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Chapter2

 結局おれは、夕方までそのまま大人しくヨーコの布団の中にいた。その間、ヨーコが何をしていたのかおれは知らない。布団をかぶったおれの耳に時々鼻歌が聞こえてきたり、ドアが開いたり閉まったり、いろんな気配がしていたが、おれはひたすらうとうとするか寝たふりをしていた。何度かうとうとするたびにまとまって時間が経っていたから、一日はけっこう早かった。

「はい、乾いたわよ」

 オレンジ色の夕日がキッチンの小さな窓から差し込んできたころ、ヨーコは日なたの匂いがする乾いたおれのフリースのセーターとチノパン、ダウンジャケットをベランダから取り込んでくれた。

「ダウンはさすがに丸洗いできなかったから、汚れたところだけつまみ洗いしておいたからね」

 まるで母親のような言葉をかけてくるヨーコに、おれはひたすら恐縮してはい、すみません、ありがとうございますとていねいに礼を述べるしかなかった。

「駅は、港を海沿いに東にまっすぐ。出ればすぐ解るわ」

 ヨーコはそう言って玄関でおれを見送った。そこは港に面した倉庫の二階にあるアパートのようだった。廊下も階段も打ちっ放しのコンクリートで、凍てつくように寒かった。ヨーコの住んでいる部屋の他にドアが二つほどあったが、人が住んでいるかどうかはわからなかった。

 背後でドアがぱたんと音を立てて閉まるとおれはようやくほっとして足早に階段を下りた。海に面した堤防の道に出た時、おれはそっと振り返ってみた。ベランダからヨーコがこちらに手を振っているのが見えた。おれはきびすを返して逃げるように夕日に背を向けてはるか遠くにあるように見える、なけなしのおれの現実に向かって歩き出した。


 港から駅三つ、海風から遠のいたところにおれの住むアパートがある。その日は深夜にシフトが入っていた。とりあえず腹に何か入れて、身支度を整えていたとき、おれはスマートフォンがないことに気がついた。

 昨日葉子と会ったときは持っていたはずだ。店を出るときはどうだったろう。スマートフォンはここ最近、いつもダウンジャケットの胸ポケットに入れてあった。

「ダウンは丸洗いできなかったから・・・」

 ヨーコの言葉がよみがえった。まさか。

 おれは頭を抱えた。あそこに、もう一度足を運ばなければならないのか。まさか、ヨーコの意図的な犯行か。それも考えられないことはなかった。

 だが、そのままにしておくことはとうてい出来なかった。葉子からもう連絡が入ることはないとわかっていたが、あらゆる個人情報が詰まっているものを見知らぬ人の手元に置いておくことはありえなかった。

 翌日の午後、おれはとりあえずあのバーに行ってみた。準備中の札のかかったドアは鍵がかかっていた。おれは観念して、堤防沿いのあの倉庫上のアパートを訪ねた。

 おとといは気がつかなかったが、そこは広い港の中でもずいぶん裏寂れた一角だった。こんなところに人が住んでいていいのかと首を傾げたくなるほど、あらゆるゴミが、いわゆる生ゴミとかじゃない、粗大ゴミすら小さく見えるほど、船の一部やクレーンの残骸や、さびついたコンテナなどの様々な巨大な廃材が無造作に積み上げた中にヨーコの住むアパートはあった。堤防にうち寄せる波の音が絶えず物憂げに響き、磯臭さと重油のにおいがせめぎ合い、何とも言えない匂いに満ちている。

 いったい彼女はどうしてこんなところに一人で住んでいるのだろう。身よりはないのだろうか。年金とか、ちゃんともらって生活しているんだろうか。そんなことを思いながら、ヨーコの部屋のドアの前に立ち、少しだけためらったが思い切ってチャイムのないドアを拳で数回叩いた。

 がちゃ、とドアが開いて、おれは思わず息を呑んだ。

 象牙色の冷たいなめらかな肌にくっきりと黒く大きな隈取りをした目、あちこちにきらきらと金銀赤青緑のスワロフスキーか何かがちりばめられた仮面がそこに立っていた。

「あ、あの・・・」

 ちょっと首を傾げておれを見上げる仮面は魔女のようなとんがり帽子をかぶり、濃い紫のレースがびらびらついた長いワンピースを着て、少し体をずらしてどうぞ、とおれを室内へいざなった。

