―5―
浩二さんは行方不明になってから、ひと月ほどして隣の県の山中で死体で発見されたそうだ。他殺として捜査が始まったが、いまだに犯人は捕まっていない。敦司さんはすべての事情を警察に話して、浩一を調べてもらうように訴えたが、決定的な証拠を見つけることが出来ず、従っていまだにヤツは野放しの状態ということだった。
浩二さんが死んだことは、死体が発見されてから半年ほどしてから真琴さんに教えたそうだ。浩二さんの墓の前に立っても、真琴さんは全く無表情だったと敦司さんは寂しそうに言っていた――。
浩一が現れてから、一週間がたとうとしていた。
俺はこの一週間、いつまたヤツが現れるかと思って、不安で満足に眠ることが出来ないでいた。
悪夢を見て飛び起きると、隣では真琴さんが楽しそうな表情で寝ている。
今もそうして起きた後に、彼女の寝顔を見てほっとした後だった。
彼女はいったい毎晩、どんな夢を見てこんな楽しそうな寝顔を見せているのか。
そして、この寝顔を見るたびに、幸せだった頃の彼女を想像してしまう。
もし、あの頃の彼女と出会えていたならば……。
そして、あの歌声をこの耳で生で聴きたかった……。
浩二さんはドラマーとしても、男としても俺の憧れだった。だから、彼の真似をして肩にシンバルのメーカーのロゴの刺青を同じように入れた。(実は左右間違っていたが……)
浩二さんが相手なら、真琴さんを奪おうなんて考えもしなかっただろう。きっと憧れの二人として、尊敬しながら付き合っていたに違いない。
そう思えば思うほど、浩一のヤツが憎くなってくる。
敦司さんは俺のことを心配してくれた。無茶なことをするんじゃないと、何度も俺に言って聞かせた。
勿論ヤツは憎い。でも、まともな手段であいつとやりあっても無駄だろう――、ヤツをこの世から消し去らない限り、真琴さんが普通に幸せになることは出来ないと思った。
(完全犯罪をやる方法はないものか……)
俺はこの一週間、ヤツを殺す妄想にとりつかれていた。
(なに、馬鹿なことを考えているんだ……)
溜息をついてベッドをおり、冷蔵庫から水のペットボトルを出してきてテーブルの前に座った。
夜が明けてきて明るくなってきた窓を見つめ、真琴さんが日の出を見に連れて行ってくれた日のことを思い出した。そのことを敦司さんに話すと、敦司さんは「そうか……」とだけ呟いて涙を堪えているようだった。
(何とかできないものか……)
また、ヤツを殺すことを考えてしまいそうになり、慌ててペットボトルの水をラッパ飲みした。そして勢いよくテーブルの上に置くと、その横で彼女に上げた携帯電話が小さく弾んだ。俺はそれを手に取った。
溜息をついて蓋を開け、メールをチェックしてみる。
彼女は結局、これを持ち歩いてくれなかった。メールを出しても一度も返信してくれたことはなかった。
受信ボックスには俺が出したメールばかりが残っていた。
ふと、送信ボックスに未送信のメールがあるのに気がついた。宛先と件名はない。なんとなく、それを開いてみる――。
『コウジ』最初のその文字を見て、バクンと心臓が大きく動いた。
目を見開いてその続きに目を走らせる。
『コウジがなんであたしなんかを誘ってくれたのか分からないけど、あたしは嬉しかったよ。明日、晴れるといいね。真琴より』
俺はその短い文章を何度も何度も繰り返し読んだ。涙で文字が霞んで見えなくなるまで――。
暫くして落ち着くと、そのメールを自分の携帯に送信した。そして、旅行のための準備を始めた――。
昼過ぎに御殿場近くに着いた。ファミリーレストランへ入り、注文を済ませると、真琴さんはぼんやりとした表情でタバコに火をつけた。走り屋仕様の彼女のバイクを、長時間前屈姿勢で運転してきて、肩や背中ががちがちだった。俺はそれを揉み解しながら、彼女のぼんやりとした表情を見つめた。
今朝、荷造りを終え叔父さんに電話すると、来週末までなら別荘を使っていいと言ってくれた。その後敦司さんへ電話して、暫く真琴さんを休ませると連絡した。電話を切る間際、敦司さんは、「真琴をよろしく頼む……」とぼそりと呟いた。
もう、迷いはなかった。
俺は真琴さんを連れて逃げる。
