邂逅Ⅷ
条件指定の交渉と強制ならば、どちらが上かなど比べるまでもない。圧倒的に後者が有利。文字通り次元が違う。
ただし、この絶望的な状況の中で一点だけ、善輝は活路を見出していた。
「(俺の影犬は……操られていない!)」
理由は幾つか考えられる。
影犬が司の想定している犬神にカウントされていない。司が認識していなければ、命令にはならない。一度に対象に出来る数には限りがある。
パッと思いつくだけでもあと数個はあるが、やはり一番は影犬が善輝自身の生み出した存在であることが大きいだろう。流石に犬の霊と生きている人間の分身――――と呼んでいいかは微妙だが――――では明らかに異なる。かたや死霊、かたや生霊とも考えることができる。
いずれにせよ。善輝の影犬は司を攻撃できるところまで接近することができていた。
「(堤防の影で足元までは近付ける。問題は攻撃するべきか否か)」
久陽が攻撃されているので正当防衛は一応成り立つだろう。だが善輝の攻撃が司に届くかどうかは微妙なところだ。そもそも、善輝は影犬を他人にけしかけたことがない。影犬で攻撃するという選択をできるかどうかという精神の問題である。
そんな善輝の焦りなど気にもせず、司は余裕そうに手を広げる。
「まったく、あの女も馬鹿だな。黙って俺に従っていれば、より強い犬神使いの子を孕めたというのに。下らない情なんて抱くから、愛する男を失うのだ」
「……何だって?」
善輝は一瞬、自分の耳を疑った。司の言い方では芽衣のことを道具か何かのように言っているように聞こえたからだ。
呆然とする善輝の顔を見て上機嫌になったのか。司は口角を吊り上げて、一歩前に出る。
「わからないか? あいつはより強い犬神使いを産むという名誉を捨てて、そこの久陽とかいう出来損ないを選んだ。出来損ないはもちろん。犬神使いの力を次代に伝えることの大切さの分からぬ、あの女も生きる価値はない」
そう断言する司。
あまりの自分勝手な言い分に開いた口が塞がらない善輝。反論する言葉すら浮かばない。
そんな二人の認識の乖離を表すかのように風が勢いよく吹き抜けていく。いつもなら肌が冷えて心地よく感じる風が、今だけは不快だった。
そんな中、司はだが、と言葉を続ける。
「間違いは誰にでもある。才能がないそいつは救えないが、あの女は別だ。少しすれば真に愛すべきものが誰か気付くだろう」
「……そんなことがあるわけないだろう! 人殺しめ!」
善輝はたまらず怒鳴り声を上げる。目の前で慕っていた久陽を殺され、芽衣を物のように扱おうとする目の前の男が、もはや人間だとは思えなかった。
犬歯を見せて睨みつける姿は正に威嚇する猛犬を彷彿とさせる。
しかし、司にはどこ吹く風。それがどうしたと言わんばかりに両手をポケットに突っ込んで、見下していた。
「人殺し? おいおい、犬神使いは人を殺してなんぼだろうが、勘違いしてんじゃねえぞ。このクソガキが」
かかってくるなら来いとばかりに挑発する。恐らくは善輝の犬神も奪い取る算段なのだろうが、善輝にとってはそれが最大のチャンスでもある。影犬は攻撃まで一秒とかからない位置に配置済みだ。殺さないまでも二度と逆らう気が起きないように半殺しにしてやろうと拳を握り込んだ。
「……いってえな。流石に死んだかと思った」
「「――――なっ!?」」
不意に聞こえてきた、聞こえるはずのない者の声。それは善輝のすぐ近くからだった。
善輝の腕にかかっていた重みがスッと消え去る。
「おい。急に攻撃仕掛けてくるとは、犬伏の家の教育はどうなってんだ?」
立ち上がって何事もなかったかのように尻や腕の汚れを払う。少なくとも、二人には久陽に犬神が憑りついているようには見えなかった。