「あ、えーと、あの・・・」

「コーヒーでいい?」

 くぐもった声はヨーコの声に間違いなかった。

「いや、あの・・・」

「座って」

 ヨーコの声をしたとんがり帽子に紫のドレスの仮面が、有無を言わせずおれを見覚えのあるキッチンの脇の椅子に座らせた。

 おれは黙って言われたとおり大人しく椅子に腰を下ろした。そして、仮面のヨーコが黙ってコーヒーを入れている間、おそるおそる部屋の中を見回した。

 

 洋服ダンスと引き出しのたくさんついたチェストは年代物らしく柔らかな室内の光を浴びて飴色を放っていた。何やらレトロな曲線で構成された象眼細工が施されており、いわゆるアンティーク家具のようだ。

 キッチンの横の小さな食器棚は、食器棚と言うより、どこかのショップのショーケースのようだった。だがそのくすんだガラスや木枠のぼろさ加減も今どきの古物マニアが見たら垂涎ものかもしれない。真鍮のベッドにしろ、タイル貼りのテーブルとペンキのはげた二脚の青いパイプ椅子にしろ、どれも骨董市から仕入れた物のように時代がかっていた。

 西と東にある窓にはもとは真っ白だったのだろうか、黄ばんだカーテンが掛かっていて、それにもよく見ると手の込んだ刺繍が一面に施されていた。

 ベッドカバーはいくつもの布がつぎはぎになって幾何学模様を描いているもので、いつだったか葉子がまねごとをしていたキルトだかパッチワークだか言うものに違いない。それもすっかり色あせ、ところどころすり切れていて、すっかりくたびれていた。

 おとといは動転していてゆっくり見る余裕がなかったけれど、その部屋にあるものは全てが古びてくたびれていた。それが彼女の経済的困窮を意味しているのか、単に好みというか、あまり気にしない性格の現れなのかは定かではない。

「どうぞ」

 くぐもった声に振り返ると、相変わらず仮面を付けたままのヨーコがマグカップを差し出していた。

「あ、どうも」

 ぎこちなく頭を下げておれはカップを受取り、おそるおそるコーヒーをすすった。いったい何のつもりだろう、この仮面は。

「ヨーコさんは、コーヒー飲まないんですか」

 テーブルに頬杖をついているヨーコにおれは尋ねた。コーヒーを飲むときはさすがに仮面をはずすだろうと思って。

「私はいいの、さっき飲んだばかりだから」

 その手には乗らないというつもりか、ヨーコは首を横に振った。それでおれは仕方なく質問を替えた。

「どうしてそんなもの、つけてるんですか?」

「今日はこういう気分なの」

 にべもない。もしかして、いやたぶん、おとといのおれの露骨な態度に対する反撃のつもりなのだろう。だが、今更何をどう取り繕えばいいと言うのだ。おれの反応は多少失礼だったかもしれないが、不可抗力だ。おれは開き直ることにした。

