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Chapter 1

憧れの港を舞台にした小説にチャレンジしました。

 その晩、おれは一人で初めての店にふらっと入ってカウンターで黙って飲んでいた。

店の中は薄暗く、裸電球にアルミの洗面器みたいな傘のついた、年季の入った照明がカウンターの向こうのマスターの手元を照らしているだけだった。

 メニューを見ると、何やら凝ったロゴの横文字ばかりが並んでいて、どう見てもマスターも一人だけいる店員も日本人なのにどうしてだろう、と不思議に思った。六十代半ばぐらいに見えるごま塩頭のマスターは赤銅色の肌にごつい体型をしていて、もしかしたら引退して陸に上がった海の男なのかもしれなかった。店員はあまり若いとは言えないが、マスターの妻にしては少し若めの女性で、薄暗い中でも厚化粧が、特に目元の青いアイシャドウが目立っていた。

 一人で来たこともあり、これ何て読むんですか、とは格好悪くて聞けなかったおれは、値段だけ見て適当なものを指さしてこれ、と頼んだ。

 しばらくしてマスターが黙っておれの前に置いたのは、角氷の入ったぼてっとした厚手のグラスに入った琥珀色の液体だった。料理も頼みたいところだったが、割と好き嫌いの多いおれは適当に選んで苦手な者が出ても困るので、とりあえずやめておいた。グラスの中の液体を一口すすると、強烈なアルコールが舌を焼いた。飲んだことのない種類の酒だった。

 店の客は、おれの他に落ち着いた感じのカップルが一組と三人連れのサラリーマン風の男達、そしてカウンターの端っこに髪の長い女が一人だった。

 店内には英語のラジオが流れていた。商港だからだろうか、それにしても店の客も皆日本人のようだが。おそらく外国人の客もけっこう来るのだろうと思いながら、おれはちびちびと香りのきつい酒を味わっていた。

 遠くでかすかに汽笛が聞こえる。昼間からずっと降っている小雨の音は聞こえない。でも天気予報では明日の朝まで雨は上がらないと言っていたから、きっとまだ降っているのだろう。

 あいつほんとにバカなんだよ、と背中の方で男の声がした。肩越しにちらっと振り返ると、サラリーマン風の三人連れの一人が他の二人に熱心に話しかけていた。

 おれだったら、絶対受けるな。仕事なんてだいたいみんな同じなんだよ、違うのは給料だけ。だったら、いい方を選んで間違いはないだろう。そんなことを五十代半ばぐらいの男が声高に言っていた。

 そうですねえ、息子さんもったいないことをしましたねえ。もう一人の、同年代ぐらいのやせぎすの男が言う。きっと世間というものをまだ知らないんですねえ。気づいたときには遅いんだよ。最初の男が不機嫌そうに言い募った。

 でもいいじゃないですか。三人の中でいちばん若い男が口を挟んだ。好きな仕事が出来てるってだけでも幸せですよ。会社なんていつどうなるかわかったもんじゃないし。

 そんなこと言っておまえ、好きな仕事だろうが何だろうが、駄目になる確率は一緒だろ。

 どうやら、話し出した男の息子が条件の良い会社を断って何だか知らないが好きな仕事を選んだらしい。まあどうでもいいや。おれには関係ないし。そう思って聞き流そうとしたのに、父親らしいその男が言った次の言葉に、おれは背中から串刺しにされたような痛みを感じた。

女だってな、目の前にふたり男がいて、見てくれや性格はまあ大差ないとする、年収が倍違ったらどっちを選ぶよ。

おれは慌ててグラスを勢いよくあおった。耳元で氷が小さくカランと音を立て、おれは頭がくらくらして困った。アルコールのせいだけじゃない。

「おかわりください」

 おれはむせこみそうになるのをこらえて、空になったグラスをカウンターの向こうのマスターに差し出した。マスターは黙って頷き、すぐに同じ琥珀色の液体が新しい氷と一緒にグラスに注がれて目の前に置かれた。

 あいつがおれから親の見合い相手にあっさり乗り換えたのは、親に逆らえなかったなんていう、時代劇みたいな理由じゃないのはうすうすわかっていた。

 だけどそれを、今背後にいる見知らぬ誰かが言い当てることはないだろう。そんなのはあんまりだ。あいつと別れて自棄飲みしに偶然入ったこの店で。

 目を閉じたおれの頭に、麦わら帽子のあいつが浮かんだ。学生時代からのつきあいのあいつに惚れた瞬間の光景だった。男ばかりでくりだした夏の海で、ナンパした女の子ばかりのグループの一人があいつだった。麦わら帽子なんて新鮮で、それがやけに似合っていて、その下の笑顔が絶妙で、おれは一目惚れだった。それから何度か、グループで会って、ようやくあいつ個人の連絡先を聞き出して早六年。六年だぞ。男だって結婚を夢見る年頃だぞ。ひろとくん、ごめん。その一言でおれの六年をポイ捨てしたあいつは、見合いで知り合ったばかりのろくに性格も好みも癖も知らない男と生涯を共にする決心をした。

