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犬神のおん返し  作者: 一文字 心


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散策Ⅸ

 お稲荷様。稲という言葉が付くように、五穀豊穣を司っている神で名を宇迦之御魂(うかのみたまの)大神と言う。

 海を背に緩やかな坂を登ると、その神が祀られている深森稲荷神社がある。神社となると山であったり、森であったり、何かしら俗世とは断たれた場所に存在することも多い。

 しかし、この神社は住宅街の中を進んで行くと忽然と姿を現す。大きさもそこまで広いわけではないのだが、人に聖域と感じさせる何かがあるのは確かだった。


「いつ来ても、相変わらずって感じだな」

「そうね。ちょっと寂れている雰囲気が嫌いじゃないけど、祀っている神様に失礼なんじゃないかと私は思うわ」


 芽衣が指摘する通り、あまり大きな神社ではないということは、参拝者も京都などにある神社とは違って多いというわけではない。恐らく、町内会などの予算で維持している可能性の方が高い。

 それでも鳥居の朱色は剥げ、狭い石段の手摺は茶色の錆が浮かんでいた。年季が入っていると言えば聞こえはいいが、要は寂れているというのが実情だろう。

 汗だくになりながら坂道を登って来た久陽は、石段を登るとすぐに九十度の曲がり角に突き当たる。そこを曲がると既に見えていた二本の鳥居の間から注連縄を覗かせていた。

 左には由緒の書かれた比較的新しい板が置かれ、それを風雨から守る様に小さな朱色の屋根と囲う柵が目に入る。残念ながら、敷地があまりにも狭かったせいか、手水舎はおろか、鳥居の両脇にいるであろう狛犬や狐といった生き物の像すらおいてない。


「でもお母さんが一番大事なのは気持ちだって」


 朱理が額の汗を腕で拭いながら追い付いて来る。その後ろではシャツに汗の跡を作りながら善輝が続いていた。その表情には朱理と違って余裕がある。


「気持ちを表すなら、神様にとって居心地のいい場所を提供するのも一つの手段だろ。きったない部屋を用意されて、そこに押し込められて、時々、お参りするだけで大丈夫って、そんなことありえないだろうしさ」


 同じ親の下で育ちながらも二人の意見は正反対だった。

 善輝の言うことも、朱理の言うことも久陽たちには理解できた。だからこそ、あえて何も言わずに石段を進む。最後の一段へと足をかけて登り終えると、目の前に二つの鳥居がまるで口を開けた巨人のように待ち構えていた。


「――――」


 心の中で穢れを持ち込むことを謝罪しながら、頭を軽く下げて久陽は一歩前へと踏み出した。

 薄さ一センチにも満たない水のカーテンを潜ったのだと感じるほどの、ひんやりとした感触が肌を撫でる。そして、一秒と経たずに夏の暑さが押し寄せて来た。

 同時に進み出た芽衣がさっと五円玉を賽銭箱に入れると、鈴を軽く鳴らして、すかさず二礼二拍手一礼をする。

 拍手の瞬間、ヘドロが大きく波打った。そして、最後の一礼をすると同時に風が正面から吹いてヘドロを空へと吹き飛ばす。空に舞って弧を描いている最中、まるで砂でできていたかのようにヘドロが分解されて塵になり、やがて存在自体が世界から失われた。


「ふう、ちょっと体が軽くなったかしら。流石、お稲荷様ね。ここでは商売繁盛、延命長寿、厄除けの三つで名が通ってるみたいだし。効果抜群ね」

「父親はあの三貴神の素戔嗚尊(スサノオ)だからな。そりゃあ、持ってる力も偉大だろうよ」


 そう言いながら久陽は掌に握った硬貨を投げ入れて、鈴を鳴らすために縄を握る。()()()()()()()()()()()、鈴の音が辺りに木霊した。

 久陽が二礼二拍手一礼を芽衣と同様に行うと、まったく同じ現象が起きて、体が軽くなる。激しい運動をした日の夜くらいにだるかった手足が自由に動く喜びを嚙み締める。

 ふと横を見ると芽衣が呆気に取られた顔で見ていることに気付いた。よく見れば、その背後にいる朱理や善輝も同様の表情を浮かべている。

次話投稿日時 8月10日 15:00

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