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Chapter3

 あの日以来、仮面のヨーコが気になって頭から離れなかった。ヨーコの素顔がどんなだったか、思い出せなくなってしまったからか、仮面をかぶった人と話をしたことなんてなかったからか、とにかくおれの中でヨーコの不可解な存在が日増しに大きくなってしまったのだ。

 おれは、もう一度あの古びたバーに行った。もしかしたらヨーコが来ているかもしれないし、いなかったらマスターや店員にヨーコのことを聞いてみようと思った。

 店の雰囲気はこの間とはだいぶ変わっていた。というのも、店内にはきつい香水の匂いをぷんぷんさせた、いろいろな国籍や人種らしき男達が10人ぐらいでわいのわいのと騒いでいた。とりあえず英語でしゃべっているようだが、時々巻き舌のスペイン語だかポルトガル語らしき単語も聞こえてくる。

店を出ることも考えたが、何だかそれもかっこわるい気がして、そのまま何食わぬ顔でカウンターに座った。一通りちらっと辺りを見回す。店内は多国籍の男達でほぼ貸し切り状態だった。それ以外には何やらあやしげな着物を着た女が一人。隅のテーブルで、手酌で日本酒を飲んでいる。この店に日本酒があるとは知らなかった。おれはさっそくマスターに日本酒を注文した。この間のバーボンはもうごめんだった。ついでに、日本酒に合いそうなつまみは何かあるか聞いてみた。

「枝豆、揚げ出し豆腐、モロキュウ」

マスターはおれにぼそっと告げた。それで、おれはその三つを頼んだ。大豆が嫌いでなくて良かった。

「あの、この間はすみませんでした」

覚えているかどうかわからなかったが、おそらく店にも多少なりとも迷惑をかけたのだろうと思い、おれはマスターと店員の女性に小声で詫びた。

「ヨーコがいてよかったな」

マスターがぶっきらぼうにそう言った。やはり、彼女はこの店の常連なのか。

「あの人って、よく来るんですか?」

おれが尋ねると、マスターはちらっとおれを見た。

「まあ、週に三、四日ってところかしらね」

店員の中年女性が代わりに答えた。

「あの人、家族とか、いないんですか?仕事とか、してるんですか?」

おれは思い切って彼女にヨーコのことを次々と尋ねた。

「なんか、すごいところに住んでましたけど。あの、ご存じかどうか知りませんが、あの日は彼女の家にお世話になってしまって。そう言う風に知らない人泊めたりとか、けっこうしちゃう人なんですか?」

おれの矢継ぎ早な質問に、店員の女性は困った顔で手にした台ふきを握りしめて言った。

「そういうことは、本人に直接聞いたら?」

 そして、彼女はゆっくり店の隅のテーブルを指さした。そこには、さっきの着物姿の女が、おれに向かって親しげに軽く手を振っていた。

 おれは目をしばたたいた。

暗い店内でもはっきりわかる、黒地に鮮やかな濃いピンクの牡丹の花を散らした着物を着て、頭のてっぺんに団子状に丸めた髪の真ん中にきらきら揺れる短冊のついた金色のかんざしを刺しているのは、ヨーコだった。

 千変万化、という四字熟語がおれの頭に浮かんだ。きっと次は動物の着ぐるみか、男装か何かで現れるに違いない。

「また来るとは思わなかった」

ヨーコはにっこり笑うと、徳利とおちょこを持って、いそいそとおれの隣にやってきた。

「ああ・・・」

おれは口ごもって咳払いをした。どの辺まで聞こえていたのだろう。多国籍団体の声にかき消されて何も聞こえていなかったことをひそかに願った。だが、ヨーコはにこにこしながら、語り出した。

「この間も言ったけど、家族はとっくにいないの。十七の時に親元を離れてからずっと、実家には帰ってないし。港の近くの荷下ろしの事務所で働いてて、あの倉庫に寝泊まりしていた船乗りさんのお世話係も何となく引き受けてたから、つぶれた人を介抱するのはまあ半分仕事みたいな感覚だったわね」

「そ、そうなんだ」

 おれは冷や汗が脇を伝うのを感じた。

 その時、後ろの男達の一人がいきなり立ち上がり、ブラボー、と叫んで俺たちに向かってグラスを掲げた。すると回りの男達全部がわあっと叫んで、一斉にグラスを掲げた。まるでおれたちを祝福する機会を待ちかまえていたかのように。

「せんきゅー、せんきゅー!ぷろーじっと!」

 ヨーコは立ち上がり、あっけにとられるおれを後目に、しわの寄った貧弱な二の腕もあらわにおちょこを手に高く掲げて答えた。


 そして、この間とは逆に、おれはへべれけになったヨーコを抱きかかえて潮風の香る夜ふけの堤防脇の道をヨーコのアパートまで送っていく羽目になった。

「かぎは?」

 ドアの前で尋ねると、ヨーコは目をつぶったまま首を振った。

「かぎなんてないわよ」

「不用心だなあ」

「ないんだから、しょうがない」

 そう言ってヨーコが指さしたドアノブを見ておれは納得した。そこに、鍵穴なんてものはなかった。本当にここはアパートなんだろうか。ただの倉庫の一室なんじゃないだろうか。

