前篇
ふりーだむのべるすの短篇企画、音楽をテーマにした深海なんちゃってSFだよ!
【 米国領 セバス島沖 ウェールズ号】
日は高く、波は静か。
風もなく海はとても穏やかだった。
雲もなく、見渡す限りの群青世界。
そんな空の青さと海の碧さの狭間に一隻のボートが浮いていた。
船にはデフォルメされたサメの絵がペイントされており、それは周りの景色に溶け込まず違和感を醸し出していた。
船の上に人影はなく、その代わりに船の周りの海面でポコポコと気泡が弾けている。
海の透明度は高く、よく見れば海中で数人の男女がダイバースーツにボンベを背負い、気持ちよさそうに遊泳していた。
そんな彼らと違い、船内ではザリス・マッカートンが白髪交じりの頭を掻きながら退屈そうに魚群探知機を見ていた。日焼けした屈強な身体はまさに海の男といった感じで、その大きな身体を狭いスツールに収めている。
「まったく。晩飯の材料と泳ぐなんて気がしれないぜ……まあどちらが晩ごはんか分かりはしねえが」
ソナーは、小型の魚の群れを探知していた。それは彼が生まれ育ち、彼が案内したダイバー客達が泊まっているセバス島の名物である小魚の群れ。おそらく今夜のディナーにでも出るだろう。
だが、その小魚をディナーにするのは何も人間だけではない。
セバス島はシャークダイビングで有名な島だった。餌が豊富なこの島の沖には海の食物連鎖の頂点に位置するサメがよくやってくる。ダイビングのガイドは、それなりに金になる。ザリスも元は漁師だが、サメによる網への被害がここ数年増えてしまい、漁師を廃業しダイビングガイドになった。しかし、未だにサメなんてろくでもない物と泳ぎたいとやってくるダイバーの気がしれないザリスだった。
しかし、魚群探知機には小魚の群ればかり映り、肝心のサメは一向に現れなかった。客のボンベの残量から言うとあと30分ぐらいかとザリスは予想し、彼らが上がってくる準備をそろそろしないといけないなと考えていた。
さて、サメが現れなかった言い訳をどうしようか検討していると、ザリスは魚群探知機のモニターに異変を感じた。
「ん? 消えた? 」
さきほどまでいた魚群が消えていた。画面は真っ青になっており、ときおり赤く映るのはダイバーだろう。
疑問に思ったザリスがモニターを注視する。
次の瞬間。
モニターが赤く染まった。
「!! なんだ!? 」
魚群探知機は、ソナーを使って海中の物を探知する機械である。音波を発射し、それの反響で魚群を探知する。何かが反応した場合は、その大きさや距離によって色が変わる。何もなければ青。魚群であれば黄色からオレンジ。人間やサメ、クジラのような大物であれば赤。
だが、それでも画面が真っ赤になるのは異常である。それはつまりソナーの探知範囲全てに何かがいるということになる。
慌てたザリスは船室から出て、海面を覗く。そこにはいつもと変わらない海があり、ダイバー達がいた。さきほどよりも少し深い位置にいるがそれ以外に異常は見当たらない。
「何もいないじゃねえか……故障か? ち、トマスの野郎、安物を掴ませやがったな……」
ザリスはブツブツと言いながらモニターの前に戻る。画面は青色に戻っており、ダイバーを現す赤い斑模様が映っているだけだった。
「ち、帰ったら見てもらうか……また金が減る」
さて、そろそろ酸素の残量も減っているはずだ。そろそろ客も浮上してくる頃合いだろう。ザリスがそう考えモニターから離れようとした時、もう一つの小さな異変に気付いた。
「あいつら…やけに深いところにいるな……おいおい! まだ潜るのか!?」
赤い模様が、どんどん下方へと移るのがモニターで分かった。酸素残量が少ないのに更に深く潜るのはおかしい。事故かもしれない。そうザリスは判断し、再び船室を飛び出し、海面を覗く。
「何やってるんだあいつら!!」
ザリスの目に映ったのは、一見普通の光景だった。しかし、状況から判断してあり得ない事だった。