別に大学に未練はない。父親がどうしてもいけというので、仕方なく、とりあえず入れる大学を選んだまでだ。
俺の夢はミュージシャンになることだったが、今はそんなことより、何よりも、真琴さんと話がしたい。彼女の笑顔が見たい。それが今の俺の、何よりの希望だ。
とりあえず別荘へ身を隠し、次の行き場所を考える。浩一が別荘の場所を知るわけがないし、まったく心配なことなどなかった。
当面過ごすための金も、先日、押入れの中の冷蔵庫の中に百万近くあったのを見つけたので、それで何とかなる。
浩一の恐怖から逃れられれば、きっと真琴さんは俺に心を開いてくれる。そして、時間が立てばあの素敵な歌声も戻るかもしれない。そしたら、二人でまたバンドを始めてプロを目指せばいい。
そんなことを考えていると注文した料理がテーブルの上に置かれた。真琴さんは目の前に置かれたオムライスを、ぼんやりとした表情で見つめた。
「さあ、食べよう!」と俺は元気に言って真琴さんにスプーンを差し出した。
叔父さんの別荘は小さなログハウスだった。俺はもっと豪勢な建物を想像していたので、暫くあっけに取られてその建物を見つめていた。でも、建物自体は割りと綺麗で、入り口の直ぐ横には広いウッドデッキがある。俺は今夜、そこで真琴さんとバーベキューをやろうと思って、少しわくわくとした気持ちになり、彼女の手を取って入り口のドアを開けた。
中は二十畳くらいのフローリングの一間で、キッチンとバスとトイレが着いている。部屋の中にはテレビとローテーブルがあるだけだった。俺はそれでも十分だと思いながら中へ入り、とりあえず空気を入れ替えようと窓を全開にして、それからエアコンのスイッチを入れた。
真琴さんの姿を探すと、彼女は入り口の反対側の窓の下にもたれて胡坐を組み、タバコに火を点けていた。俺はキッチンから灰皿を探し出してきて、彼女の傍へ置いた。
彼女がタバコを吸い終わると、彼女を連れて買出しに出た。
彼女の手を握り、ゆっくりと林の中の砂利道を歩いた。
「なんかやりたいこととかない?」
「…………」
「ボートにでも乗る? それとも、テニスとかは?」
「…………」
「そうだ! 夜、花火でもやろうか?」
「…………」
無反応な彼女の態度は寂しいが、それでも心はすっきりとしていた。
(最初はこんな感じだったんだ。でも、ヤツが来る前には俺の誘いを喜ぶまでになってくれていたんだ。焦る必要なんてない。とにかくいつかはきっと……)
その晩、外のウッドデッキでバーベキューをやることにした。ウッドデッキには大きな木のテーブルとバーベキューグリルがあり、俺はなれない手つきで炭をおこした。彼女が向かっているテーブルの前に、灰皿と缶ビールと缶チューハイを並べておくと、彼女は缶チューハイを手にとって蓋を開けた。俺は彼女が取らなかったビールを手に取りそれを飲みながら肉や野菜を焼き始めた。
最後にやきそばを作って彼女と並んで座ってそれを食べながら、俺は自分のことを彼女に話した。好きなミュージシャンの話、好きな曲のジャンル、今までやってきたバンドのこと、ライブなどでのエピソードなどだ。彼女は俺のほうに顔を向けることなく、無表情でやきそばを食べていたが、それでも俺は独り言のようにべらべらと、彼女の態度など気にせずに話し続けた。
そして、敦司さんと浩二さんが前にやっていたバンドを見て感動したことを話した。その時あまりにも浩二さんがかっこよかったので、彼の真似をして刺青を入れたことを話した。
「俺もこのメーカーのシンバル、好きだから……」
そう言いながら、Tシャツの袖を捲って見せると、彼女はゆっくりと顔をこちらに向けてきて、その刺青を見つめた。
初めて彼女と会った日と同じ目だった。あの日もこの刺青をそんな風に見つめていた。
「俺のコウは、光って書くんだよ」
「…………」
俺は彼女が目を逸らすまで、シャツの裾を捲って見せた。
彼女はあいつが現れてから、Tシャツを脱がされるのを嫌がらなくなっていた。おそらく、もう見られたから隠す必要もなくなったと思ったんだろう。でも、今夜も彼女を抱くことが出来なかった。あれ以来彼女は全く濡れなかったからだ。唾をつけて無理やりしようと思ったこともあるが、結局出来ないでいた。