 おれはドアを開けて、ヨーコを中に入れるとドアを閉め、靴を脱ごうとしたが、ヨーコはすたすたと草履のままベッドに歩み寄り、倒れ込んでしまった。

「水飲む?」

 流しでコップを探したが見あたらないので、マグカップに水を半分ぐらいくんだ。カップも薄汚れて、茶渋だらけだった。

「ん~、コーヒーが飲みたいよお」

 おれの差し出したカップを押しやって、ヨーコはコーヒーを要求してきた。

 仕方なく、おれはレンジで湯を沸かし、ヨーコにコーヒーを入れてやった。コーヒー豆やフィルターはすぐわかった。他に食器も食材も見あたらないキッチンに、それだけは無造作に置いてあったからだ。きっと、いつもコーヒーを飲んでいるのだろう。そういえば、おれが前に来たときもコーヒーを入れてくれたっけ。

 旧式のストーブは点け方が解らなかったので、暖を取るためにおれはガスレンジの火を小さくしてやかんに湯を沸かし続けた。

「ああ、おいしい」

 おれの入れたコーヒーを音を立ててすすりながら、ヨーコは満足そうにそう言った。おれも一緒にマグカップを手にしていた。

 この間見た古ぼけた家具やカーテンや、いろいろなものをぼんやり眺めていたおれは、何故かほっとするような居心地のよさを感じていた。

アンティークともビンテージともただの古物ともつかないものが、それぞれ居場所を確保してくつろいでいるようなその部屋には、何者も拒まない大らかないい空気が流れていた。

「ごめんね。私、日本酒弱くてさあ。泊まっていきなさいねえ」

 ヨーコはコーヒーを飲み終わるとそう言って、ベッドの奥に身体を寄せ、空いたスペースをぽんぽん、と手で叩いた。誘っているつもりなのだろうか。

「いや、帰るよ、帰ります」

「電車もバスももうないわよ」

「タクシー拾いますから」

「この辺はタクシーも早く上がっちゃうからね。駅まで行ったって、もう流してないよ」

「歩いても1時間ちょっとですから」

「外、見てごらん」

 ヨーコが何かを予言するように窓を指さす。おれはカーテンを開けてみて唖然とした。

 一面の銀世界、と言えばロマンチックだが、ぼてっとした雪が絶え間なく空から降り注ぎ、いつの間にかすっぽり外を被っているのが見えた。

「なんで?いつの間に・・・」

「残念だねえ」

 そう言ってくくっと笑うヨーコにおれはぞっとした。

ひょっとしてこいつは魔女なのかもしれない、などというばかげた考えが夜の闇に怪しげに浮かぶ白い雪景色を見ながらおれの頭に浮かんだ。

結局、一晩中ガスをつけておくのもまずいし、雪の降り続く二月末の夜の寒さに耐えかねて、気がつくとおれはヨーコのベッドのはじっこに潜り込んでしまっていた。

だが、おれはほとんど一睡もしなかったし、ヨーコもぐうぐう正体なく眠っていたから、いわゆる男と女の時間を過ごすことは全くなかったと、今度こそは断言できた。

 カーテンの隙間から差し込む朝の眩しい光が、おれの閉じた瞼を刺激し、おれは目を覚ました。

おれはベッドの真ん中に手足を伸ばして横になっており、ヨーコの姿はなかった。

カーテンの向こうの窓はすっかり曇っていた。指でこすって目を凝らすと、雪は止んで晴れていたが、窓から見える堤防の回りは一面真っ白だった。わずかに見える海は、寒そうな青緑色にうねっていた。

「パン買ってきたわよう」

ドアがばたんと開いて、ヨーコが入ってきた。その姿におれはため息をついた。

ヨーコは、蛍光ペンのような鮮やかな黄色のスキーウエアに身を包んでいた。襟の内側はサイケデリックな花模様だ。髪は一昔前の女学生みたいに二つに分けて三つ編みにして、レンズの形がハートのサングラスまでかけている。口紅はこれでもかというぐらい悪趣味な鮮やかなピンク色だった。

「ヨーコさんの服の趣味って、何て言うか、すごいですね」

「そうお?」

 サングラスをテーブルに置いて、ヨーコはにっこり笑った。産毛の生えそろった鼻の下のどぎつく塗られた唇の奥に、黄ばんだプラスチックの差し歯(もしくは入れ歯か)が覗いている。朝の光は、ヨーコには酷だ。

