48.押し寄せる影にもう迷いはない
「何故……」
何故彼女の声が?そう思うと自然に溜息が出る。
もう2度と会わないと、会いたくないと願っているのに何故と思うだけでそれは白い紙の上に垂らした黒いインクの様に心内に広がっていく。正直堪ったものではない。
「はぁ……。」
本日2度目の重い溜息。だがもう1度だけ赤と黄色で彩られた景色を見ればカメラで写真を撮るかの様に指で画面の形を作って、ピントを合わせる。
「くるしいだろうねぇ。けれども苦しいのは君だけじゃない。夕焼けの悲しさは、僕にだってよくわかる、けれども、こらえて生きていこう……か。」
そうぽつりと呟く
読書家である佐伯は何時かとある文豪が残した言葉を呟いては自嘲気味に嗤う。
「……洒落にもなりませんね。」
とだけ言い残すといい加減湯には浸かったと思えば、既に外で待っている美穂を待たせない為に早めに支度してその場を後にした。
「あら、依人さん。お帰りなさい。」
「お帰りなさい」と言う響きに少し拍子抜けするが、微笑んで「ただいま」と返せば美穂は笑う。
「どうだった?お湯の方は」
「最高でした。温泉に疎い僕ですが、温泉から見える景色だけでなく、お湯も素晴らしかったです。」
「なら良かったわ、喜んで貰えて。この後の食事も美味しいらしいの。だから楽しみにしてて?」
「判りました」
どこか子供っぽい美穂の様子に安堵の息を吐いた瞬間、彼女が佐伯の顔を除いては声を低めては言った。
「何か悩み事でもあるの?」
ドキリ、と思わず膠着する。しかし折角の旅行で影を射す訳にはいかないし、そんなのは自分が美穂の立場でも嫌な物だ。その為苦笑を浮かべては精一杯の言い訳をする。
「否、結構時間が経つのが早くて……だからこのままじゃあっと言う間に過ぎてしまうんじゃないかって落胆してたんです。済みません、女々しくて。」
「……可愛い」
「は?」
「別にいいじゃない。確かに今回は早かったもしれないけれど、私達、腐っても婚約者でしょう?だったらこれぐらい少しの我慢よ。」
「ああ……」
完全に調子を崩された、が今の佐伯にとってこれぐらいの事を言ってやらないとあの忌まわしい記憶は消えないだろう。
その面では感謝はするが、男として可愛いと言われるのは複雑だ。少しつん、とそっぽを向いては足早に部屋へと向かう。
「ちょっと、依人さん!?」
突然の事で驚いたのか後ろをついてくる美穂の方に顔を向けては佐伯は言う。
「先程のお返しです。さっさと部屋に戻りますよ?」
「……もうっ」
完全に不機嫌となった美穂は頬を膨らませては佐伯の後ろを歩いていく。
だが、こういうのも悪くない。そうふと思った。
どうも、織坂一です。
前回杏癒パートも入るかもしれないと言いましたが、案外長くびっくりしましたが、これで佐伯パートと杏癒パートと綺麗に分けられたので一安心です。
そして本編で佐伯が呟いたのはまたもや恒例の太宰治の一言です。(どんだけだすんや……)
誰も知らなくていい裏設定では佐伯は読書家の上に好きな文豪は太宰治という設定があるので、また物語終盤にも出てくると思います。
後今回のタイトルに関してなのですが、迷いはないと言っても一時的にです。
女々しい佐伯の事ですから、1度頭に入ると中々頭を離れません。男性脳である杏癒との違いはここですね。
さて、次は杏癒パートですが、彼女は婚約者と一体どう過ごすのかお楽しみに!