俺の腕枕で眠っている彼女の髪を優しく撫でながら、悶々としてなかなか眠れなかった。
あっという間に一週間がたとうとしていた。
この一週間、俺は彼女を連れて林の中を散歩したり、山中湖でボートに乗ったり、バイクで富士山に登ったりと思いつくことを色々とやってみたが、彼女の反応は一向に変わろうとしなかった。
さすがに焦ってきた。あさってにはここを引き上げなくてはならない。
瞬きで頷いてくれるだけでもよかった。彼女が何か意思表示してくれるのをずっと待っていたが、全然駄目だった。
朝食を終え、ウッドデッキのテーブルに向かっている彼女にアイスコーヒーを出し、自分も向かい側に座って一口啜った。
「ねえ、俺のこと嫌い?」
「…………」
「迷惑?」
「…………」
「ねえ、もう帰りたい?」
「…………」
はあっと大きく溜息をついた。焦るなと自分に言い聞かせても、ついイライラしてしまうようになっていた。
あさってここを出たら、北海道でペンションをやっている十歳上の兄のところに身を寄せようと思っていたが、こんな調子の彼女を連れて行ったら何を言われるか分かったもんじゃないと思った。
(やばいなあ……、やばいなあ……)
ふと気がつくと、イライラしている。俺はまた大きく溜息をついた――。
彼女を別荘に残して、昼飯の買出しに出た。一人になってよく考えたかったからだ。
彼女は本当に俺と一緒にいたいのだろうか……。
彼女を連れまわすのは、俺の身勝手なんじゃないだろうか……。
彼女は浩一から逃げたいと思っていないのだろうか……。
彼女は一生このままでいいと思っているのだろうか……。
とにかく、声でじゃなくてもいい。何でもいいから彼女の気持ちが知りたかった。
また溜息をついてしまった。なんだか、考えるのが面倒になってきた。彼女をここへ連れてきたときは、自信たっぷりだったのに、今はそんな自信はまるでない。
俺は彼女のためにすべてを捨てる覚悟だったのに、彼女はそれに応えようとしてくれない。なんだか、相手が俺じゃなくてもいいみたいに思えて仕方がない。
山中湖の湖畔にあるコンビニエンスストアーの前に着いた。
入り口の前にぼんやりと立ち、今日は何を食べようと思ったときだった。
「光二!」と、大声で呼ばれた。聞き覚えのある女の声だった。
恐る恐るそちらのほうに顔を向け、目を見張った直後、思わず口説き目線を放っていた。
「光二!」と彼女は手を振って笑みをこぼし、俺に駆け寄ってきた。
「光二どうしたの? なんでいるの? びっくりしちゃった」
なんだか、久しぶりに人に話しかけられたのが嬉しかった。不意に胸が熱くなってくるのを感じた。
「なによ、じっと見つめちゃって……、恥ずかしいじゃん……」
彼女は、はにかんで身体を横に向けた。真っ白なうなじが目に飛び込んできて、思わずごくりと唾を飲んだ。
久しぶりに見た彼女は、前と少しも変わっていないのに、彼女がとても可愛く見えて俺はどぎまぎしてしまった。
「ねえ、一人?」彼女は辺りをきょろきょろしながら言った。
「ん? ああ、ひとり。由美子は?」
「さっき、みんなと買い物に来たんだけど、買い忘れたものがあったから戻ってきたのよ」
「みんな?」
「ああ、サークルの合宿に来てるのよ。光二と全然連絡とれないってみんな心配してたよ」
俺は、えっ? と思って携帯電話を取り出して驚いた。間違って真琴さんの携帯電話を持ってきていた。自分の携帯電話はアパートに置きっぱなしだ。
「携帯変えたの?」由美子は携帯電話を覗き込んで訊いた。
「ん? ああ、ちょっと前にね」俺は慌てて携帯電話をポケットに入れた。
「ねえ、時間ある?」由美子は上目遣いで俺に訊いて来て、俺は思わず頷いていた。
「ちょっと寄ってかない?」彼女はコンビニエンスストアーの隣にあるハンバーガーショップを指差して言った。
俺が頷くと、彼女は嬉しそうに笑みをこぼして、俺に腕を絡めてきた。俺はそんな彼女をさっきから、どうやって口説こうか無意識に考えていることに気がついた。
(な……、なに考えてんだ!)