ダイバー達が全員、海の底へと一直線に泳いでいた。ザリスの方にフィンを向け、まるで何かに誘われるかのように深い深い海へと進むダイバー達。
彼らは全員、ダイバー経験の長い客だった。決して無理はしないし、酸素残量が少なくなった時点で更に深く潜るなど絶対にしない。
「馬鹿野郎! 何やってんだ!」
ザリスが船上で叫ぶ。
ーー40分後。
海上警察が現場に辿り着いた頃には、透明度の高かった海は濁っていた。
彼らは見たことないほどの大量のサメが、群れで遊泳しているのを目撃した。そしてその地獄に浮かぶ船の上で、放心状態のザリスを発見した。
☆☆☆
【ハイランド湾 海洋地球科学研究所 モニター室】
「ふあ……さっさとあいつら出勤してこねえかな……」
真っ黒なモニターの前でジャック・エディルソンは辟易していた。
ここは海洋地球科学研究所、モニター室。
ジャックはその大柄な身体を窮屈そうに椅子に座らせ夜通し、モニターとソナーのチェックをしていた。
モニターには時折ノイズのような物が走る。小魚の群れか何かだろうと判断したジャックは再びあくびをしながら目の前のデスクの上にあるポテトチップスに手を出した。デスクの上にコーラのペットボトルが雑然と積み重なっている。
水深800mに設置している音響カメラとソナーの監視が彼の役割だった。本来、夜通し監視する必要はないのだが、異例の命令が下り、彼は渋々その命令を遂行していた。
「ちっ、クソダイバー共がっ」
ジャックが悪態をついた。いつもなら眠りこけている時間に退屈な仕事をするのは耐え難い苦痛だった。
ここ数週間報告に上がったイルカ、シャチやクジラ、そしてダイバーの異常行動。動物達の行動だけだけならまだ良かったが、各地、とくにこの国の沿岸で多発するダイバーの行方不明事件によってついに当局が重い腰を上げた。
動物達の生息域を逸脱した潜航。そして、ダイバー達の自殺行為。
共通するのは、二点。
その行動が現れる前にソナーに異常が発生する現象。
そしてその後、人間、動物問わずなぜか深海へと向かう行動。
一部のクジラには深海へと深く潜航する習性があるが、本来そこまで行かない種類のイルカやクジラ、そして当然そんな場所へ行かない、否、行けないダイバーまでもがなぜか深海へと向かい、そして行方不明になった。
当たり前だが、深海には地上では考えられないほどの水圧がかかる。そんなところへ、通常のダイバーの装備で行けば死ぬに決まっている。酸素がなくなり、水圧に潰される。
だが、記録や証言を見る限り、なぜかダイバー達は自ら深海へと向かっていたようだった。
たとえ、酸素がなくなろうと。
眼球が飛び出て、体液を辺りに撒き散らそうと。
彼らは深い海へと向かった。
まるでそこに耐え難く愛しい物があるかのように。
当初は、自殺だと考えられた。しかし、同じような事件が増えるにつれ、自殺の線は薄れていった。
何か他に原因があるはずだと。
そうして事件が最も多かった海域にあるこの研究所に命令が下った。海に異常が起こっていないか調査せよと。
「ふぁーさっさと引き継いで、寝たいぜ……」
ジャックが装着するヘッドホンから聞こえるのは静かな海中の音。ときおりクジラの歌が聞こえるが、それ以外には、海流のわずかな音のみ。モニターにはノイズ程度の変化しかなく、眠気を誘うには十分だった。
「……? なんだ?」
意識が飛びかけたジャックの耳に何かが微かに聞こえる。そして徐々に、まるで侵食するように、変化のなかったモニターに大きなノイズが走る。ジャックは慌てて録画を開始し、モニターを注視した。モニターのノイズは次第に大きくなり、いつしかモニターはまるで砂嵐のように乱れていた。
ヘッドホンから聞こえる何かのボリュームが上がる。
数分後。
明らかな異常事態になぜかジャックは声も出さず虚空を見つめていた。その目は虚ろで、意識はそこにないように見えた。ただ、手をヘッドホンに当てて、一心に耳を傾けているように見える。
「あ。ああ。ああああああああああああああああああああ」