「小さなパン工場があってさ、朝イチで行くと出来たてを売ってくれるのよ、ほら」

 紙袋をがさがささせてヨーコが取り出したのは、湯気の立つバケットとクロワッサンだった。おれの腹が素直にぐう、と鳴った。

「おなかいっぱい食べなさいねえ」

 そんな風に言うときのヨーコは何だか母親みたいだった。おれは少しヨーコとの関係に安心感を持った。そうだ、ヨーコには悪気も下心もないんだ。ただの親切なおばさん。おばあさん、と思うのは、世話になった手前悪いからやめておこう。

 朝のコーヒーはヨーコが入れてくれた。

「どうしてあの、結婚とかしなかったんですか」

 テーブルで二人で向かい合ってコーヒーを飲みながら、気がつくとおれはそんなことをヨーコに尋ねていた。

「そりゃ、振られっぱなしだったからよ」

 肩をすくめてヨーコは、あっけらかんとそう言った。

「そ、そんなこと・・・」

 曖昧な笑いを浮かべて弱い反論をしかけたおれにぐっと顔を寄せて、ヨーコはきっぱりと言った。

「あるのよ。世の中にはね、一生振られ続ける可哀相な人間が、結構いるものなの。だけど、そんなことにめげてちゃもったいないでしょう。一度きりの人生なんだから」

 自分のことを言っているのだろうが、おれは何だかおれ自身に対してヨーコが不吉な予言をしているような気がしてならなかった。

「恋愛や結婚が人生の目的でも全てでもないの。そういう当たり前のことに気がつかない人が、案外たくさんいるのよね」

 さすが年の功と言うべきか、達観している。

「これ、ベリーグッドよ」

 そう言ってヨーコはテーブルの上のチューブから白いハンドクリームをちょっとしぼって両手をこすり合わせた。

「あ、そ、そうですか、それはどうも」

 ベリーグッド、って英語の意味そのままらしい。ヨーコはつまり、片言の英語で港にやってくる色んな船乗り達を相手にする個人営業も副業にしていたのもしれない。そう思うと何となく合点がいった。数年に一度、あるいは一生涯に一度立ち寄るだけの港の倉庫番の女と一夜を過ごす。世界を渡り歩く海の男ならそんなことよくあることなのだろう。

「・・・こういうの、アンティークなんですか」

 おれはベッドの脇にもう一つ家具とは呼べないような代物を見つけて、尋ねた。それは、戦前の映画にでも出てきそうな重厚な革の大きなトランクだった。ベルトの辺りはすっかりさびついている。

「まさか。みんな誰かが倉庫にわざと置いていったものよ。粗大ゴミ」

「いや、でも、どれもみんな年代物で、高く売れそうですよ」

「あらそう?じゃ、私が死んだらみんなあなたにあげるわ。私の遺産。遠慮は要らないからね」

 そう言って笑うヨーコに、思わずあからさまな質問が口をついて出た。

「年金とか、ちゃんともらってるんですよね?家賃とか、衣食住とか、大丈夫なんですよね?」

 おれのあまりに直接的な問いに閉口したのか、ヨーコはあからさまに顔をしかめた。

「あなたって小物ね。お金なんてなくたって案外何とかなるものよ。あ、もしかして」

 ヨーコはテーブルにごろんと頭を乗せて、下からおれの目をまっすぐのぞき込んだ。

「気にしてくれてるの?責任とか何とか?ばかねえ」

 いやそこまでは、と言おうとするより先に、ヨーコの方がたたみかけてきた。

「私だってあなたに責任感じてないから大丈夫よ。お互い自分の面倒は自分で見ましょう」

 そんな大人なことを言いながら、ヨーコはパンくずを床にぱっぱっと払って捨てた。掃除とか、洗い物とか、ちゃんとしてます?と再び言いそうになっておれは危うく言葉を飲み込んだ。


 結局その日は昼過ぎまでヨーコの部屋でぐだぐだしていた。自分でも不思議なことに、今ではここにヨーコと二人でいることが少しも苦痛ではなく、むしろ帰るのが面倒なぐらいくつろいでいた。

 ここにいると、何かにこだわったり焦ったりすることが全く意味のない、ばかげたことに思えてきて、それが何とも心地良かった。

 それは、ヨーコ自身と、ヨーコの住むこの部屋にかけられた何かの魔法のせいのように思えた。ここを出てしまったら、また気の滅入る現実に対峙しなければならない。うすうすそれがわかっているおれは、無意識にもう少し、もう少し、とここにいる時間を引き延ばしていたのだった。


 それから、おれは時々あのバーに行き、ヨーコの部屋に泊まっていくようになった。

ヨーコはおれに女として迫ってくることも、おれのことをいろいろ詮索することもなかった。

いつもおれの質問にばかり答えていて、その答えがどれも新鮮で面白いのだった。

ヨーコは少しもみじめでも可哀相でもなく、年寄り臭いお説教を上から目線でしてくることもなかった。

だからおれはヨーコといて、少しも面倒でもうるさくもなかった。

こんな風に誰かと、束縛も力関係も腹のさぐり合いも何も感じずに話すことなんてあっただろうか。もしあったとしたら、子供時代の他愛ない友達同士の会話ぐらいだったかもしれない。



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