黄泉Ⅲ
善輝は朱理のほっぺたを両手で挟むと細かく振動させて、起きるよう促す。
「あああああ、お兄ちゃあああん。それ気持ちいいいいいい」
「ええい、いい加減起きろ」
「むぎゅっ!?」
幸せそうな表情を浮かべる朱理の顔を両手でそのまま押しつぶす。唇がタコのように尖がり、目がぱっちりと開かれた。そのまま、今度は頬を摘まんで引っ張り、思いっきり離すと柔らかそうな頬がプルンと揺れる。
「いったーい。何するのー?」
「目は覚めたか? だったら、今から俺が話すことをよく聞いておけ」
「う、うん」
有無を言わさぬ善輝の剣幕に、自分たちが置かれている状況を思い出したのか。朱理の表情が引き締まる。それを確認して、善輝は布団の上で胡坐を組んだ。周りにいる者たちの顔を見渡した後、僅かに視線が下がる。
『どうした。司の方に何か動きでも?』
「いや、そちらは問題ない。今、そいつは温水駅の近くのホテルでまだ寝てる。建物全体を包むくらいの変な結界みたいなのが張られてるけど、元から中にいる影犬には効果がないみたいだ。問題なのは外の方なんだ」
犬神使いとして結界を張る力があることは特段不思議なことではない。呪詛返しを食らえば、自身に威力を増した呪いが返って来るからだ。
だが、建物全体に一人で張り巡らせるほどの結界を作るのには時間がかかる。その辺りに優秀さの片鱗が見え隠れしているのが、また腹立たしい。
善輝はおもむろに立ち上がると窓のカーテンを少しだけ開けて、外の様子を見る。
しばらく、そのまま無言で外を見続けた後、振り返って告げた。
「外に霊が溢れかえってる」
「霊が……って、もしかして、犬の?」
「いえ、犬の霊だけじゃないです。人間の霊もです」
久陽たちは立ち上がって、善輝と同じようにカーテンの向こう側を覗き見る。下を見れば海とその近くを通る小さな道路が視界に収まる。海に面したオーシャンデッキに目を凝らすと、確かに人影のようなものが見えた。
ただし、その姿は半透明で、明らかに生きた人間ではないことが遠目でも理解できる。その霊は何をするわけでもなく、ただじっとホテルの方を見つめているようにも見えた。
さらに視線を別の場所に動かせば、同じような半透明の存在が蠢いているのが分かった。犬の形をしているそれは、人とは違って何かを探すようにゆっくりと移動をしている。
「この旅館。アイツら入ってこないわよね?」
『ここは乾家の結界ほどじゃないが、それなりの結界が施されている。低俗霊では近づくことすら無理だろう。私たち犬神は素通りできるように設定されているとは聞いているけどね』
フウタは目を細めて僅かに見えるカーテンの隙間から、窓の外を見る。それは地上の様子を見る者ではない。美香が用意した結界が雲間から覗く太陽光のように、薄く光っているのが見える。結界は異界であっても問題なく起動しているようで少しばかり安堵した。
「異界で結界が維持できているのは嬉しいけど、それで異界に飲み込まれるのを防いでくれるわけじゃないのか」
『用途が違うんだ。結界は侵入を防ぐ塀。土地ごと抉って移動させるなんてことされたら無意味だ』
「ちょっと待って、今思ったんだけど、ここが異界で土地ごと神隠しってことは現実の街はどうなってるの?」
朱理が焦り始める。彼女が想像したことは容易に久陽たちにも想像できた。
「俺も神隠しにあったのは初めてだから何とも言えないな」
「あんた。逆に聞くけど、神隠しが二度目、なんて人。そんなに多くいるとは思えないわよ」
「わかってるって。だから、自信はないけど推察することはできる」
そう言って久陽は指を立てながら説明する。
一つは、ムクの言う通り、土地ごと転移させた結果、現実世界が抉られて消えている場合。
ただし、これには相当なエネルギーの消費が必要と考えられることから現実的ではない。
もう一つは、現実世界に沿うように作られたそっくりの異界に人間だけを移動させる方法。この方が、もともとある物体をトレースして作る分、エネルギーの消費は少ないらしい。勇輝からすれば、一から作り直している分、消費が激しくなると思うのだが、どうにもその常識の外にある話なので仕方がない。
一説によれば、誰かが術式などを使わなくても、そのような世界がこの瞬間にも自動的に作られては消えていっているという。