うめき声をジャックが上げた。口元からは涎が垂れ、目は血走っていた。
「うあ。うあ。いく、いかなきゃ……うた……よん、でる」
そうジャックはブツブツと呟きながら、モニター室を出た。
のたのたと廊下を歩く。そして一つの扉のセキュリティを解除し、ジャックは暗く広い部屋へと入った。
扉には、深海探査艇ドックと書いてあった。
☆☆☆
【ハイランド湾 海洋地球科学研究所 事務室】
「どういう事だ!!!」
この研究所の所長であるクレマン・サルランドの怒号が部屋に響く。
禿頭を真っ赤にして怒鳴るクレマンの前に立つのは長身の赤毛の女性だった。
クレマンの首元で十字架のペンダントが揺れる。
「私にも分からないわ。私が出社した時には、ジャックは居なかった。それで記録を調べたら、1時間程前になぜかドックのセキュリティが解除されていて……それで、様子を見にいったら、ビーグル1がなくなってたわ……」
クレマンの怒りに、研究員である赤毛の女性ーーサラ・ジェンダンが答えた。彼女が一番最初に研究所に着き、そして異常に気付いたのだった。ドックには、深海調査艇であるビーグル1、そして最新鋭のビーグル2が鎮座している、はずだった。しかし。サラが確認した時には、ビーグル1がなくなっており、ドックの海上側の扉も開いており、黒い海が覗いていた。
「あいつ……まさか盗んだのか!?」
クレマンの怒りが撒き散らさせる。しかしサラはそうは思わない。確かにジャックは控えめに言っても、勤勉でもなく、正義や忠信といった言葉からは程遠い人間だった。しかし、わざわざ深海調査艇を盗む? それはあり得ないように思えた。
「ですが、所長。もし盗むなら、なぜ最新鋭のビーグル2ではなく旧型のビーグル1を持っていったのかしら? どうせなら高く売れる方を持っていくと思うけど」
「……それは……確かにそうだな。すまない、君に当たっても仕方なかった」
ようやく冷静になったクレマンを見て、ロジャー・ヒースが口を開いた
「まあ、ほらあいつ今日はデートだったとか。君に素敵な夜景、マイナス1000メートルの夜景をね。なーんて言ったんだろうさ」
金髪碧眼で、見た目同様に軽薄な口調なロジャーにサラは呆れた。
「それは、あんたがよく使う口説き文句でしょ」
「おや、よくご存知で。はて、君に使った事あったかな?」
「さあ? 言われる前に引っ叩いたから覚えがないわ」
「ドイツ人はもう少しユーモアを勉強した方がいい」
「面白いジョークね。流石はアメリカ人、ああごめんなさい、面白くないって言った方が喜ぶんだったかしら」
普段通りのやり取りに少し安心を覚えるサラ。しかし、問題は何も解決していない。
「とにかく、警察に連絡しないと」
「駄目だ」
電話をかけようとしたサラの手をクレマンが止めた。
「なぜ!? 研究員が一人と深海調査艇がなくなっているのよ?」
「……君も知っているだろ? 例の事件の調査。その最中でこんな事件だ。出来れば大事にしたくない」
「そんな! もしかしたら何かの事故かもしれないわ!」
「とにかくまずは、記録を見よう。ロジャー、監視カメラの記録を回せ」
「とっくに、画面に出してますよ」
そう言ってロジャーが持っているPCのモニターをクレマンとサラに見せた。
そこにはジャックがモニター室にいる光景が映されている。
そして、ジャックが、のそりと立ち上がり、部屋から出ていった。
「どうしたんだこいつは……」
「続きを見ましょう。ロジャー、廊下とドックを映して」
「そう急かすなよママーーほいっと」
廊下を歩くジャックが映し出された。まるで夢遊病患者のような歩行。しかし、セキュリティを外し、ドックに入る姿は意識があるように見えた。そしてドックに入ると、ビーグル1を起動させ、海上側の扉が開けた。
最後に映るのは、ビーグル1に乗り込み、海へと消えていくジャックの姿だった。
「どういう事だ……」
「誰かに脅されたとか?」
