Chapter 4
季節はいつの間にか春を迎えていた。
コンクリートで被われた港には桜の木がない。おれはヨーコを花見に誘ったが、面倒くさい、と一蹴されてしまった。ヨーコはおれに何も要求しなかったし、おれもヨーコに何も要求できなかった。ヨーコは決しておれにこびることはなかったし、だからおれもヨーコに甘えることは出来なかった。つまり、全てはヨーコのペースに則っておれたちの関係は成り立っていたのだ。
五月の終わり、おれのところに香澄という葉子の友達から連絡があった。おれと葉子が出会ったあの海で、一緒にいた女の子グループの一人だ。
香澄とおれはよくある平凡なイタ飯屋で昼飯を一緒に食った。香澄と会うのは、一年ぶりぐらいだった。香澄は葉子がおれじゃない男と結婚するという知らせを聞いてびっくりした、と言ってきた。
「ひろとくん、裏切られちゃったわけ?けっこうひどいね、葉子も」
悪気なくダイレクトに言ってくる香澄におれは苦笑いして肩をすくめた。
「知り合って五ヶ月だって。来月結婚式だよ」
さすがにおれは胸の奥がざわついたが、今更どうしようもない。
「なんだ、葉子がこうなるんだったら、私ももうちょっと待ってれば良かった」
そう言って香澄は肩をすくめた。香澄もこの三月に結婚したばかりだ。相手は会社の同僚らしい。
「知ってた?私、けっこうひろとくんのこと、気に入ってたんだよ」
香澄はほどよいブラウンに染めた長めの前髪の間から、ぱちぱちと目をしばたたいて見せた。
「そりゃ、どうも」
おれは再び苦笑いで香澄の気まぐれな遅すぎる告白をかわす。
「ほんと、いつか自分のお店持ちなよ。葉子のこと、見返してやらなきゃ」
屈託なく笑う香澄の左手の薬指にはまだ新しいプラチナの結婚指輪が光っている。女達はこの銀色のステイタスシンボルのために一喜一憂している。そしてその後には、また別のシンボルを求めて躍起になるのだろう。子供、マンションか一戸建ての持ち家、学校や習い事で水面下で競い合いながら子育てが一段落したら、なるべく楽でオシャレなパートで少しばかり小遣い稼ぎと昔の友人にちょっと自慢できる程度の世間での自分のポジションを獲得すること。
おれはふとヨーコのことを考えた。ヨーコは目の前の香澄が欲しがっているものは何一つ持たずに過ごしてきた。なのにどうして、ちっとも不幸せそうじゃないし、あんなに自由にのびのびと生きているんだろう。
「香澄は今、幸せ?」
おれはふと香澄に尋ねた。香澄は目を丸くしたかと思うと、次の瞬間曖昧な微笑みを浮かべた。
「やだ、ひろとくん、なんでそんなこと聞くのよ。どきっとしちゃうじゃないの」
おれはそんな香澄の中にかすかな期待の芽を感じてしまった。欲張りな香澄。きちんと立ち回って、ちゃんと自分の欲しいものを手に入れておきながら、イレギュラーで手に入るものもどん欲に期待するのか。
人生にどん欲なのはいいことなのだろう、たぶん。
だけど、今のおれは、そういうのをうるさい面倒なものとしか思えなくなっていた。手に入れたいものなんてことさらないが、今の生活に満足しているわけでも、不満を感じているわけでもない。
おれは香澄に誘われるまま、断る理由も見つからず、その辺のラブホテルで香澄とひとときを過ごした。ちゃんとつけてね、としっかり念を押す香澄はどこまでも計算ずくで生きていて、あきれてしまった。
夜の海風にかすかに夏のにおいが混ざる夜、おれがいつものようにふらっとバーの扉をくぐると、珍しくヨーコがいなかった。もうすっかりマスターと店員(本人の申告によればサユリさんと言うらしい)の二人と顔なじみになっていたおれは、一人でも退屈することなく過ごした。最近ではおれも片言の英語で多国籍の船乗り達と話を交わすことも多かった。
その日も一人の男が大切そうに札入れから婚約者の写真を出して、周囲にやいのやいの言われていた。
おれも覗いたが、むっちりした、そばかすだらけで大顔にメガネをかけたもじゃもじゃ頭の女が映っていた。二の腕は華奢な日本人の女の子の太ももぐらいはありそうで、そこにもしみともそばかすともつかないものが点々とちりばめられていた。
いわゆる美人タイプでは全くなかったが、それを大事そうに指先でなぞってにやける色黒のプエルトリコ系の男があまりに幸せそうなので、何だかすっかり嬉しくなってコングラチュレイション、と何度も叫んでしまった。
一週間ほどして訪れたときも、バーにヨーコの姿はなかった。マスターもサユリさんもさあ、と首を振るばかりでらちがあかないので、おれは一杯だけひっかけるとヨーコのアパートに向かった。
かぎのないヨーコの部屋のドアを開けると、居心地の良い部屋はそのままで、主だけがいなかった。どこかに出かけているのだろうか。