立ち止まろうとした瞬間、腕が由美子の胸に当たって、思わずその腕に全神経を集中しながら彼女と並んで歩いてしまった。
「なんか、光二と歩くの久しぶり」という彼女の声も、彼女から漂ってくるシャンプーの香りも、すべてが懐かしかった。
勘違いしてたんじゃないだろうか、ひょっとして、ずっと悪い夢を見ていて、さっき由美子に声を掛けられた瞬間に目覚めたんじゃないかと思った。
真琴さんも、浩一も、実はこの世になんかいないんじゃないかと考え始めていた――。
「光二……、怒ってるよね?」
「えっ? なにが?」
「私が光二を振ったこと……」
やっぱり夢じゃなかった。俺は思わず奥歯をかみ締めていた。
「光二もてるから、私、不安だったのよ……」
俺は隣で注文の列に並んでいる彼女を見つめた。
「だから……、もしかしたら……、分かれるって言ったら……、光二がもっと私に向いてくれるかと思って……」
俺は何も答えず上を見上げ、メニューの一覧を目で追った。
「馬鹿だね、私……、光二のこと……」
彼女の視線が俺に向いているのを感じた。
多分ここで彼女を見たら、俺は……。
気を紛らわそうと、必死にメニューを順番に読んだ。
(バンバーガー、チーズバーガー、ダブルバーガー)
真琴さんはハンバーガーが好きだろうか……。肉好きだから、きっと好きに違いない。
(コカコーラ、アイスコーヒー――、スマイル……)
ごくりと唾を飲んだ――。
スマイル0円……。
「いらっしゃいませ!」目の前で、店員の女の子が俺に満面の笑みを見せた。
彼女の……、真琴さんの……、
(真琴さんの笑顔が見れるんだったら……、百万でも、二百万でもいくらでも……)
「ごめん! 由美子!」俺は用事を思い出したと言い残して、店を飛び出した。
(なに考えてんだ! このドスケベ野郎!)
俺は自分にぎんぎんにむかついていた。
(思い通りにならないからって、こんくらいで!)
