14.蠢くざわめき 後編5
「私にも婚約者がいますから。佐伯さんと同じくネット界隈での話で。私も相手に伝えたい事は腐る程あります、でもそれら全てを受け取って貰える訳でもないし、ましてや字面上だから……かと言って会いたいなんて言ったら、それも我儘な気がして。」
「……可笑しい話ですね」
少しだけ佐伯の声音のトーンが下がる。
そしてその次の言葉は杏癒が「何故?」と促さなくとも自然に出てきた。
「まさか偶然出向いたこんな虚偽だらけの街で同じ境遇の2人が一晩酒を酌み交わして、こうして同じテーブルで朝食を摂るだなんて逆に笑えない。」
「……ですね。せめて私が佳人であれば良かったのですが。」
「……しんみりとした話の途中悪いけど、温野菜定食と鮭定食ね。それよりお嬢ちゃん、佳人って何だい?」
「佳人とは俳句上、美人の事を示すんですよ幸さん。」
「ほう、流石依ちゃんは博識だねぇ。でも、私は今お嬢ちゃんに聞いたんだ。お嬢ちゃんは何の仕事をしてるんだい?」
コト、と運ばれてきた定食に目をやるとそれは豪勢というより家庭的なお母の味と言うべきか、味噌汁から漂う湯気に頬を杏癒は頬を綻ばせると、言葉を返した。
「売れない小説家です。にしても美味しそうですね、佐伯さん本当に有難うございます。」
「私の作る料理はそんじゃそこらの定食屋じゃ味わえないよ?でも良かったねぇ依ちゃん。少し笑顔が増えた様で私は安心したよ。」
「え?」
「幸さん」
どこか慌てふためく佐伯の様子を見ると幸と呼ばれた店主はふふ、と笑っては一言だけ呟く。
「それじゃごゆっくり」
「……はぁ」
美味しそうな朝食を前にして、まるで頭痛に悩まされる様な態度で髪を掻きあげる様子を見ては思わず杏癒は笑った。勿論失礼千万なのは判っていてもどうしても止められなかった。それに対し、重い調子で佐伯は呟いた。
「……何ですか?」
「いえ、なんでもありませんよ。さ、温かい内に食べちゃいましょう?」
「ええ……」
知的さながら優しくて、どこか子供っぽい所は酷く杏癒が愛した誰かその人に似ていた。もしもと言う事はないだろうが、この奇妙な巡り合せがまた2人の人生を変えていくが、未だ2人はそれを知らない。
どうも、織坂一です。
ここで「蠢くざわめき編」は終了になります。
最後のシメなので、ほのぼのになりましたが、ここからまた1つ1つの単話に戻ります。
次は2人の朝ですね。
この話に関しては後書きでああだこうだ言う事はないので、ここから本格的に佐伯と杏癒の物語が始まると思っていただければ……。
ブログの方で書きましたが、ここに掲載するのは新潮社様に送ったものの手直しですので、発刊本とはまた違います。
発刊に関してはまだまだ未定なので、もしこの小説を見て、「お?」と思っていただければと思います。




