喪失Ⅴ
久陽の心臓が大きく跳ねる。自分の予想が外れてくれと祈りながら、意を決してもう一歩近づく。意識して嗅いだ空気は、鉄の臭いがした。
『――――お前の想像通りだ。これは誰かの血だな』
「一体誰の……!?」
視線を下に動かせば、外靴が置かれる灰色のタイルも血に汚れ、ドアノブの近くに至っては血だまりになっている。汚れか影かと思っていたそれら全てが血であった。
量的には大量出血とまではいかないものの、怪我の一言で済ませるほど生易しいものではない。久陽に事件現場の検証といった高度な知識・技術はないが、血の飛び散り具合からして相当勢いよく足のどこかに何かが当たったという印象を抱いた。
「(銃か。或いは刃物か。銃弾の跡がないから、刃物のように見えるけど、そうなるとこんな風に飛び散るか?)」
疑問は残るが、問題はその先だ。その負傷者はどこに行ったのかという問題。
久陽は強化ガラスの向こう側へと視線を向ける。
しかし、そこには地面に残っているだろう血痕がどこにもない。正確には扉を出てから一、二メートル続いているが、その先からはタイルを張り替えたと言われても違和感がないくらい綺麗だった。
「外には出てみたか?」
『誰もいなかったよ。てっきり誰か倒れているものだと思ったんだけどね』
久陽はドアノブへと手をかける。金属とは違う小さな突起物の感触に久陽は顔をしかめた。一瞬の躊躇いの後、強く握ってそれを回す。開けた扉を足で固定すると後ろへと振り返った。
「これ、抑えといてもらっていいか?」
『何でだ?』
「できれば触りたくない」
久陽は手を払って、右手から小さなゴミを落とす。
ムクはドアノブを見上げた後、納得がいったのか前脚で銀色の枠に触れる。久陽はそっと手を離すと血の途切れている場所へと近づいた。
先程タイルを張り替えた、と思ったところだが、あながち間違いではないと感じた。
血の終点のタイルは靴の裏側の特徴的な跡がついている。形状と向きからして右足の踵部分なのは間違いない。そして、土踏まず辺りから先がタイルとタイルの間を区切る溝で消失していた。
「……何だ。これ?」
普通なら、ここに何かが置いてあった。それに血痕が付いて後から退かしたと考えることもできる。足跡である以上、段ボール箱などの立体ではなく、ブルーシートなどの薄い敷物だろう。
だが久陽は、それよりも別の物を想像していた。地面ではなく、辺りを見回して何か他の異常がないか見回している。
『何かあったか?』
「……ちょっと待っててくれ」
目の前には少し進めば数段しかない階段がある。その先は一方通行の道が広がり、川が流れていた。
さらに視野を広げれば、先程渋滞を起こしていた国道とコンビニの様子がよく見えた。未だ、渋滞は解消されておらず、コンビニにも車が大量に止まっている。
これだけ旅館の駐車場が空いていれば、マナーの悪い誰かの車の一台や二台は、宿泊者でもないのに止めていきそうなものだが、ガランとした駐車場が広がっているだけだ。
そこまで見て、久陽は唐突に眼を閉じた。
ムクもフウタも久陽が何かしら眼から感じ取る能力が優れていることは知っている。だからこそ、久陽がその眼を使わないという選択を取ったことが意外で、少しばかり驚愕せざるを得ない。
ムクたちも耳を動かして久陽と同じように異変を感じ取ろうとする。波の音、川のせせらぎ、車のエンジン音、風が吹いて気が揺れて草が擦れる音。至って普通の、日常にある音しか聞こえてこない。
数秒後、久陽は目を開けて、国道やコンビニのある方を凝視する。
「ムク、フウタ。何か変な物が見えたり、聞こえたりしたか?」
『いや、何も。この血痕以外はあまり変わりないな』
『そうだな。変に何かの霊が見えたり、声が聞こえるなんてこともない。こんだけお天道様が輝いてたら、悪霊は出て来辛いだろうね』
「そうか。じゃあ、一つ聞きたいんだけどさ――――。」
久陽は目を逸らさず、背中越しに二匹に問いかけた。
「――――生き物の声。聞こえるか?」