「昨晩に通話の記録はないな。メールもない。しっかしどういうことだ?あのデブをモニター室からドックまで歩かせる理由は? 深海でのBBQパーティにでも誘われたか?」
三人が頭を捻るも、答えは出なかった。今日は研究所は休みの日で、所長であるクレマン以外に主要研究員であるサラとロジャーしか来ていない。そういう意味でクレマンには都合が良かった。
彼はなんとかこの不祥事を内々に留めておきたかった。
「ねえ……」
サラがもう一度監視カメラの映像を確認していた。ジャックがドックへと向かう少し前。そこには慌てて録画をするジャックの姿が映っていた。
「これ、録画しているように見えない?」
クレマンとロジャーがそれを確認すると、確かにそのようにジャックが動いているように見えた。
「ロジャー! すぐにデータを調べろ!」
「分かってますよ!」
「もしかして、ジャックは何か異常に気付いて自ら調査に向かった……?」
「それはないだろ。普通の仕事ですら他人任せなあいつが」
ロジャーが、ジャックが昨夜録画した映像を画面に出した。どうやら同時に録音もしていたようだが、なぜか音声データが破損していた。
「すみません、なぜか音声データが壊れていて……ちっ修復には少し時間がいるなこりゃあ」
「とりあえず、映像だけ見せろ」
画面が映る。
暗い深海。
日の届かぬ深淵に設置してある音響カメラは、音の反響を処理し、映像として映す。それは魚群探知機よりも鮮明な映像である。
「ノイズ?」
サラの呟きと共に映像にノイズが交じる。そしてそれはどんどんひどくなっていき、砂嵐になった。
「おい、映像も壊れているじゃないか!」
「データは正常です。つまり、これが実際に映ったんですよ所長」
「音響カメラがこんな事になるなんて初めて見たわ……」
「カメラ自体が故障したか。それをジャックは確認しにいったのか?」
「それはやっぱりあり得ないな。あいつだったら俺らに丸投げするはずだ」
「じゃあ、こういうのはどうかしら。何かしらのせいでジャックが壊してしまった。だから私達にばれないようにこっそり直しにいった」
「辻褄は合うが……しかしカメラを引き上げれば良いだけだ。わざわざビーグル1を使うか?」
「それもそうね」
砂嵐を見つめる三人。サラは、何かに気付いたようにその映像をもう一度巻き戻した。しかし何度見ても、そこには何か映り込むわけではなく、ただ、ノイズが映っているだけだった。
「所長。カメラが正常だと仮定して、どういう現象が起こればこんな映像になりますか」
「そうだな。これは音響カメラだ。例えば大音量の何かが近くで発生するばこうなる。音量次第では遠くても影響は出る。なんせ水中だ。音の伝わる距離が尋常ではないのは君も知っているだろ?」
「音……ねえロジャー、その音声データすぐに修復して。多分、鍵はそこにあるわ」
「分かった。1時間くれ。何、君の身だしなみにかかる時間よりは短いさ」
「それでいうなら20分でお願いね。所長、ビーグル1の記録を確認しましょう。追跡ログが残っているかもしれないわ」
「わかった。ロジャー、頼むぞ」
「20分ね……ハイハイやりますよ」
ロジャーが椅子に座り、PCに向かう。クレマンとサラはドックへと向かった。
サラはドックに入ると、脇にある管制室に入る。普段ならば切れているはずの電源がついている。サラはおそらくジャックが付けたのだろうと予測し、ビーグル1の追跡ログを検索した。
「どうだ?」
ドックの他の場所を調べていやクレマンが管制室に入ってきた。
「…あったわ。……一時間前にここを出て、ハイランド湾沖、ハイランド海溝へと向かっていったようね」
「カメラの位置か?」
「いえ、カメラは素通り。どういうこと? なぜ海溝に?」
「……監視カメラの映像でそうだろうと思ったが、やはり潜水服はそのまま残してあったよ。考えれないが、ジャックは着の身着のままビーグル1に乗って深海へと向かったようだな」
「そんなことあるはずないわ! 深海に潜水服も着ずに向えば、いくら調査艇の中でも低体温症で意識を失うわ。そんなことが分からないほど馬鹿じゃないはずよ」
