないし、離婚したら実家の男爵家も窮地に陥ってしまう。
私にはこのままここで生活していくしかない。
このつまらない人生に終止符が打たれるその日まで、耐えるしかないのよ。
「ルイ様がお帰りになりました」
「!」
もう帰ってきたのね。
そう報告を受けて、私は義母達がすでに待機しているであろう玄関へと向かった。
私だけわざと遅れて出迎えるのも、彼女達の計算の1つだ。
さあ。私を憎い瞳で見る旦那様──ルイ様に会いに行きましょう。
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