第26話 変わった依頼
家族で買い物をした翌日、善司はいつもの様に職場へと歩いている。その顔はこれまで以上ににこやかで足取りも軽く、今にも走り出しそうな程だった。
善司の機嫌がいい理由は2つあり、ひとつは新しく購入した肌着に身を包んだハルの姿が、とても素晴らしかった事だ。上下ともに年齢相応のデザインを選んでいたが、その容姿とのギャップが善司を大いに熱血させた。
今朝も少し咎めるような目で見られてしまったが、もちろん後悔はしていない。
そしてもう一つの理由が、カバンの中に入っているお弁当の存在だ。ピクニックに行くために購入した弁当箱だったが、これからは仕事に行く時にも作ってもらえる事になった。ハルや、その教えを受けているイールとロールの作る料理は、善司の好みとマッチしているので、それをお昼にも食べられるというのは大きな楽しみになる。善司はその時間を心待ちにしながら、職場へと足を進めていった。
◇◆◇
「おはよう、スノフさん」
「おう、来たな」
「なんか待ってたような口調だが、何かあったのか?」
「大した事じゃないんだが、お前さんは新しい見本をまた作ってみる気は無いか?」
魔操紙工房に到着すると、スノフは朝の挨拶もそこそこに善司の近くに歩いてくるなり、今まで一度も言った事のない話を切り出した。
「スノフさんがそんな事を言い出すなんて、一体どうしたんだ?」
「最近変わった依頼が出とるんだが、誰も手を付けようとしないそうでな」
「俺の他にも見本の開発者は居るだろうに、その全員がか?」
「王都に有名な開発者がおるんだが、そいつが断ったらしい。
それを聞いた他の連中は、みな尻込みしとるって話だ」
「そんなに影響力があるのか、その開発者ってのは」
「そいつの作る見本は複雑で、誰も改良できない事で有名だからな。
そんなやつが無理だと言ったんだから、他の連中も自分には歯が立たないと諦めとるんだろう」
それを聞いた善司の中に、チャレンジ魂がふつふつと湧き上がってくる。難しい事や、誰も挑戦しない事に挑むのは、技術者として心躍る。
「詳しい話を聞かせてくれ」
「最近は魔操紙工房にもしつこく問い合わせが来とるから、お前さんがやってくれると同業の連中も助かる」
そう言ってスノフは1枚の見本を取り出し善司の前に置く、それは中型魔操板用のものだったが文字数はそこまで多くはない。善司はまだ印刷をした事のない見本だったが、貴重品を入れる金庫の魔操器用だ。説明書きによれば、鍵に暗証番号が仕込んであり、形状と入力した数字が合致すれば解錠できる、二重ロック方式のものだった。
「鍵から暗証番号を受け取る部分と、魔操作で入力する部分があるからちょっと文字数は多いが、そこまで複雑じゃないだろこれは」
「問題は見本を誰にも読めなくしろと言われとる事なんだ」
ソースコードの難読化なら仕事で取り組んだ経験はあるが、シンプルで美しく読みやすい事を良しとしている善司には、その目的が今ひとつ良くわからない。
「何でそんな事を言いだしたんだ?」
「金庫が偶然開けられたらしくてな、それを知った持ち主が魔操器の見本が誰でも読める形で公開されているのが原因だと騒いどる」
「鍵に登録された暗証番号と、その形状が合わないと開けられないのに、見本は関係ないだろ」
「みなそう思っとるが、なにせ色々な所に影響力がある貴族で、誰も止められんらしい」
「それはまた厄介な事になってるな」
「まったく迷惑な話だ」
魔操紙工房にも問い合わせが来てるくらいだから魔操組合も困ってるだろう、そう思った善司は見本作成を受ける事に決めた。
「やり方に心当たりがあるから、新しい見本を作ってみるよ」
「そいつはありがたい。
このまま騒がれ続けたら、鬱陶しいからな」
「作ってみるのは良いが、動作試験はどこでやれば良いんだ?」
「それは魔操組合でやれば問題ない、あそこには同じ金庫が置いとるし、組合も迷惑しとるはずだから喜んで協力してくれるだろ」
こうして、急ぎの印刷だけ済ませた後に、新しい見本の開発に取り組むことになった。善司は家でやってもいいと言ったが、スノフが日当や特別手当も出すからここでやれと指示したからだ。
