一日の終わりⅣ
夕ご飯も食べ終わり、久陽と芽衣は大浴場へ。乾兄妹は、遅くならない内に荷物を纏めて帰宅した。
長風呂派の久陽であったが、流石に芽衣を待たせるわけにはいかない。どうせ一週間はお世話になるのだから、楽しみは後に取っておくつもりで脱衣所を出る。
「いや、朝一で風呂に入るのもいいな。よし、そうしよう」
「本当にお風呂好きね。前にそれで逆上せたの忘れたのかしら?」
独り言を呟きながら出ると、すぐ近くの椅子に芽衣が座っていた。部屋に備え付けの浴衣を着て、先程までの雰囲気を感じさせない。去年会った時には浴衣なんて面倒だ、と一蹴していたはずなのにどういう風の吹き回しだと久陽は訝しんだ。
その視線に気付いたのか。僅かに芽衣の目が細くなる。
「浴衣似合ってるじゃないか。一瞬、誰かわからなかったぞ」
「え、あ、うん、その――――ありがと」
馬子にも衣裳だ、などとは口が裂けても言えない。ありきたりな誉め言葉にほんの少しの皮肉を混ぜた久陽だったが、カウンター気味に放たれたその言葉は芽衣の動揺を誘うには十分な一撃だった。
口をぱくぱくさせて、何か言葉を探している芽衣。その内心は見た目以上に混乱していた。
「(な、何よいきなり褒めてくるなんて、聞いてないわよ!? ちょっと、朱理なんとか――――って、今ここにはいないんだった。もう顔真っ赤になってるんじゃないの? 私。お風呂上がりだから大丈夫よね。と、とりあえず、何か言わないと!)」
芽衣の心久陽知らず。首を傾げて、芽衣の反応を待っていると、その顔面の前にぷるぷると震える人差し指が突き出された。
「おいおい、人に指を向けちゃいけませんってならっただろ?」
「そ、そんなことは良いのよ。それより、何であんたは浴衣着ないのよ。一緒に持って行ったはずでしょ?」
「あ、それ? 悪い、俺さ……帯の結び方わからないんだよな。ちょうちょ結びか、固結びしかわからないから、結局、予備で持って来た私服にしちまった」
一応は周りの様子を見て、見様見真似で努力はしたのだろう。若干、ぐしゃぐしゃになった浴衣と帯が芽衣の前に提示された。
急速に芽衣の顔に上っていた血が落ちていく。その目には若干の憐憫の色が含まれていた。それはずっと入り口で待機していたムクも同じだった。
「わ、悪いかよ。浴衣なんて家で着ないから、着方がわからないんだよ!」
「うーん。流石に大人になったら、それくらいはできた方が良いんじゃないの? 一般常識的な?」
「良いんだよ、ネクタイの結び方とかはわかるんだから」
「結び方教えてあげてもいいわよ?」
ニヤリと笑って芽衣が下から見上げるように久陽の顔を覗き込む。
ふわり、と久陽の鼻腔を良い香りがくすぐって行く。同じもので髪や体を洗っているはずなのに、何故こうも匂いが違うのか。そんな疑問を抱きつつ、久陽は一歩後ずさった。
「あ、今、胸元見たでしょ。エッチ」
「み、見てねーよ。お前の――――」
――――わん!!
一際、大きな吼え声が響く。
周りの客が一斉にどこから聞こえたのかと見回すが、すぐに興味を無くして日常へと戻って行く。
「ちょ、ムク。お前、いきなり何て大声で吠えやがる!? いくらペットが入れる旅館だからって、誤魔化しが効かないこともあるんだぞ」
小さな声でムクへと抗議すると、四つん這いで寝転んだままムクが短く答えた。
「はっ、気を遣ってやっただけだ」
ムクが止めなかったら、久陽は今頃、一発ビンタを貰っていただろう。当然、主人にとってそれは望んでいないことであり、主人の望まぬことはムクの望むところでない。
何より、初日からそんな険悪なムードになられては、一緒に過ごす身が持たない。久陽へ最大限の侮蔑の視線を投げかけた後、ムクは立ち上がって芽衣の横に着く。
「はいはい、とりあえず、部屋まで行きましょう? こんなところで話し込んでいても、どうにもならないから。ほら、さっさと行く!」
手を二度叩いて、先を促される。渋々、久陽はその指示に従って部屋へと歩み始めた。心なしか、湯船から上がった時よりも熱くなった顔を手で仰ぎながら。