ふと、人にぶつかりそうになり立ち止まると、フリーマーケットの店が並ぶ広場の中を歩いていたことに気がついた。
俺はいらいらしていた気を紛らわそうと、一軒ずつ店の商品を眺めながら別荘に向かった。
古いアコースティックギターが五千円で売られていて、俺は買おうかどうしようか迷った挙句、買わずに次の店の前に立った。
古着を並べている店だった。彼女に服でも買っていってあげようかと思いながら、展示されている女性物の服を一着ずつ見ていった。
「あっ!」と思わず声を漏らしてしまった。
真琴さんが浩二さんと一緒に写っていた写真の中で着ていた、薄い水色のワンピースにそっくりの服があった。
「いかかですか?」店員が近づいてきて声を掛けてくると、俺は迷わずそれを買った。
さらに、そこで白い女性もののサンダルを買い、そこの店員に化粧品を売っている店の場所を聞いて、そこで適当に化粧品を買い集めた。
そして帰りに由美子と入ったハンバーガーショップで、ハンバーガーをいくつか買うと、急いで別荘に向かった――。
「ごめん! 遅くなって!」と大声で言いながら、別荘のドアを勢いよく開けた。
部屋の中に彼女の姿が見えなかったので慌てたが、足元に彼女のスニーカーがあったのでほっとしながら中に入った。
水洗トイレの水が流れる音が聞こえて、暫くすると彼女はトイレから出てきた。
「真琴さん! これ見て!」俺はワンピースを広げて彼女に見せた。
「…………」彼女はただ、ぼんやりとワンピースを見つめるだけだった。
(我慢、我慢……)思わず切れそうになったのを必死で堪えた。
彼女がテーブルの前に座ってタバコを取り出すのを目で追って、俺はテーブルの上にハンバーガーを並べた。
「好きなの取って」
彼女はまたぼんやりとした目つきでハンバーガーを見つめる。
俺の予想はチーズバーガーだった。
彼女はタバコを揉み消すと、その手をゆっくりとハンバーガーのほうへ動かしていく。
(よし、それだ!)チーズバーガーの上に彼女の手が来た瞬間、俺は心の中で叫んでいた。
「えっ?」彼女は、フィレオフィッシュを取った。
(うそ! なんで?)彼女が肉より魚を選ぶとは思えなかった。
「真琴さん、フィレオフィッシュ好きなの?」と言って彼女の顔を見た瞬間、バクンと心臓が大きく打った。
彼女は、ゆっくりと瞼を閉じた――。
「あ……、あの……」
彼女は俺を見つめながら、フィレオフィッシュにかぶりついた。
「あの! それ……、フィレオフィッシュ、好きなの?」
彼女は口をモグモグしながら、ゆっくりと目を閉じた。
(うおおお!)心の中で絶叫しながら、思いっきり手を握り占めた。
彼女はフィレオフィッシュを食べ終えると、ポテトに手を伸ばした。俺はそれを見た後、立ち上がって冷蔵庫からアイスコーヒーのボトルを出して、彼女と自分の分を準備しテーブルの前に座った。
ハンバーガーに手を伸ばしかけたが、胸がいっぱいで食べられそうになかった。
ずっと、彼女が食べている姿を静かに見つめていた。
「ねえ、これ着てみて」
夕飯を終え、ぼんやりとテレビを眺めいている真琴さんに、俺はワンピースを広げて見せて言ったが、彼女は完全に無視だった。
さすがに俺はむっとしてしまい、彼女の服を剥ぎ取るように脱がして、ワンピースを頭からかぶせた。
「おお!」震える指でワンピースのボタンを掛けながら感動していた。
あの写真の雰囲気が出ている。これで笑ってくれたら最高だと思いながら買ってきた化粧品を広げた。
「ねえ、ちょっと化粧してみてよ」
「…………」
(ぐっ!)聞くんじゃなかったと思った。仕方なく、自分でやってみるしかないと思った。
(えー、どうすりゃいいんだ?)
とりあえず分かるものは、口紅とアイシャドーとマスカラ……。
(んー、ファンデーションって最初に塗るのか?)
