一日の終わりⅥ
『おい。』
足元から唐突にムクの声が聞こえて、久陽はビクリと肩を震わせた。
思わず目を向けたムクは呆れるでも、蔑むでもなく、ただ真剣に久陽を見つめている。何も声が出せない久陽。その状況を察して、ムクは次の言葉を紡いだ。
『何かそっちに変なやつでもいたのか? 顔色が悪いぞ。』
「いや、カーテンの隙間に真っ赤な色が見えたから何かと思って。」
『・…そうか。悪いが俺たちには人間の言う赤色がわからない。変な霊じゃなければいいんだが』
いつもならば笑い飛ばすくらいで、雑霊如きに神経を割かない。そんな彼もじっと窓の外を見ているのは、やはり昼間の件があったからだろう。
久陽も意を決して、再びカーテンの隙間の方へと視線を向けると、そこには普通に海の景色が覗いていた。慌てて、窓に近づいてカーテンを開け放つが、そこには赤となる要素は見つからなかった。
「他の部屋なら神社の鳥居みたく赤く塗った柱とかがベランダにあるみたいだけど、この部屋はそういう物が置いてないはずよ」
「げっ、聞いてたのか?」
「失礼ね。こんな部屋の中での会話なんて離れてても聞こえるわよ。それで、何かいたの?」
「いや……」
もう一度、久陽は窓の外を見渡した。左右に顔を大きく振って、死角を少なくしてみるが、それでも見つけることはできなかった。
勘違いだったのかと首を捻る久陽の耳に、バサリと机に物が置かれる音が届く。教科書に問題集、参考書などを積み上げた音だ。
「とりあえず、気分良く終わりたいから。数学で行きましょう。その方があんたも気楽でしょ?」
「そりゃあ、得意科目だからな。それで?どれくらいまでやる?」
「十時までやったら終わり。証明問題は別の日に回して、計算メインで。」
基礎を徹底的に磨いて、応用はその上で挑む。しっかりアドバイスを聞いて、やろうとする姿勢は、完璧主義の傾向がある芽衣らしいやり方だ。何かひっかかりがあって、迷った末に基礎が疎かだったことが原因なら自己嫌悪に陥るだろう。尤も、それが原因で中学生の頃は、解けなかった問題を飛ばして解くということができずに苦労していた頃もあったと聞く。
思えば、当時の困っていた芽衣にアドバイスをしたのも久陽だった。
懐かしい記憶を思い出しながら笑っていると、すぐに芽衣が目聡く指摘する。
「そこ、人が真剣にやってるのにニヤニヤしない」
「悪かったな。ちょっと昔の可愛かった頃のお前を思い出してただけだ」
「かっ――――!? 馬鹿なこと言ってないで、集中してよね。馬鹿っ!」
慌てて計算を解き進める芽衣だが、即座に赤いボールペンの先で久陽は式の一カ所を指し示す。
「ほら、焦ると凡ミスする。プラスとマイナスを間違えるのは中学生までにしておげっ!?」
久陽の体の中に鈍い音が響く。まだにやけ顔抜けていなかったからか、芽衣が人差し指で脇腹を突いてきた。元々腹回りの筋肉が強くないことと気を抜いていたこともあって、久陽に突きこまれた指は奥深くまで突き刺さる。変な声が思わず出るのも仕方のないことだろう。
一方、攻撃した芽衣の方は苦しむ久陽を放置して、さっさと次の問題にとりかかっていた。先程よりも難しい問題であったが、難なく解いているあたりに地力の高さが、或いは努力家であることがわかる。
悶絶から久陽が復帰する頃には、最後に見た問題から数問先に進んでおり、久陽は呆れて良いのか、喜んでいいのか複雑だった。
「俺、いなくてもいいんじゃないか?」
「ダメよ。何かわからない所とかあったらすぐに確認したいもの。それに合ってても面倒な解き方してる場合だってあるでしょう?」
その意見には久陽も納得だ。数学は問題によっては解き方や考え方が複数ある。その中で一番楽な計算ができれば一番いいのだが、それが簡単に見つけられれば苦労はしない。
次話投稿日時 8月10日 22:00




