夢か現かⅤ
意を決して右手の人差し指と中指を立てて、残りの三つの指を握り込む。
刀印と呼ばれる密教を祖とする手の握り方の一つであり、道教や修験道などと交わった末に陰陽師の退魔の法に使われるに至ったものでもある。
本来ならば九つの言葉に対応した印を結ぶ九字切りと呼ばれる術式。久陽が行っているのは、その代わりに空中に縦と横に指を走らせる簡易版である。
その術式は古くから、悪霊や魔物を退散させることに使われていたという。
「(片手が塞がった状態で、速攻をかけるならこれしかないか……!)」
詠唱を始める準備は既に整った。後はその対象を捉えて、しかるべき手順を行うだけだ。
風呂を除けば壁に吊るされたシャワーヘッドからはお湯が勢いよく流れだし、湯気が立ち込めている。
しかし、三点式ユニットバスであるこの風呂は、一般的なホテルや風呂より広いとはいえ、よほどの小さな犬でない限り隠れる場所はない。それなのにも関わらず久陽の視界には、犬のいの字も見つけられなかった。
仮に隠れていたとしても、すぐにその位置は特定されるだろう。それは即ち、浴槽の中だ。はっきり言えば、そこにいるということはその時点で芽衣に何かしらの接触があったはずだが、少なくとも昨日のような穢れは感じられない。
訝しみながら久陽が半身で更に風呂場へ近づくと、視界の端に素早く動く影を捉えた。そちらの方へと刀印を向けると同時に詠唱を開始する。
「臨・兵――――」
臨める兵、闘う者、皆、陣烈れて前に在り。
その意味は自分の目の前に神に連なる兵が展開している。即ち、それ以上寄るならばこれらの兵が相手になる。
所謂、脅し文句だ。弱い霊ならば、その言葉に宿った力だけで消し飛ばす。魔力を重ねて放てば、犬神でもただでは済まない。
ただし、一つ弱点があるとするならば、これが霊にしか通用しない所だろう。
「――――闘・者あああああ!?」
四文字目の詠唱で久陽は絶叫を上げた。気を練り込む集中力は途切れ、全身の筋肉が引き攣ったように硬直して仰け反る。漏れ出た声は恐怖一色を通り越して、絶望の色すら浮かんでいた。
敵は犬の霊などではなかった。そもそも霊ですらなく、その大きさは掌よりもはるかに小さい。だが、油断するなかれ。それは人類の天敵の一つにして、多くの人間を恐怖のどん底に叩き落してきた存在。対処法は数多くあるものの、未だにその種族は勢力を衰えさせるどころか繫栄すらしているのだ。
「――――ゴキブリじゃねえか!?」
「だから、さっきから言ってるでしょ!?」
「言ってねえよ!」
誰もが嫌悪感を抱く存在である黒き侵略者Gである。
確かに冷静に考えれば、玄関をムクが見張り、久陽が窓がある部屋にいた。二人に出会わずにここに侵入することはほぼ不可能だ。霊ならば壁を透過することも可能だろうという考えもあるが、実際はそこまで簡単ではない。物理的に壁があったり、囲まれていたり、線で区切られている。たったそれだけでも立派な結界を作っているのだ。
それを越えてやって来れるのは、よほどの力を持つ霊体くらいのものだ。それこそ何年も犬神として経験を積んで来たムクやフウタくらいの力はないと不可能に近い。それを除くならば例外として、もともと霊の通り道であるとか、どこかに結界を崩す隙間が存在しているとかくらいであろう。
警戒していた相手ではないことにほっとすると同時に、久陽はお湯の湯気を避けるようにして時折蠢くそれに生理的嫌悪感が指数関数的に上昇し始めていた。
「(何かで叩き潰すか!? いや、この状態じゃあ無理だ。お湯をかけるか、殺虫スプレーで何とかするしかないか。でも、そんなもの近くには――――)」
その時、恐れていた事態が起こった。ドアが開いたせいで空気の流れが風呂場から外へと向かい始め、ゴキブリに向かって湯気の一団が迫る。触覚でそれを感じ取ったゴキブリが選んだ行動は当然のことながら逃走である。
では、どこに逃走するか。もちろん、湯気から逃れるために空気の流れに沿うのが当然だろう。ただし、その移動は這うではなく『飛翔』であった。




