72.熱を帯びる心に
何を言わなくとも彼女はもう自分を受け入れてくれる。
けれどその割には佐伯自身は杏癒の事を許せなかった。
大事な妹を傷つけた事。自分に好意を持たせた事。
今は隣で眠る彼女の寝顔をじっ、と見る。
ここは電車の中だ。
あれから2人は公園を抜け出して、そのままどこかへ行こう、と言う話になった。
「どこがいいですか?」
そう尋ねると杏癒は「どこでもいい」と答えた。恐らく貴方と一緒なら、と云わんばかりに。
こう考えてしまう時点で佐伯はきっとどこか夢見ているのだろう。
けれどもこれは覚めない夢だ
目指す先は何時しか読んだ誰ともしれない恋愛物語の舞台となった鎌倉――その先にある小動岬。
海が見たかった。美穂と横浜で海べりの公園を歩いた時にふと思った下らない望み。
それを今叶えよう、と終電ギリギリで電車に乗り込んでは揺られている。
「……ん」
もぞ、と隣で寝ている杏癒が微かに動いた。ついでに美穂から貰ったシルバーの腕時計に目を落とすと、もう午後10時近くを指している。
今日中に小動岬に着くだろうか?と不安になるも、もうそんな不安や心配も必要ないのだと心内で首を横に振る。
仮令野宿しようが、なんだろうがそれで構わない。これこそ永遠に覚めぬ夢なのだ。だから時間の経過など気にしなくていいのだ。
「……起きました?」
小さく声を掛けると、杏癒はうっすらと目を開けてはクスクスと笑う。
嗚呼、夢の中にいながらもこの人は寝ぼけているのか。そう思うとどこか佐伯は杏癒が愛しいと思った。
「もう、僕らは苦しまなくていいんですね。」
誰もいない電車内で密かに呟くと、杏癒も同じなのか軽く頷いた。余計に安堵が芽生える。しかし端から見たらこれは一種の狂気だ。
何故こうも互いに愛憎を抱くのか?殺したいと、許したくないと願っておきながらもまだ傍にいるのか?
そっと佐伯は鞄に入れたビニール袋からある物を取り出す。
それは白く細い拘束具――結束バンドだった。
ここに来る前にホームセンターで買った1つであるこれ。果たしてこんな物を一体何に使うのか佐伯自身も判らない。でも頭ははっきりとしている。
何時か読んだ下らないあの恋愛物語の終わりはどうだったかと思い返す度に思う。
“Nemo ante mortem beatus”――宗教者ぶるつもりはないが、きっとこの言葉は正しいのだと思う。
この世の中は苦痛ばかりだから人は嘆き苦しむ。死に向かって生きる運命ならば、もういっそ死と言う終わりを自ら打っても構わない筈だ。
どうも、織坂一です。
とうとう色んな意味でこの話が狂ってきましたね(個人的には最初から狂ってましたが)
この下げて下げて下げるスタンスの中、彼らは小動岬に行ってどうするのか……という事ですが、まぁこれは多大なネタバレになるので言うのは止めておきましょう。
しかしこのラストは狂ってる感しか出したくなかったのと、最初の「陽のあたるなんちゃら」の部分にストレートに繋げるにはこのラストが一番理想的でした。
という訳で次回もどうなるのかお楽しみに