金庫のように特殊な用途の魔操板は、あまり数が出ない代わりに単価が高い。それに加えて、スノフには初期出荷をこの工房から供給する算段が、しっかり出来ていた。
◇◆◇
ソースコードの難読化には色々な手法があるが、無意味な処理を追加したり、関数名をわかりにくいものにするだけでも、ある程度は有効だ。
魔操言語でもマクロ的な処理は使えるので、単純な命令でもマクロ化して記述していけば、かなり読みにくくなるだろう。
善司は魔操言語で使われている文字をローマ字に見立て、色々な記述やマクロ名を日本語で書いていく。それは「1+2」を「ichi tasu ni」と記述しているようなものだから、この世界の人には意味不明の文字が羅列されているようにしか見えないはずだ。
「もう昼だが、そろそろ飯に行ってこないか?」
スノフの声でペンを走らせていた手を止めると、確かにもうそんな時間だった。
「実は今日からこれがあるんだ」
「それは弁当か」
「ここで食べさせてもらっても良いか?」
「その辺の机を適当に使って構わんが、それはハルが作ったのか?」
善司の取り出した弁当箱を見て、スノフは目の前の男が双子の母娘と一緒に暮らし始めたと言っていたのを思い出す。誰もが自分にも厄災が降りかかるのを恐れて、積極的に関わろうとしなかった母娘と一緒に暮らしているこの男は、不幸になるどころは今も幸せそうに弁当箱を取り出している。
「ハルと2人の娘に、これから毎日弁当を作ると言ってもらえたからな。
今日はお昼を楽しみにしてきたんだ」
「街でもお前さんの事は噂になっとるよ」
「そうだったのか、全然気にしてなかった」
「お前さんを見てると、ワシらがずっと言い聞かされて信じとったのは、一体何だったんだという気になる」
「まぁ、過去にそう言った事例が実際にあったのかもしれないし、権力者や富豪の家に双子が生まれると、跡継ぎ問題が発生して揉めたりするから、それが歪んで伝えられてきたんじゃないか?」
「今でもお前さんの成功は一時的なものと信じとる奴らも多いが、ワシは応援しとるからこの先も思うようにやってみろ」
「スノフさんにそう言ってもらえると嬉しいよ、ありがとう」
善司のお礼に少し照れくさくなったスノフは、そのまま奥にある自宅の方へ消えてしまう。こうして応援してくれる人がいるだけでも頑張れると、善司はお弁当を開けて母娘の手料理を食べ始めた。
◇◆◇
鍵から暗証番号を受け取る部分や、双子が使う必要もなく物理スイッチとの併用で入力する魔操作の部分にはあまり手を加えず、ローマ字化による難読程度に留める。
いくつかのダミーコードや無意味な例外処理などを加えて書いていった見本は、善司以外の人間が見ても何をしているのか非常に分かり辛いものになっていた。
余計な記述やローマ字化による弊害で文字数は増えてしまっているが、中型魔操板には十分収まるサイズになった。
「試作品が出来たが魔操板に焼いてもらっても良いか?」
「もう出来たのか、お前さんは本当に凄いな」
「処理自体はそう難しいものじゃないんだ、番号が合ってるか確認するだけだからな。
それに、双子でも使える魔操板を作った時に色々な見本を読んだから、魔操言語にだいぶ慣れてきたよ」
「それにしても信じられん速度だが、試作品を見せてもらっても構わんか?」
善司から受け取った魔操紙をスノフはじっくりと見ているが、途中で諦めたのか机の上にそっと置いた。
「なんだこれは、全くわからん」
「俺にしかわからない暗号で書いたようなものだからな」
「こんな物で本当に動くのか?」
「入力間違えさえなければ動くはずだ」
「なら読み合わせをして魔操板に焼いた後に、組合に行ってみるぞ」
「わかった」
「それから、手書きの見本も一緒に持っていけ。
うまく動いたら組合で見本を印刷してそのまま提出だ」
2人で読み合わせをした後、魔操板に焼いて組合へと出発する。
◇◆◇
「支部長はいま大丈夫か?」
魔操組合に到着して、いつもの受付嬢の窓口に行きスノフがそう告げると、後ろの席に座っていた支部長がカウンターまで駆け寄ってきた。
「スノフさん、ゼンジ様、いらっしゃいませ。
本日のご用件はなんでしょうか」
「最近どこかの貴族がうるさく言ってきとっただろ」