 何だか最近おかしいな、とは思っていたが、そんな衝撃の事実が待ちかまえているとは思いもしなかったおれは、久しぶりに会うあいつのために、あいつの好きなブランドのハンドクリームをこっそり買っていそいそと持っていった。あいつの誕生日はまだ一ヶ月先だったが、クリスマスも正月もすれ違いで会えなかったから、きっと手ががさがさになると気にしているに違いないと思って。三年前のあいつの誕生日に贈って以来、気に入ってずっとつけてると言っていたが、ひょっとしたらそれも嘘だったのかもしれない。今更確かめようがないが。思えばあれから毎年バカみたいに同じものを贈り続けていたおれは、あいつにとってもはやアホくさいお荷物だったのかもしれない。そう思うと情けなさに腹が立つ。

 いつの間にか、三杯目のおかわりに手をつけていた。料理は頼んでいないので、すきっ腹に強いアルコールはひたすらきつかった。

 三人連れは知らない間に帰ったらしい。カップルもだ。店の中には、マスターと店員、それに隅っこにいた女とおれの四人きりだった。

「ずいぶん飲むのね」

 不意にカウンターの奥から、女がささやいた。

 長い髪が顔の半分を被っていた。細い切れ長の目が怪しげにきらっと光る。赤い小花模様のスカートに、だぶっとしたGジャンを着ている。空いている椅子に茶色い毛皮のコートが無造作に丸めて置いてあった。

「別に」

 おれはぶっきらぼうに答えた。今は女と話す気分じゃない。徹底的に自分の六年間を自分で踏みにじって、心の中でぱっくりあいた思い出の傷口に塩を塗り込んで、もがき苦しむんだ。そう決めた。そうしないと、いつまでも引きずってしまう。

 おれは大学時代目指していた音楽関係の会社の採用試験にことごとく落ちて、他の業種に乗り換える踏ん切りが着かないまま、卒業を迎えてしまった。表向きはいつかカフェかバーか、とにかく自分の店を持って自分の好みの音楽をガンガンにかけてやるんだ、なんてあいつや友人たちに言っていたけれど、きっとあいつも周囲もそんなこと本気でおれが思っているとは信じていなかっただろう。

 おれはただのコンビニの店員だった。学生時代からずっとバイトしていたところにとりあえず契約社員で入った程度の身分だ。

 あいつの見合い相手は、一部上場しているIT企業のエリート社員で、年はおれより二つ三つ上で、来年にはイタリアだかスイスだかに赴任するらしい。認めたくないが、コンビニ店員のユニフォームを着て昼夜問わずシフトに追い回されるおれより、エリート社員の妻の身分とヨーロッパでの生活の方がはるかにあいつにとって価値があることは間違いなかった。

 ひろとくんの夢が叶うこと、祈ってる。そう言って切なそうな笑顔を見せたあいつに、おれは心の中で嘘つけ、と叫んでいた。だが、何ともみっともないことに、おれも力無く笑ってありがとう、なんて答えてしまったんだ。あいつの偽善の茶番にうかうかとつき合わされて抵抗も出来なかったことが今になって情けない。

 ああ、やっぱり全てが自己嫌悪に舞い戻ってきてしまう。

「そろそろやめておいたら」

 離れた席から再び女が声をかけてくる。

「お店ももうすぐ終わりよ」

 ああそうか。閉店の時間か。さて、どうやって帰ろうか。終電なんてとうに出てしまっているだろう。どこかのネットカフェで夜明かしでもするか。

 立ち上がったおれは、そのまま足がもつれて店の堅い木の床に口づけをした。


 目を開けたとき、薄青い光のさす窓辺に並ぶ小さいいくつもの瓶が見えた。だが、機関銃を連射するような頭痛に再びおれの意識は遠のいた。

 再び目を開けると、まぶしい光が窓から差し込んでいた。

 おれはゆっくり体を起こして驚いた。おれは何故か服を着ておらず、とりあえず下着一枚だけ身につけていた。二月の初めの冷気に無防備なおれの上半身は悲鳴を上げた。おれはあわてて再び布団に潜り込んだ。

 布団?