「……分からん。いったいどういう事だ!」
サラは更にビーグル1の状況を調べた。とはいえ、一度ドックから出てしまえば、基本的に深海調査艇とは連絡が取れない。ビーコンから発せられる音波だけが頼りだった。
現在の位置を調べると、ビーコンの位置は30分前から変わっていなかった。
「所長、ビーグル1は海溝手前、水深950mのところで静止したようです。深度の安定度とこの辺りの地理から察するに着底したのでしょう」
「……やむを得ない。回収に向かう。一時間前なら、酸素量も十分だろう。ビーグル2で向かい、牽引する。フロートを繋げば浮かすことはできる」
「何を馬鹿な事を! 人為的にせよ、そうでないにせよこれは異常事態よ! そこに向かうのは自殺行為だわ!」
クレマンの発言に驚いたサラが抗議した。元々眼力はあるほうだが、怒るとさらに迫力を増すサラの表情にしかしクレマンは平然としていた。
「ジャックは、異変の調査に向かった。しかし、途中で調査艇が故障。やむなく我々で救助に向かわざるを得なかった。なぜなら一刻を争うからだ。当局に連絡する余裕がなかった。いいか、サラ、こういうシナリオだ。反論は無しだ」
「何かがあってからでは遅いわ!」
「もう! 既に! 起こっているだろうが!!」
「それは……」
クレマンの剣幕に負けたサラのモバイルフォンが鳴った。
「ロジャーからだわーーどうしたの? そう分かった。すぐに向かうわーー所長。音声データ、一部修復できたようです。すぐに聞いて欲しいと」
「分かった。すぐにいこう。いいか、サラ。これはもはや君だけの問題じゃないんだ」
「分かっているわ。でも既にこれは我々の手を離れているわ」
サラはそう言い残し、事務室へと向かった。
「まだだ。くそ!……神よ……」
一人残されたクレマンの悪態は、誰にも聞かれる事なくドックの中に消えた。
☆☆☆
「とりあえず、これを聞いてくれ」
事務室で待っていたロジャーが音声ファイルをPC上で再生した。PCのスピーカーからノイズ交じりの音声が流れる。
「……いつもと変わらないわね」
「いや、待て、なんだ? この音……音量を上げろロジャー」
「これが精一杯だ。なんせ元が壊れているからね。これ以上あげるとノイズだらけになっちまう」
「静かに! これはーー歌?」
PCのスピーカーからのノイズに混じり微かに聞こえる音。
それはガラスを引っ掻くような、つんざくような悲鳴。それらが何重にも合わさり壮大な多重奏を構成していた。それに宇宙めいた何かを感じさせるホイッスルのような鋭い音と浮遊感のある音が合わさり、何かこう、とても不安定な気分にさせる音だとサラは感じた。
「クジラか? いやこんな物は聞いた事がない」
「ええ。セミクジラかと一瞬思ったけど違うわ……なんだか、嫌な感じ」
「だろ?俺もさっき聞いた時鳥肌たったぜ。誰かがいたずらでUFOの音でも沈めたか?」
「新種のクジラかもしれんな。群れで歌えばこうならないか? サラ、確か君は専門だったろ」
クレマンの問いかけにサラは頷いた。確かに海洋生物学を研究しているサラだが、こんなものは聞いたことがなかった。
その奇妙な歌は、一分続くと、プツリと途絶えた。
「終わりか?」
「いえ、まだ続きはありますが、ここからは正直修復は難しい」
「スピーカーだと聞きづらいな。そのヘッドホンでもう一度聞く。サラとロジャーは今の歌を解析しろ。類似性を探すんだ」
「類似性ね……了解ボス」
クレマンが机の端にあったヘッドホンの端子をPCに刺すと、音声データを再生しはじめた。
サラとロジャーが先程の歌を解析にかける。
PCが解析をしている間にロジャーがサラの耳に口を寄せた。
「サラ。所長は警察呼ぶ気ないんだろ?」
「ええ。ジャックとビーグル1はハイランド海溝近くの水深950m近くで着底して止まっているわ。事故なのか故意なのか分からないけど。所長はビーグル2で救出に行くと言っていたわ」