「はい、金庫を勝手に開けられないように新しい見本を作れと」
「それの試作品を持ってきたから、ここの金庫で試してみたい」
「誠でございますか! 是非こちらに」
支部長はスノフと善司をカウンターの中に招き入れ、金庫の置いてある部屋へと案内した。
「こちらがその試作品なんですが、暗証番号を5回連続で間違えると非常用の鍵でしか開けられなくなりますので注意して下さい」
「その様な新しい機能まで……
では試させていただきます」
支部長は通常の鍵と、非常用の鍵を用意して金庫の魔操板を取り替えると、動作確認を進めていく。それが終わると別室で待っていたスノフたちの元へ移動して、嬉しそうな顔で善司の手を握り上下にブンブンと振り始めた。
「問題なく動作しておりますし、5回間違えると暗証番号を受け付けなくなりました」
「そうですか、不具合がなくて良かったです。
5回連続で間違えると動かなくなる機能はそのままでも良いでしょうか」
「通常5回も連続で間違える事はありませんし、今回の件は適当に番号を何度も押していたら偶然一致したのが理由との事でしたので、むしろ喜ばれるかと」
「ではその仕様のまま見本を作りたいと思います」
「それで、今回の見本の依頼は少々特殊なのですが、どういった記述になってるのでしょうか」
「それなんですが、ここで印刷してしまいたいんですが構いませんか?」
「それでしたら、隣の部屋にある魔操鍵盤をお使い下さい」
善司が隣の部屋にある魔操鍵盤に向かい、印刷を開始し1枚めが出来上がると3人で読み合わせをする。支部長の顔はどんどん困惑したものに変わっていき、読み合わせの声を聞いて他の職員も何人か部屋に集まってきた。
「問題ないようですので、残りの2枚を印刷してしまいますね」
そう言って善司が隣の部屋に入っていくが、その姿を支部長と魔操組合の職員たちは唖然と見送った。
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「スノフさん、これが先ほどの魔操板なのですか?」
「ワシも驚いたが、これでさっきの金庫が動いたのは間違いないぞ」
「私も魔操紙の見本を数多く見てまいりましたが、これは無意味な文字が並んでいるようにしか思えません」
善司から渡された魔操紙を読み合わせした支部長はスノフにそう尋ねるが、返ってきた答えは至極当然のものだった。部屋に入ってきた職員も印刷された魔操紙を見ているが、全員が複雑な表情になっていく。
「これは魔操言語の基本的な記述を全て定義し直しているようですが、こんな無意味な文字列を間違えずに組み立てられるとか信じられませんね」
「しかも彼の入力は異常に速いぞ、どうしてこれをあの速度で打ち込めるんだ……」
隣の部屋を覗いている職員がそんな事を言っているが、善司にとってみればローマ字入力をしているようなものだ。母音と子音の対応さえ憶えてしまえば、入力すること自体さほど困難ではない。
「あの男は面白いやつだからな。
双子でも魔操作が出来るようにしたり、その母親と一緒に暮らして今日は手作りの弁当を旨そうに食っておったわ」
「私も家をご紹介した時に聞いて驚きましたが、今までの常識や概念を覆す不思議な方です」
「それより支部長、この見本が本部の承認を受けたら初期出荷はワシの工房に任せてもらっても構わんな」
「今回は影響力の強い方からの直接依頼でもありますし、この様な見本を他の工房には任せられませんので、スノフさんの所でお願いいたします」
誰かの依頼で開発された見本の場合、販売方法が通常とは若干異なる。
まず依頼主に魔操板を届けないといけないので、一番最初は卸業者でなく魔操組合が買い上げる決まりになっている。これが初期出荷と言われるもので、その買取金額は通常の価格より遥かに高額になる。
普通は信頼や実績のある大手がその役目を担うが、今回は影響力のある貴族という事と、見本の記述が特殊すぎる事に加え、開発者本人が勤務しているという条件が重なり、確実に納品ができるスノフの工房が担当するのはある意味当然だ。
初期出荷の権利を得たスノフは、印刷を終えた善司を連れて、ホクホク顔で工房へと戻っていった。