 おれははっと我に返って飛び起きた。

 ここは、どこだ。

 見渡すと、安っぽい木目プリントの合板の壁に囲まれた、六畳ほどの部屋だった。窓辺のベッドにおれは寝ていた。ひょっとして、店の世話になったのか。おれはのろのろと起きあがり、強烈な尿意に襲われてトイレを探した。

「トイレはこっち」

 女の声がして、振り返ると昨日の女がベッドの向こうのドアを指さしていた。

「あ、どうも」

 おれは軽く頭を下げてあわててトイレに駆け込んだ。

 用を足しながら、おれは今見た女の顔を思い浮かべていた。それは、あまりありがたくない展開を予感させた。

 二日酔いの頭痛をこらえながら、おれは二三度深呼吸をしてトイレを出た。

 後ろ姿の女は、キッチンに立ってコーヒーを入れているようだった。香ばしい香りが部屋に広がる。さっきはさすような冷気に感じたが、キッチンの手前にある小さなテーブルの横には、円筒型の小さな石油ストーブがちろちろと燃え、その上に銀色のやかんがしゅんしゅんと景気よく湯気を立てていた。

「服は洗っといたからね。外に干したから、夕方には乾くでしょ」

 そう言って振り返った女の顔が、やはりさっきちらっと見たとおりで見間違いではないと知ったおれは、胃の辺りにずっしりと重いものを感じていた。

 切れ長の目の縁には、幾つもの筋がくっきりと刻まれ、重力に負けた頬が鼻から唇にかけて深い法令線を描いていた。白い肌のところどころにそばかすと呼ぶには大きく不揃いなしみがいくつも散らばっている。黒髪のてっぺんは、河童の皿のように生え際からぐるっと5、6センチほど伸びた白髪で縁取られていた。

「はい、コーヒー」

 老女はマグカップに注いだコーヒーをテーブルに置き、自分のカップを持ったまま椅子の一つに座った。

「あ、どうも」

 そう言いながらおれは、パンツ一丁でその老女の隣に腰掛けるのがどうしても気が引けて、ぼうぜんとトイレのドアの隣で立ちすくんでいた。

「そうね、その格好じゃこっち来づらいわよね」

 老女はそう言って笑い、椅子にかけた見覚えのある茶色い毛皮のコートを投げて寄越した。

「男物の服なんて、ここにはもうないから」

 笑うとますますカラスの足跡がくっきりと目尻に刻まれる。おれは他にどうしようもないまま、老女の放ったコートを受け取ると上半身にまとった。よく見るとそのコートはかなりぼろぼろで、ところどころ穴が空いていた。だが、毛皮は本物のようで、羽織るといっぺんに暖かくなった。おれはおずおずとテーブルに近づくと、椅子を引きざま老女との距離を気休め程度だったが出来るだけ取るようにして座った。

「昨夜はずいぶん飲んだわね」

 老女は目を閉じてコーヒーをすすっていた。

「バーボンをロックで、あんなに飲んじゃ駄目よ」

ああ、あれはバーボンという酒なのか。名前だけは聞いたことがある。おれはぼんやりそんなことを考えていたが、女の次の言葉にぎょっとなった。

「一晩中私の名前を呼んでたから、びっくりしちゃった」

「え、それはないですよ。絶対ないです。ぼく、あなたの名前知らないし」

 おれは焦って言い募った。胃の辺りの重いものがさらに重くなる。

「本当よ。ヨーコ、って」

「はあ?」

 おれは目を丸くした。葉子は別れたあいつの名前だ。なんと、目の前の老女はおれを振ったあいつと同じ名前だというのか。

「かわいかったわよ、あなた」

 そう言って老女の『ヨーコ』は目を細めてふふふ、と笑った。

 おれは目を閉じて夢中で熱いコーヒーを一口飲み下した。

 冷静にならなければ。今の状況を、冷静に考えなければ。おれは昨夜、べろんべろんになって正体をなくし、たまたま居合わせた客のこの老女に介抱されて彼女の家で一夜を過ごしたのだ。

 服を洗った、というのはおそらく・・・。

 考えたくない事実におれは無意識に頭を振った。その刺激で忘れていた頭痛がハンマーで殴られたようにおれを襲った。

「まあ、コーヒー飲んだらまたベッドでお休みなさいな。その様子じゃ、起きてるのもしんどいでしょうから」

 本当に、おれはそうするしかなかった。おれの身体はまだ歩くのもおぼつかなかったし、何しろ着る服もないのだから。

 おれは目の前のヨーコから逃れるようにベッドに戻ると横になり布団を頭の上までかぶった。出来るだけ具合が悪いふうを装って、とにかく彼女から少しでも心理的に逃れようと必死だった。

 葉子以外の女をほとんど知らないおれは女性の年齢はよくわからないが、少なくとも自分の母親よりははるかに年上なのだろうということは想像できた。すでにいない父方と母方二人の祖母が亡くなった歳よりはいくぶん若いだろうか。いずれにしろ、一晩をここで彼女と過ごしたということは、もしかしたらそういう事実があったのかもしれない。「かわいかった」などと言ってくるのは、そういう意味なのかもしれなかった。どんなに反芻してみても、そういった記憶は全く浮かんでこなかったが。



自分なりの理想の女性像を未だに模索し続けています。

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