「なるほど。まあそうなるわな」
「なぜ? こんなのおかしいわ。あの歌も異常よ。 私、なんだか嫌な予感がするの」
「おいおい、まさかハイランド海溝にエイリアンの基地があるなんて信じていないだろうな?」
「私が信じるのは、貴方と所長の良心がまだ残っているってことだけよ」
「そりゃあ、分の悪いの賭けだな」
「信心を賭け扱いしないで頂戴」
サラとロジャーが会話する間、1分足らずの音声データをクレマンが何度も何度も聞いていた。
最初は、好奇心だった。研究者とはいつ如何なる時も未知に引かれる者だとクレマンは思っている。
この、歌は、発見かもしれない。
クレマンは、1音も逃すまいと音に集中した。元々ピアノを嗜んでいるクレマンは所謂、絶対音感というものを持っていた。この歌はーー今までの音楽史上にない音の連なりだ。そうクレマンは確信した。
そうやって聞いているうち、クレマンの意識に何かが蠢き始めた。
ーーこれをもっと聞きたい。データじゃない。スピーカー越しじゃない。生の歌を聞きたい。
これを、もっと、聞きに行かねばならない。これは、神の与えし物だ。そうクレマンが思い始めた。頭がすーっと冴えるような感覚。まるで脳細胞が生まれ変わったような気持ち。
クレマンの意識から、ジャックの事はとうに消えていた。
☆☆☆
【ハイランド湾 海洋地球科学研究所 ドック】
「所長! 危険だわ!」
「分かっている。だが、あのままビーグル1を放っておくわけにはいかない」
サラとロジャーがヘッドホンをむしり取るまであの歌を聴き続けたクレマンは、深海へと向かうと主張した。
サラの制止を振り払い、ドックで潜水準備をするクレマンにサラが叫ぶ。
「解析しても、あの歌はどのクジラや海洋生物にも当てはまらないわ! もしその歌の発生源が原因ならもっと調査してから行くべきよ!」
「わたしには時間がない! 一人でいく。邪魔をするな」
「……サラ。気持ちは分かるが、所長を止める権限は俺らにはない」
「ロジャー……あなたまで。……分かったわ。ただし、私も行くわ」
そういうとサラは潜水服を着始めた。どう考えても所長の行動は異常だった。しかしこのまま一人で行かせるのはもっと悲惨な結果が待っているような気がしたからだ。
「わたし一人で十分だ。君まで付き合う必要はない」
「お忘れかもしれないけどビーグル2は二人乗りよ。一人では十分に機能を発揮できない。予測不可能な事態が起こっていることを想定した場合、一人では対処できないわ」
「じゃあ俺が乗るよ。君はここに残れ」
ロジャーがそう言うが、サラは首を振った。
「今回のミッションに関しては私の方が向いているわ。あなた、ビーグル2に乗ったこと一度しかないでしょ?ロジャーにはバックアップをして欲しいの。データを全て取って。それと、あの歌の解析。まだ終わってないでしょ?」
「……全く。分かった、俺が全力でバックアップする」
「ええ、お願い」
「……すまんなサラ、助かる。あの歌は、人類史を変えるかもしれん」
潜水服を来たクレマンが頭を下げた。そんなところを見るのはサラもロジャーも初めてだった。
深海調査艇ビーグル2が起動する。一見すると小型の潜水艦のような流線型のフォルム。二人が登場するコックピットは分厚いアクリル製で水圧に耐えられるように球状になっている。
寒さに耐えられるように潜水服を纏った二人が乗り込む。ロジャーはデータを取るべく、管制室に座った。
大人二人に狭苦しいコックピットのスピーカー越しにロジャーの声が響く。
「さて、二人とも準備はいいか?それでは、ジャック救出作戦を開始する。はは、まるでハリウッド映画だ」
「データは取れてる?」
「ばっちりだよ。君のハートの鼓動まで聞こえてきそうだ」
「それは取らなくても結構よ」
「いくぞ」
そうして、ビーグル2は海へと潜航していく。
目指すは、深海。
しかしまだ誰も気付いていない。
その行動は、深海へと自殺に向かう動物やダイバー達と同じ行動であることに。