おれはしばらく部屋で待つことにした。だが、夜が更けてもヨーコは戻ってこなかった。
もしかして入れ違いでバーにいるかも、と急いで戻ってみたりもしたが、やはり店にヨーコの姿はなかった。
数日後、再びバーを訪れたが、やはりヨーコの姿はなかった。
「ヨーコ、どうかしたんですか。旅行に行ってるとか?」
そう尋ねながら、花見すら面倒臭いと断ってきた出不精のヨーコに限って旅行なんてありえないとおれは思っていた。
「さあな。あいつは気まぐれだから」
マスターは無表情でそう答える。傍らで申し訳なさそうにサユリさんがマスターとおれを落ちつかなげにちらちらと交互に見ていた。
おれはその日もヨーコの部屋を訪れた。部屋の中にはうっすらと埃がたまっていた。流しにも、テーブルにも、床にも。もう何日も誰も暮らしていないのは明らかだった。
おれは、ヨーコの部屋の中に何か手がかりがないかといつになく丁寧に見渡してみたが、何一つ変わり映えのないいつものヨーコの部屋だった。
思い切って、その夜はヨーコの部屋に泊まった。しかし、朝になってもヨーコの姿はなく、おれは一人でヨーコのベッドで朝遅くまでぐずぐずと一人で過ごした。
ヨーコのいない日々はそれからも続き、季節はすっかり夏になっていた。
はるか沖を通った今年初めての台風が港をかすめていった次の夜、バーのカウンターに座ったおれに、マスターがぼそっとつぶやいた。
「・・・あの部屋のもの、あんたが好きなように処分していいってよ」
一瞬、おれは意味が分からなかった。黙っていると隣で突然、すすり泣きが聞こえた。サユリさんが下を向いて肩を震わせていた。
「おととい、ヨーコさん、亡くなったって」
はあ?おれは狐につままれた気分だった。ヨーコが亡くなった?
「あんたには絶対、言うなって言われてたからさあ」
死んでから、知らせろって?
おれは確かめるようにマスターを無言で見つめた。
マスターは相変わらずぶすっとして黙っている。
ひょっとして、サプライズか。カウンターの中から、ヨーコがじゃーん、って現れるんじゃないかとおれはちょっと身構えた。
だが、カウンターの中からヨーコは出てこない。今ならどんな奇抜な格好をしてきても、あきれたりはしないのに。どこにいたんだ、心配したよ、って素直に言ってやるのに。
「心臓、悪かったんだよ。さんざん医者に見てもらえって言ったのに病院なんて行きやしないで、とうとう動けなくなっちゃって、入院先の病院であっけなく逝っちゃってさ」
サユリさんの涙声がやけに遠くに聞こえた。
その夜は早々と看板を下ろしてしまい、マスターとサユリさんとおれの三人で朝まで飲むことになった。
確かに振られ続けたかもしれないが、ヨーコはおれのことも振ったんだ。アルコールの勢いで少し舌が軽くなったマスターが愚痴っぽく言い出した。
最初の恋人は、本当に死んじゃったらしいよ。サユリさんがそう言った。
あの人は本当に、打算ってことを知らなかったから。欲がないっていうかね。そんなサユリさんの言葉はどれも、おれの中のヨーコのイメージの上を素通りしていった。
ヨーコが純粋だとか、損な性格だとか、そういうことじゃないんだ、いわゆる世間の尺度じゃヨーコは測れないんだ、おれはそう思っていた。
ヨーコは魔女だから。どうせ一言で片づけるならそれぐらい大胆に言うべきなんだ、あんなめちゃくちゃでど派手でミステリアスな女には、それがぴったりだ。
「・・・あの人、本当にいたのかな」
夜明け前にかなりできあがっていたおれがそう言うと、マスターはテーブルに突っ伏したまま、いねーよあんなやつ、と言った。あんな女、他にいやしねえ。
翌朝、おれはヨーコの部屋を訪れた。なんで赤の他人のおれが、と思ったが、ヨーコが言ったんだから絶対だ。あちこちの骨董屋を呼びつけてアイミツ取って、なるべく高く売りつけてやって、そしたらあのバーを一日フリーにしてふらっとやってきた外人の船乗りとかにおごりまくってやるんだ。
それまで開けたことのなかった引き出しやトランクの中身は、たいていが古ぼけたガラクタだった。すり切れたリボンのついた高級そうなせっけんはワックス紙に包まれたまま、くたくたの小さな熊のぬいぐるみは琥珀色のガラスの目であどけなくおれを見上げていた。ブリキの飛行機だの、銀製の曇った手鏡だの、黄ばんだレースのハンカチだの、きっとたくさんのヨーコの恋人達が自分の思い出にとヨーコに贈った他愛もない品々なのだろう。でも一つ一つ、どこかしら存在感があったのは、きっとヨーコが大切に愛おしんだ物ばかりだったからに違いない。
