太陽
昨夜、いつものように家庭教師の仕事をするために電車に揺られ、駅から近いマンションに向かった。昨日読んだ本について彼女が話しているのを聞いて、僕がそれについて一言二言話した後、算数の授業を始めた。帰り際、彼女は僕に明後日の授業参観に来てほしいと言ったが、僕は適当に理由をつけて断った。彼女の母親に毎度のように晩御飯を誘われるが、それも断る。マンションを出て、駅に向かう。コンビニに入ろうと思ったが、煙草をふかしている人がいたから入らなかった。定期を出して改札を抜けようとしたとき、
「先生! 待ってください」
と、先ほど教えた教え子が小走りで向かってきた。
「やっぱり、授業参観、来てくれなくても大丈夫です」
「はい」
「良かったです」
それから、彼女はまた、短い髪を懸命に揺らしながら帰っていった。
明後日になり、行かないとは言ったものの、彼女と彼女の母親とのしがらみにはなんとなく気づいていたし、父親がいないことも知っていた僕は、行ってもいいかなという気にはなっていた。ヨーグルトにバナナを突っ込むだけの朝食を食べ、ベッドに放り投げてあった本を少し読んだ後、支度をすまし、彼女のいる小学校へ向かった。下駄箱で靴を脱ぎスリッパに履き替え、壁に貼ってある校内の図を見て、五年三組の場所を探す。二階の一番奥の教室まで行き、保護者がしるしをつける紙に書くふりをして、教室に入る。思ったより保護者がいなく、それに母親が多かったので必然的に僕は目立った。教室を見渡して彼女を探し、廊下側の一番前にいるのを見つけた。僕はおや、と首を傾げた。彼女は下を向いて、誰も寄せ付けないような雰囲気を醸し出していた。やっぱり母親が来てくれないことを悲しんでいるのだと思うと、僕は少し不愉快な気持ちになった。この時間は算数の授業で、若い女の先生が必死に図形の問題を説明している。わかる人は手を挙げていっても、ほとんど挙げないから先生が気の毒に感じてしまう。これが低学年ならば盛り上がるのだろうけれど、ある程度大人に近づいている彼らは目立つことに抵抗があるのだろう、と僕は自分の経験からそう考察した。算数が終わり、休み時間になった。親が来ている子供たちがしきりに後ろを振り返る。唯一男の僕のことを不思議そうに横目で見てくるので、居心地が悪かった。発表嫌だ、という子供たちの会話で次の時間は国語らしいことが分かった。彼女はというと、机に突っ伏したまま微動だにしない。僕は具合でも悪いのではないかと心配し始め、彼女に声をかけない女教師に腹が立った。十分の休憩の後、案の定国語が始まった。先生は、窓から入ってくる太陽の光で眩しそうにして、目を細めながら、
「今日は待ちに待った発表の日です。しっかり想いを伝えましょう」
といい、番号が書かれた紙を箱の中に入れ、混ぜ始めた。どうやらくじ引きの要領で発表者を決めるらしい。発表は思ったよりも興味深かった。題材は自由に決めていいらしく、飼っている犬に向けて、僕のベッドにお漏らししないでほしいという内容の話を三分もしていた男の子には思わず微笑んでしまった。母親に感謝を伝えた女の子の発表を聞いて涙を流している母親を見て、僕も泣きそうになった。
「では、次の発表は十二番だから、えっと、坂本さんお願いします」
ようやく彼女の番が来た。彼女は肩に重りが乗ったようにゆっくりと歩き、前へ出た。心なしか、教室の雰囲気が変わったような気がした。僕の目の前に座っていた男の子は隣の子に卑しい笑みを浮かべていたし、先生の笑顔もどこか引き攣って見える。ただ、僕は彼女の内容に興味があった。普段、何を考えているのかいまいち掴めない彼女が、公の場で何を言い、みんながそれにどう反応するのかに興味があった。彼女が原稿を前に持ち、深呼吸をするのが見えた。そして、周りを見渡し、僕と目が合った。なぜか怯えたような目を、していたような気がする。時間が止まったように彼女は何も言わなかった。教室がざわつき始め、保護者は心配そうに彼女を見つめる。先生は、この状態をどうすればいいのかという焦りを露わにし、僕は彼女から目を逸らした。
「坂本さん、それを読んでくれればいいのよ」
先生は恐る恐る言った。彼女は聞こえていないかのように反応せず、ただ原稿を見つめていた。その場にいたみんなの緊張が高まった時、彼女の口が動いた。
「さ、さ、さかもと、ひ、ひひ、ひ、ひよりです…」
彼女は、まるで極度の緊張状態がずっと続いているかのように見え、それが聞き手にまで影響しているように感じた。
「わ、私は、た、た、た…、太陽のことについて、話したいと思います。い、い、いつも私は、マンションの屋上から、ひ、日の入りを見ています。昨日の太陽は悲しみ、きょ、今日の太陽は喜びというように…」
彼女の話は、大体こんな風であった。
…夕方、いつも太陽を見ている。それが、私にとって一番安心する時間であるから。毎日、抱いている感情を太陽の名前にする。だから、私にとって、同じ太陽は二度ない。今まで、幾つの太陽を見ただろう。数えられないほど、太陽に名前を付けて生きてきた。だけどもう、私には今、昨日の太陽と今日の太陽が同じにしか見えない。きっと明日もそう。名前を付けるとしたら、絶望。私は私を許さない。話すのが苦手なのを知っていて見て見ぬふりをする先生、あざ笑うクラスメイト、理想を押し付ける母親、何故かいない父親、不変の太陽…
「も、もも、もう、は、話したく、な、ないです…」
教室は、沈黙していた。そして、時間が動き出したとき、保護者は俯き、先生は怒りを露わにし、クラスメイトは笑いをこらえていた。
「もう、やめなさい」
先生が震える声で呟く。彼女が、俯きながら自分の席に戻ろうとするのを見て、僕は、顔中を涙で濡らしながら、叫んだ。
「最後まで読んで、僕にだけでもいいから、今読んで!」
彼女は、ゆっくり顔を上げて、僕を見て不思議そうな顔をした後、泣き出した。彼女は机の間をすり抜けて、僕のもとまで走ってきて、耳を澄まさないと聞こえないくらい小声で読んでくれた。泣いているのと声が小さいのとで、ほとんど何も聞き取れなかったが、彼女の今まで感じていた不条理についてはもう十分理解することができた。
読み終わった後に僕の目を見ずに囁いた、先生ありがとう、という言葉を僕は心の奥にずっと仕舞おうと思った。僕は眩しくて目を瞑った。