散策Ⅷ
久陽がその香りに気を取られた一瞬、真下から犬の唸る声が響く。
一般人がいるため、声を自ら出すことは極力しないはず。それなのにもかかわらず、ムクとフウタは同時に同じ方へと警戒を露にしていた。
「ムク、フウタ。一体どうし――――」
――――わん。
芽衣の疑問が最後まで言い切られることはなかった。
ここにいる四人とも最小限の注意は払っていたつもりだったが、それでもすぐ近くから聞こえてくる犬の鳴き声に心臓が跳ね上がった。
ムクともフウタとも違う犬の声。声の大きさから目の届くところにいるはずなのに、周りを見渡しても何もいない。普段ならば聞き逃してしまいそうな声だが、四人とも耳の奥にこびり付いて離れない。甲高い子犬のような短い声が何度も脳内で繰り返される。
数秒後、声の聞こえた方に見える道路沿いに植わっている木々が、ドミノ倒しのように順番に撓んで近付いて来ているのが見えた。
久陽たちが腕を掲げるのと同時に、突風が駆け抜けていく。
「うおっ!? なんだこれ!?」
善輝が叫ぶが、それすらも風の唸りが所々掻き消してしまい、ほとんど久陽たちの耳には届かない。近くにいた観光客たちも顔を庇って、悲鳴にも似たどよめきの声を挙げていることだけは理解できた。
僅か五秒にも満たない突風は特に怪我人や建造物を破壊することなく、まるで最初から何もなかったように止んだ。
ある人は砂埃を払い、またある人は髪の毛を整えて、日常へと戻って行く。その中で久陽たちは顔を強張らせて佇んでいた。
「今の、どう思う?」
「言うまでもないでしょ。穢れよ穢れ。それも凄く濃いの。どこかの術師擬きが放つようなものじゃないわ」
世の中には犬神はもちろんのこと、本やネットの情報で魔法や呪詛といった知識、或いはやり方が広まってしまっている。
当然、素人が真似をしてできてしまう程、簡単な物ではない。気や魔力の練り方、秘密裏に受け継がれている術式、口伝の作法などが足りず失敗するのが常だ。
仮に成功したとしても、すぐに霧散してしまう超常現象にも満たない何か。運が悪い場合は、自分に術式が逆流して怪我をしたり、呪われたりする。百害あって一利なしだ。
芽衣の言う術師擬きというのは、興味本位でこちらの世界に手を出してしまった一般人のことを指している。
「ぱっと見、他の人は大丈夫みたいだけど、俺たちにはばっちり穢れが纏わりついてるな」
久陽の視界には今まで通りに日常を送る人々と、ヘドロのように黒い粘性の何かがあちこちに纏わりついた自分たちの姿が映っていた。
「え、久陽さんは見えてるんですか? わたしにはさっぱり……。」
朱理が埃を落とすように肩や腕を払うが、物理的な物ではないのでヘドロを透過していくだけだ。それでも、払うという行為自体に魔術的な意味もあるので、僅かにそのヘドロが減少はさせることができていた。
「そうだな……。俺も見えないけど、何かべたつくものがくっついてるのはわかる。あぁ、兄さん! 何が見えてるかは具体的に言わなくていいから、知らない方がいいこともあるし」
善輝は口を開きそうになった久陽に対して、両手で大きくバツを作って止める。特に詳細を語るつもりのなかった久陽は、口を開いたまま言葉を探す。
しばらくして、泳いだ視線が立ち並ぶ建物の向こう側。その先を見通すようにある方向へと注がれた。
「暑いから明日にしようと思ってたんだけど、行くしかないか」
「このまま帰ったら母さんに何言われるかわからないからなあ。でも母さんに払ってくれっていうわけにもいかないし」
穢れを持ち込むことに対しては、神職の関係者ならば多かれ少なかれ敏感にならざるを得ない。運が悪いと、その本人だけではなく、その家族や住んでいる場所。酷い場合には近寄っただけで悪いことが起こる。
公になっていないだけで調べる人が調べれば、そういう穢れが原因で会社などが潰れたという事例が、いくらでも出てくるのだ。だからと言って、働いている最中の母親を呼び出すわけにもいかない。故に取れる方法は一つだった。
芽衣は仕方ないとばかりに肩を竦めて、久陽と同じ方を見上げた。
「行きましょう。お稲荷様に」
次話投稿日時 8月10日 14:00