ど派手な服や若い女の子だって滅多に身につけないだろうたくさんの毒々しい色の大胆な下着の下に、一枚のセピア色に変色した写真があった。そこには、海兵隊のユニフォーム姿の口ひげをはやした若い男と、彼に寄り添いながらはにかんで微笑む女の子が映っていた。
大きく胸元の空いたワンピースの色はわからないが、ギンガムチェックでいかにも50~60年代のアメリカっぽい感じだった。鎖骨の間には、本物か偽物か解らないジュエリーのペンダントがかがやいている。
この記念写真を持って遠くに旅立つ恋人の心を絶対に逃さない、という決意を込めた、精一杯のめちゃくちゃ可愛い笑顔が、まるでハリウッド女優みたいにかがやいていた。この写真を見るたび、きっと私を思い出して。彼女の目が、そう訴えている。
最初の恋人は本当に死んじゃったらしいよ。サユリさんの言葉が浮かんだ。海の向こうで戦争があってね。
その写真はおれの中の何かを一瞬でうち砕いた。
おれは、今まで何を見ていたんだろう。
おれがつき合っていたのは、この女の子だった。
身体が老いたら心も相応に老いるものだと、一体誰が決めたんだろう。
おれの目の前にはいつだって彼女がいたのに。
冒険好きで、怖い物知らずで、情熱的で、いつも面白いものを探していて、それをちゃんと見つけるのが上手なヨーコという女の子。
おれの心をわしづかみにして、さんざん振り回したあげく、港の倉庫に置き捨てた気まぐれで残酷な魔女もどき。
写真を見ながらおれはちょっと涙ぐんではいたけれど、決してヨーコの死を悲しんでいたわけではなかった。
ヨーコみたいな女に出会ったことが、そんな奇蹟みたいな幸運がおれの身の上に降りかかったことがどんなにすごいか、ただただ、思い知らされていた。
ヨーコの残した全てを古道具屋に売り払ったら、とりあえず一晩飲み助の船員達におごってやれるぐらいにはなった。驚いたことに、おれとヨーコがいつも使っていたあの二つのマグカップに結構な高値が付いた。何でも、ファイアーキングとかいう1950年代のビンテージで、コレクターなら目から星が飛び出るように喜ぶ物だったらしい。
マスターと相談して、「Tonight All Free!(今夜はフリー)」の英語の手書きの看板を出した。おっかなびっくり入ってきて、いったい何のお祭りだい、と尋ねる船員や港の作業員たちに、友達が結婚して遠くに行ったお祝いだ、とマスターが言っていた。
あの写真はマスターに譲って、おれがヨーコの思い出に貰ったのは、あのベネチアの仮面ひとつだった。それはおれの部屋の壁にかかって、仕事から帰ってへろへろなおれや、休みの日に好きなだけごろごろしているおれをいつでも黙って見下ろしている。
今ではおれは、すっかりあのバーの常連になってしまった。マスターとサユリさんはいつも家族のように迎えてくれる。
ヨーコがいなくなるのを待っていたかのように、ヨーコが住んでいたアパートと倉庫は秋が来る前に取り壊されてしまった。
解体された跡地を見に、おれは一度だけ昼間に港を訪れた。
堤防の上を潮風を浴びながら歩いた。
秋の日差しが、ぽっかり更地になったその一角を平然と照らし出していた。それが潔いヨーコそのもののようにも思えて、何だか妙に納得した。
立ち入り禁止のロープをまたいで、おれは四角いコンクリートの更地に大の字になって寝そべった。
降り注ぐ陽光をまぶたに感じながら、おれは目を閉じてゆっくりと潮風を吸い込んだ。港のいろいろな音が聞こえてくる。ヨーコが毎日聞いていた音だ、と思いながら、おれは隣にヨーコが寝ているのを想像してみた。だけどヨーコはいつも違う奇抜なファッションだったから、どのヨーコもインパクトが在りすぎ、たくさんのヨーコが瞼の裏に次々と現れては消えていった。
結局おれはヨーコの遊び相手の一人だったんだなあ、と観念してそう思った。
遠くで汽笛が生き物のような咆哮をのんびりと上げるのを、おれはすっかりくつろいでしばらくのあいだうとうとしながら聞いていた。
ふと、ヨーコは漢字でどう書くんだろう、と疑問に思った。
太陽の陽か、太平洋の洋か。まさか妖艶の妖じゃないよな、と思いながら目をつぶっておれはついにやにやしてしまった。
聞きそびれてしまったことがたくさんあった。ヨーコの、おれの何倍かの人生にはきっと語り尽くせない物語がたくさん詰まっていたに違いない。
おれは、そんなヨーコにいつか会う日まで、負けず劣らずたくさんの物語をつむいで行けるだろうか。
そうしたい、とおれは思う。いつかヨーコにあの世で再会したとき、若くしてさっさと戦争で死んじまった彼氏の腕からヨーコをもぎ取れるぐらい、人生の深いしわを刻んだかっこいいじいさんになっていたい、と本気で思うんだ。
~The End~