「おとといはどうも、お世話になりました。おれのスマートフォン、こちらにありませんか?」

 言い終わらない内に、ヨーコの手がテーブルの上をすっと滑り、まるで手品のように手のひらを上げるとそこにおれのスマホがあった。

「あ、どうも」

 おれはまたぎこちなく頭を下げた。

 仮面のヨーコは再び頬杖をついて、黙っておれを見ている。

「ヨーコさんは、ここで一人で住んでいるんですか」

 見れば解るがとりあえず聞いてみた。

「そうね、今は一人」

「ご主人とか、お子さんとか、いらっしゃったんですか」

 今は、というからにはそう言うことだろうと思って聞いてみたが、ヨーコは首を横に振る。

「そういうのは、いらっしゃったことがないのよ」

「あ、ああ・・・」

 じゃ、独身で、ルームメイトか彼氏でもいたことがあったのかな。どうでもいいことなので、おれはそれ以上聞くのをやめて、話題を変えた。

「その仮面、どこで手に入れたんですか?」

「ベネチア」

 ヨーコは素っ気なく答える。

「イタリアの?行ったこと、あるんですか」

「ないわ。これは恋人に貰ったの」

「あ、そうなんですね。じゃあ、彼氏とかいるんだ」

 ちょっとほっとしておれは思わずにっこり笑った。

「もう、何十年も前に死んでしまったわ」

 げ。おれは目を白黒させていたに違いない。気まずい沈黙が流れる。おれはちらっとベッドの向こうの窓に目をやった。そこに、ヨーコの部屋で最初に見た小さな瓶が並んでいる。どれもがよく見るとけっこう小洒落ていて、結構こだわりのコレクションなのかもしれない。

「あれは、香水?」

「瓶はね。中身は私の流した涙よ」

 おれはどう答えて良いか解らず、あわてた。笑ってもいいのか、神妙に頷くべきか。

「な、何だか、テラヤマシュージの詩みたいですね」

 とっさに思いついたままを言うと、ヨーコは少し驚いたようだった。

「まあ、若いのに寺山修司をご存じなのね」

「あ、ちょっとだけ」

 やっと話の糸口を見つけたと思い、おれはほっとした。だが、ヨーコの話題はあっけなく寺山修司を素通りした。

「どれも恋人に貰ったのよ。みんな違う彼だけど」

「はあ・・・」

 恋多き女だったというわけか。

「みんな、死んじゃったけどね」

 そう言って、ヨーコは仮面の奥でくくっと笑った。おれはちょっとぞっとしてしまった。

「そ、そんなにたくさん、彼氏がいて、みんな死んじゃったんですか?」

「そうよ」

 ヨーコは大きく頷く。

「ふ、船乗りだったとか。海で死んじゃったとか、ですかね・・・」

 話を合わせるにはあまりにも無理がある。おれは我ながら陳腐だと思うことを口走った。

「さあ、どうかしらね」

 ヨーコの表情は、象牙色の肌のきらびやかな道化の仮面に隠れて見えない。

 おれの頭の中に短いホラーストーリーが浮かんで消えた。関係を持った男を次々殺めて、目の前の海に沈めて何食わぬ顔をする女・・・・。

「実は、知らないのよ。戻ってこないから、死んだことにしているの」

 仮面がささやく。

「ほ、本当ですか・・・?」

 コーヒーに、何も入っていないだろうな。おれはおどおどと飲みかけのマグカップをテーブルの隅に置いた。

「律儀に戻ってきたのは、あなたぐらいなものかしら。まあ、あなたの場合、大事な忘れ物があったわけだから。恋人達はみんなぬかりなくて、忘れ物なんて一つもしないで出ていったのよ」

 だろうな。一夜限りの女のところに忘れ物なんてしていく間抜けなやつはそうそういないだろう。おれは黙って見つめるヨーコの視線を意識しながらそっとスマホを胸ポケットにしまった。

「あ、そうだ」

 不意に思い出して、おれはポケットから小さな包みを取り出した。

「これ、おとといのお礼です」

 と言って、取り戻したスマホの代わりにテーブルの上にその包みを置いた。あの日、葉子にプレゼントするはずだったハンドクリームだった。我ながら気の利いたお礼が出来たとこっそり悦に入っていると、ヨーコはちょっと低い声で言った。

「・・・他のひとにあげるつもりだったくせに」

「う」

 おれはぐうの音も出なかった。

 ヨーコは慌てるおれを見て、くふふふ、と笑った。

 そしておもむろに包みを取り上げ、中をあらためると再びおれを見つめて言った。

「冗談よ。助かるわ。今の季節、洗い物をするとすぐひびわれが出来るから。どうもありがとう」

「あ、いや、あの、どうも。おれ、そろそろ帰ります。コーヒーごちそうさまでした」

 これ以上長居は禁物だ。おれはやっとつかんだタイミングを逃すつもりはなかった。

「またいらっしゃいよ、いつでも」

 いや、もう来ないだろ、どう考えても。おれはあいまいに笑ったが、頷くことだけは絶対しなかった。


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