撤退Ⅰ
芽衣たちのいる一室に黒い靄が竜巻のように発生する。風が荒れ狂うことも、轟音を立てることもなく。数秒それが続いた後に、中からそれが弾け飛んで空中で溶けるようにして消えて行く。そこに現れたのは久陽と善輝だった。
「「――――っ!?」」
芽衣と朱理の表情が驚愕に染まる。二人ともそれ以上声を発することもなく、無言で久陽と善輝にそれぞれ抱き着いた。
「あー、悪い。接触失敗したわ」
「馬鹿。そんなことどうでもいいでしょう! 死んじゃったかと思ったんだから!」
久陽に胸に頭を押し付けながら、両手でその存在を確かめるように背中に回す。あまりにも力が強いせいか。そのままプロレス技でもかけられるのかと久陽が勘違いしそうになる。
困った表情を浮かべる傍らで、善輝も久陽と同じ状態であることに気付いた。お互いに視線を交わすと苦笑いしかでてこない。
「わ、私が、あんなこと言わなければ……、こんなことにはならなかったのに……」
『いや、遅かれ早かれ、あの糞野郎とは出会ってただろうよ。敵であるという確定ができただけでも成果はあった』
ムクが芽衣の足元で呟くが、芽衣は顔を横に振るだけだ。
「そうっすね。そもそも、俺たちが話を聞いた方が良いって言い出したのが始まりですから、俺の自業自得に巻き込んじまっただけって言う」
善輝は朱理の頭を撫でながら笑う。二匹のプードルには申し訳ないが、生きて帰って来られたのだから、何とかできるはずだという希望があった。
そんな楽観的な彼のシャツは、朱理の涙と汗と、鼻から出たもので絶望的なまでに汚れている。
「それに……今は俺の影犬があの男を尾行してます。何か手掛かりがあれば、すぐに知らせ――――」
そこまで言ったところで善輝の表情が固まる。すぐにそれが悪い知らせだと誰もが感じた。
『プードル達が、やられたか』
フウタが残念そうに首を振る。
この部屋から芽衣が悲痛な声でプードル達を止めるのを見ていたからわかる。恐らく、仲間を救うために司に立ち向かっていったのだろう。そして従属を強制されて、司の犬神化してしまったと予想ができた。
「うん。みんな、あいつの配下になっちまった。近くにいた俺の影犬は大丈夫そうだけどね」
『お前が影犬越しに操られないかと心配だったが、それは大丈夫そうだな』
「やだよ。あんな奴の言いなりになるなんて、それこそ死んでも御免だ」
善輝がげんなりした顔でムクに返事をする。余程、司の第一印象が悪かったのだろう。こうなった善輝は、頑固親父もかくやというくらい考えを変えることはない。
「しかし、本当に善輝がいて助かった。お前の影犬がいなかったら、打つ手なしだったかもな」
久陽は善輝の影犬を絶賛する。
影犬の最大にして最強の能力。それは影の中を術者が移動できるという物。元々、善輝の影から生み出した存在。影があるならば本体もそこにいる、という概念から発生した転移術式。
術者である善輝とそれに触れている物や人を善輝の任意で、影犬のいる場所に転移させることができる。
「部屋に一匹、自分の足元に一匹、あいつの近くに一匹。俺が使える影犬の最大数ギリギリ。おまけに一度使うとお腹空いて動けなくなるから、普段から使おうとは思わないですけどね」
「前までは二匹しか使えなかったからな。部活と勉強だけでなく、こっちの鍛錬もしてた善輝の努力の勝利って奴だ」
「そう言ってくれると気が楽っす」
善輝がそう言った瞬間、彼の腹から大きな音が聞こえて来た。
「な、何か気を抜いたら、お腹が空いて……」
「影犬の力を使ったからだろ。これからのことを話しながら飯でも食おうぜ。腹が減っては戦はできぬってな」
芽衣の頭を撫でながら久陽は善輝へと頷く。
ただ一つ心配なのは、自分たちが食べても大丈夫なものが残っているかだ。黄泉竈食いにならぬよう、細心の注意を払う必要がある。




