025 - hacker.diveInto(sea);
【注意】文中に震災を想起させる表現がありますので、苦手な方はご注意ください。
メールの説明を終えたので、スキャナとデータベースについて話そうと思ったのだが、そろそろ晩ごはんの時間が近づいている。ボスが昼過ぎに議会から帰ってきてからずっと話し込んでいたので、そういえば喉もからからだ。
「ボス、続きを話してもいいんですが、そろそろお腹がすきませんか?」
「ん? 言われてみれば、もうそんな時間か。よし、いつもの社員食堂へ向かうとしようではないか」
「はい、そうしましょうか。それにしても社員食堂はいいんですが、自炊しようという気はまったくないんですね?」
「うっ……ん、ん、まあ、そのうちにな……」
以前にボスが手料理だと主張したものを食べさせてもらったが、別に食べられないものではなかった。むしろ、おいしかった気もするのだが、なぜ自炊しないのだろうか?
会社を起こしたばかりで忙しく、手間をかけている時間がないのはしょうがないのだが、いつも外食ではお金がかかっている気もする。以前に大金を払い込んだと言っていたが、こうも毎日食べていても大丈夫となると、一体いくら払い込んだのか気になる。
「まあ、いいですけど、あれ、そういえばシィちゃんはどこに?」
「んん? いつも通り外で遊んでいるんじゃないか?」
もういい時間なので、辺りはペイントツールの減算レイヤーで塗りつぶしたように薄闇がかかっている。いつもならとっくに帰ってきている時間帯だ。シィは意外と気を使う性格のようで、あまり遅くならないようにしているはずなのだが、今日に限っては帰りが遅い。
「庭にはいなさそうです。こういう時の『電話』ですね」
そういってマギデバイスを取り出し、シィへと電話を掛ける。自分で作ったものが役に立つのは嬉しいと同時になんだか不思議な気分でもある。今まで舞台の上に立って演技していたのに、急に観客席に座って自分の演技を見ている気分になる。
自分で演じている分には気にならなくても、利用者の立場になると急に細かい部分の動きや使い勝手が気になったりするのだ。
日常的に自社のサービスや製品を利用者の立場で利用して磨き上げる事を「ドッグフーディング」と呼ぶ事がある。アメリカのIT企業が使っているスラングだ。犬の気持ちになって犬のエサを食べてみましょう、という事なのだろう。利用者を犬に例えているわけで、いささかお行儀の悪い言葉だと思う。
「がうっがうっ!」
シィへの電話がつながると、犬の声が聞こえてきた。あれ、狼だっけ? まあどちらでもいいか。とにかくバレットの声だ。なんだか慌てているように聞こえる。
「あははっ! バレットだめだよー。あ、おにーちゃん。どうしたの?」
画面の向こうには、いつものシィの笑顔があった。ほっと安心しつつ、きっと遊んでいて時間を忘れたのだろうと思った。だが、よく見ると画面に映っている背景が見慣れないものである事に気づいて戸惑う。どうも、どこかの屋内のようだ。
「シィちゃん、どこにいるんだ? もうそろそろ夕飯の時間だよ」
「えっ! もうそんな時間なの!? ごめんね、おにーちゃん。すぐに帰るよー」
「うん。気をつけてね」
「がうがうっ!」
どうやらちゃんと帰ってこれるようなので、安心して電話を切ろうとしたところ、画面の向こうで横からバレットが顔をだした。一生懸命に、画面のこちら側にいる僕に向かって何かを伝えようとしている気がする。
「ん? どうしたんだバレット」
「何か言っているみたいだな」
「がうう……がうっ」
何を伝えようとしているのか僕もボスも全くわからない。犬の気持ちがわかるマギでも作っておくのだった。犬の気持ちがわかる機械があるくらいなのだから、マギでだってわかるかもしれない。機械の方は果たしてどういう仕組みで動いているのか知らないが、恐らく鳴き声の波形を解析して統計的に判定しているんじゃないかと思う。
「おやおや、お嬢ちゃん、それは一体なんなのかな?」
バレットが鳴きやむと、画面の向こうから聞き慣れない声が流れてきた。やや低めの中年男性の声だ。画面に映っているシィは男の声の方を向くと笑顔のままで答えた。
「あ、おじさん! あのね、これはね、おにーちゃんが作った電話のマギサービスなんだよ! 遠くの人とお話できちゃうの! えへへ、すごいでしょ!」
