夢か現かⅥ
目の前に迫る黒光りする飛翔体。このまま行けば顔面直撃は免れない。
「――――ひっ!?」
喉から情けない声が出るのを感じながらも、久陽は最後の抵抗として刀印を結んだままの右手を思いきり左から右へと振り抜いた。
何かが中指の横腹に触れた感覚。遅れて右下あたりから響く、丸めた紙が落ちたような音。
肩を上下させながら荒い呼吸を繰り返し、未だにゴキブリの魔の手が自身に及んでいないことを理解する。
『お、ナイスヒット』
久陽の内心とは全く逆の冷静な声でムクが呟いた。トコトコという表現がぴったりな雰囲気で、素早く風呂場へと上半身を入れる。そのまま、右前脚で仰向けから素早く復帰したゴキブリの背を抑えつけた。
「よ、よよよ、よし! ムク、よくやった。そのまま、抑えつけててくれ。箒か何か持ってくるから。」
『そんなもん、いらねえだろ。ほら、動けなくしたから燃やしちまえ。発火の術くらい使えるだろ?』
久陽は焦る気持ちを何とか抑えて、刀印をそのままゴキブリ目掛けて振り下ろす。タイミングよくムクが足を退けるとゴキブリを包み込むように紅蓮の華が咲く。
焦げる臭いも燃え滓も一切残さず一瞬にして消滅させた。
『本当、お前は陰陽師とかの方が才能あったんじゃないか? 真言も唱えず、印も間違ったままでよくその威力と精度を保てるもんだ』
感心半分、呆れ半分。ムクはそう告げると一目散に部屋の方へと戻って行く。軽快な足取りで消えていく背中に、久陽は納得がいかないといった表情で言い返す。
「仕方ないだろ! 何度も練習してたらできるようになっちまったんだから!」
犬神を使役できない。それは自分の能力が足りないせいだ、と様々な技術を学んできた。九字切りや発火の術式は基礎の基礎。それ故に、久陽にも発動させることは容易かった。
逆に言えば、それしかできなかったともいえる。
その中で辿り着いた結論は、使える物を突き詰めて極めるという単純な答えだった。結果として、気の流れがある程度制御できていれば、術式は省略して発動することもできる練度に達している。その域に達することができるのは、鍛錬を数十年欠かさずに積んだ一部の者だけの筈だった。
「と、とりあえず、何とかなったな」
予想していた事態とはかけ離れた事件であったが、一応の収束は見せた。火は完全に対象を燃やし尽くし、既に消え失せている。消火設備が反応した形跡もなく、シャワーからお湯が流れ出る音だけが響いていた。
「おい、芽衣。ゴキブリは燃やしたから、もう大丈夫――――」
そこまで言いかけて、久陽は全然大丈夫ではないことに気付く。視界には芽衣の黒い濡れた髪が大半を占めるが、所々に白い肌が見え隠れしていた。左手からは腰当たりの柔らかい感触が返ってきて、掌に伝わる濡れた感触はシャワーのお湯なのか、自身の汗なのかまったく判別がつかない。
遠ざければ体が見え、近づければ体が触れる。どちらに転んでもアウトだ。
「ほ、本当に大丈夫!?」
「あ、あぁ、ゴキブリの方はな」
自分の方は絶賛ピンチだとは言えず、声を震わせないように返事をする。一体どうすればこの状態を切り抜けることができるのか。慌てながらムクを探すが、既にその姿は完全に脱衣所からは消えている。しかもご丁寧にドアまでしっかり閉めて。
「(あいつ、俺が困ることを見越して、見捨てやがったな!?)」
護衛の役目もある犬神が主を見捨てて、場を離れるというのはどういうことか。久陽が主ならば小一時間問い詰めたいところだが、その権利は芽衣にある。
先程とは別の絶望を胸に抱きながら戸惑っていると、久陽の胸に添えられていた芽衣の手の感触が不意に消えた。間を置かずに、久陽の視界が黒く染まる。
「み、見たら殴るから」
「お、おう。わかった」
「そのまま、自分で目を瞑って後ろを向いて」
久陽は言われた通りに、瞼を閉じてゆっくりと回る。両手を肩の位置まで上げているのは抵抗の意思がないことを示しているのだろう。まるで銃を突き付けられた人質のようであった。
ガチャリと背後でドアの閉まる音が聞こえる。ようやく、ここから逃れられると息をつくも扉越しに芽衣の声が響いてきた。
「ま、また出たら困るから、そこにいて! でも、こっちは見ないで!」
「……マジかよ」
生殺しのような状態に肩を落としながらも、久陽は致し方なしとその場に胡坐をかいて座り込む。ここで、勝手に脱衣所から逃げようものなら烈火の如く芽衣の怒りが爆発するのは目に見えている。下手をすれば泣き出しかねない。最早、自分に拒否権などないことを勇輝は重々理解していた。
次話投稿日時 8月11日 11:00