「ほほう、それはすごいねぇ。そうだ、おじちゃんにもちょっと話させてもらっていいかな? シィちゃんにはほら、お菓子をあげようね」
「いいよー! わーい! お菓子だー!」
「ちょ、シィちゃん!」
僕の呼びかけもむなしく、シィは無邪気な笑顔のまま画面の外へと消えていった。電話中のマギデバイスを置いていったのだろう。バレットは男のいるであろう方向に向かってグルルとうなっている。
僕の顔は強張っているはずだ。隣のボスは腕を組んで怖い表情になっている。バレットがこういう反応をするという事は、何かよからぬ事が起きている可能性が高い。それにしても、バレットがついていながらこういう状況になっているのが不思議だが。
しばらくして、画面の中に見知らぬ男性が映り込んだ。つるりと禿げ上がった頭が印象的なその男性は、口に胡散臭い笑みを浮かべて僕へと話しかけてきた。さきほどはシィに対して電話に驚いたフリをしていたのか、電話越しに僕の顔を見ても驚いた様子はない。
「やあ、これはどうも。あなたが噂の『マギハッカー』殿ですかな?」
「マギハッカー……? い、いえ、僕は白石番兵ですが……。そ、それより、うちのシィちゃんがお世話になっているようですね」
「ええ、ええ。シィちゃんはとっても良い子ですな。おかげさまで、楽しい時間を過ごさせて頂いておりますとも」
ニコニコと笑みを浮かべる男性。だがその笑みは非常に胡散臭い。禿頭以外は特にこれといった特徴もない顔で、人を第一印象だけで判断するべきではないが、どうも口調や仕草が怪しい雰囲気を醸し出している。
それにしてもマギハッカーとは驚いた。噂の、と前についているので何かの当てこすりなのかもしれない。先人のマギハッカーにはまだまだ遠く及ばないことは自分でわかっている。
「申し訳ございませんが、そろそろ夕食の時間なので、シィにはお菓子を与えたりせずに、そのまま家の方に帰していただけないでしょうか?」
口下手な僕に代わり、横からボスがやりとりを引き継いだ。ピリピリしているのか、いつもよりも幾分と険しない表情だ。敬語ではあるが口調は刺々しい。
「おや、あなたは……確か、レイルズ家の御令嬢でしたな。ほっほほ。心配しなくても、ちゃんとシィちゃんはお家に帰してあげますよ。ええ」
どうやら男はボスの実家であるレイルズ家を知っているらしい。ボスの父親であるデイビッド氏の知り合いだろうか。家名が出てきてボスの顔が強張る。
「父のお知り合いの方でしょうか。私は家を出ている身ですので」
「ほっほ。そうでしたなぁ。いや、貴女が家を飛び出した後の彼の顔はなかなかの見ものでしたからな。やはりかの人格者でも実の娘にはかなわないという事でしょうな」
「それよりも! 早くシィを帰して頂くようお願いいたします」
「おお、これは申し訳ありませんな。そうですねぇ、ただ、もう外は暗くなってきてますからねぇ。シィちゃんだけで帰るのは危ないかもしれませんなぁ」
「犬がついているので大丈夫です。帰してください」
「ほほほ。そういえば、あの犬はずいぶんと変わった犬ですなぁ」
男はのらりくらりとボスの言葉をかわしている。明らかにシィを帰すつもりがないような煮え切らない態度にいい加減にイラついていたのか、ボスが声を張り上げた。
「いい加減にしろ! どういうつもりだ!」
「おやおや、いかがしましたか? いきなり大きな声を出して」
男は大げさに眉毛を上げて目を丸くする。
「今すぐシィを帰せと言っている!」
「ほっほほ。これはまた、ずいぶんとシィちゃんを可愛がっていらっしゃるんですねえ。血のつながった家族というわけでもないのに、不思議なものです」
どうやら男はこちらの情報をある程度調べているらしい。気持ち悪さに拍車がかかる。男のばかに丁寧な口調も相まって嫌悪感が増す。慇懃無礼というのはまさしくこういう男の事だろう。
顔を赤くして鼻息を荒くしたボスを抑えるように、まだ冷静でいられている僕が前に出る。
「わかりました、こちらから迎えに行きますので、そちらの場所を教えてください」
「おやー、そうですかぁ。これはお手数をおかけしますねぇ。それにしても、この電話というマギサービスは大変に便利ですなぁ。まるで近くにいるように会話できるとは」
男は電話を大げさに褒めちぎった。褒められているはずなのに無性にイラつくのはなぜなのだろう。
その後も何とか場所を聞き出そうとするが、男はのらりくらりと受け答えを続けて場所を教えようとしない。シィに代われと言っても梨のつぶてだ。
ボスはもはや怒髪天を衝いている様子で、今すぐにでも飛び出していきそうな雰囲気だ。このままではボスまで行方不明になりかねない。
「……どうやら、帰すつもりはないようですね」
「おやおや。そんな事はありませんよぉ」
僕もいい加減に男の態度に頭がきていたので、そろそろ非常手段をとることにした。
「後悔しないといいですね」
捨て台詞を吐いて、まずは電話を切る。男は何か言おうとしたが、電話の画面は消えてしまった。マギデバイスやマギサービスはマギフィンガープリントによる識別で本人しか使えないので、男からこちらに連絡を取る事もできなくなった。
「お、おいバンペイ! いいのか電話を終えてしまって! あの男はシィを帰さない気だぞ! 少しでも情報を集めるべきじゃないのか!?」
僕がいきなり電話を切ったことに驚いたボスが、僕に食って掛かる。確かに少し乱暴だったが、これからやる事を男に見られるわけにはいかなかったのだ。
「大丈夫です、ボス」
おもむろにマギデバイスを振っていつもの白いスクリーンを呼び出す。そして、そのままマギデバイスを握りしめてガリガリとコードを書き始めた。
「おい、バン――」
ボスが何か話しかけていたようだが、もはや意識の彼方にいる。コードを書いている時はいつだって静かだ。凪いだ海の上に立っているように無音の空間の中で、僕はただコードと向い合って対話を続けていく。
いつか東日本を大きな地震が襲った時、僕は仕事でコードを書いている真っ最中だった。会社は関東圏に位置していたため、地震の影響も大きかった。高層ビルの上の方にあったため揺れが大きく、本棚に置かれていた技術書が飛び出し、例え座っていても何かに掴まらなくては耐えられないほどだった。
しかしそんな中でも僕はコードを書き続けた。何かに取り憑かれたかのようだったとは同僚の言だ。僕は地震が来ていた事にすら気づかないまま、その時に取り組んでいたアルゴリズムの最適化で思いついたアイデアを実装していたのだ。
みんなが取るものも取らずに避難していく中、フロアにはぽつんと一人、僕だけが残された。その時の事はコードで頭がいっぱいだったためによく覚えていないのだが、数人の同僚が「避難しないのか?」と聞いても、生返事を返すだけだったらしい。
結局、安全が確認されて同僚が戻ってくるまで僕はモニタの前にかじりついて離れなかった。場合によっては避難したあとそのまま帰宅という事もありえたので、そうなっていたら深夜か翌日まで気が付かなかったかもしれない。
避難して戻ってきたら相変わらずモニタの前に座ったままの僕を見て、僕の同僚たちは驚くよりも少し不気味に思ったそうだ。これは仕方ないと思う。
コードを書いている時の僕というのは、まるで幽体離脱して意識だけが海に飛び込んでいくように遠くにいる。そしてコードの事を考えていると、自己認識すら曖昧になって意識がコードへと溶け込んでいく。そういう時はなによりも気持ちいい。
下世話な話だが、彼女ができなくても平然としているのはこの性質が災いしているのかもしれなかった。男として情けない話だ。
そんな気持ちいい時間は終わりを告げ、手元には書き終えたコードだけが残った。僕の手が止まった事に気がついたのか、ずっと見ていたらしいボスがホッと溜息をつく。
「戻ってきたか、バンペイ。まったく、マギランゲージを書いている君は本当に無反応になるな」
「すみません、ボス。でもこれで……【ラン】」
書き上げたばかりのコードが光を発して動き始める。なんだかんだ言って、僕もずいぶんとマギに染まったものだ。
今回書いたのは簡単だ。電話システムを応用してマギデバイスの位置を特定し、マギデバイスの持ち主をマギデバイスごと持ってくる。ついでに、近くにいる魔物も巻き込んで、だ。いくらバレットが可愛いからといって、魔物である事を忘れるはずはないよな。
光が収まると、はたしてそこには、ほっぺにクリームを付けたシィ、犬のように可愛いバレット、そして。
「なっ!? ここは!?」
画面の前にいたはずの男が、うろたえた様子で立っていた。