とりあえずファンデーションを塗りたくり、口紅を手に取った。
(ぐっ!)彼女の少し厚めの唇がぐにゃぐにゃして上手く濡れなかった。
「ちょっと、いーって口して」
「…………」
(うがあ!)俺は彼女の唇を押さえつけてむりやり塗った。
「ちっ!」
俺のへたくそな化粧で、ピエロかちんどんやにしか見えない彼女の顔を見て、俺はがっくりとうな垂れた。
彼女を横目でちらりと見ると、そのままの顔でテレビをぼんやりと眺め始める。
俺は、彼女に背を向けてふて寝した――。
目を開けると朝だった。
寝すぎて頭が重かった。
部屋の中を見渡すと、真琴さんの姿が見えない。外かなと思って立ち上がり入り口の横の窓の向こう側に目を向けた。
誰かがウッドデッキのテーブルのところに背を向けて腰掛けている。
でも、真琴さんじゃないと思った。いつもの彼女の服装じゃなかったからだ。――と思った瞬間ハッとなった。
急いで立ち上がり、ウッドデッキへ出る窓のサッシを思いっきり開いた。
薄い水色のワンピースを着た真琴さんは、ゆっくりと俺のほうに身体を向けてくる。
心臓がバクバクしているのを感じた。
彼女の顔を見た瞬間、ぼうっとしていた頭の中が光で満たされたような感じがした。
彼女の傍へ立ち、薄化粧した彼女の顔をじっと見つめた。
綺麗だった――。あの写真の彼女に、また近づいたと思った。
急いで朝食を終え、ここでの最後の一日を満喫しようと思った。
最初に、彼女と手をつないで林の中を散歩した。ここへ来てから何度もこの道を散歩したが、今は全く気分が違っていた。
「俺も親がいないんだ……。正確に言うと、母さんは小学校の六年のときに死んだ。父親はいるけど本当の父親じゃないんだ……」
ちらりと真琴さんを見ると、彼女はぼんやりと正面を向いて歩いてる。俺はかまわず話し始めた。
「お互い子持ちで再婚して……、本当の父親のことは何にも知らない……。今の父親は俺にやたらと厳しくてさ、兄貴ばっかり可愛がって、だから俺すっごく嫌いでさ、何度も家出しようと思った……。でも、兄貴は俺に凄く優しくしてくれて、血がつながってないのに本当の兄貴みたいで……、兄貴がいなかったら多分やってけなかったと思う。その兄貴も俺が中学卒業したらペンションやりたいからって言って家を出ちゃってさ、だからあの父親と二人でいるのに耐えられなくて、高校のときはバンドとバイトで殆ど家にはいなかった。で、大学は家を出るために、わざと遠いとこ選んで今のところにしたって分け……。それで、真琴さんと出会った」
彼女をじっと見つめた。でも、彼女はこちらを向いてくれることはなかった。
湖畔の開けた通りに出たところで、美容院の看板が目に留まった。
「ねえ、髪、切らない? 俺もぼさぼさだからさ……」
彼女はゆっくりと目を閉じた。
美容院はすいていて助かったと思った。彼女と隣同士で座り、髪を切ってもらうことになった。俺はさっぱりと短くしてもらうように指示をして、真琴さんの様子を伺った。
「どうなさいます?」と若い女性の美容師が真琴さんの後ろから、鏡の中の彼女を見ながら言った。
「真琴さん、ショートでいい?」俺は写真の彼女を想像して訊いてみた。
「ショートが似合いそうですけど」
と美容師も言うと、真琴さんはゆっくりと目を閉じた。
「あっ、すいません、それで」
俺が変わりに答え、写真の彼女の髪型を思い出しながら、細かく美容師に指示を出した。
俺は真琴さんの様子をひやひやしながら、髪を切ってもらっていて、出来上がった自分の髪型に不満だったが、髪を切り終え見違えるように変わった真琴さんに大満足だった。
(やっぱこれだよ、スッゲー可愛いよ)
俺は彼女を抱きしめたくなる欲求を必死に堪えた。
昼食を終え、また彼女と手をつないで湖畔を散歩した。
ボート乗り場へ差し掛かり、彼女をボートへ乗ろうと誘った。
貸しボートは、普通の手漕ぎボート、白鳥のボートそしてアヒルのボートがあった。
「どれにする?」
俺が一つ一つ訊いていくと、彼女はアヒルのボートを選んだ。
岸から遠く離れたところまで漕ぎ出し、俺は彼女を抱き寄せキスをした。彼女のすべてを吸い取ってしまいたかった。彼女も俺に答えるかのように舌を絡めてきた。
ボートを下り、今夜はレストランにでも行って食事をしようと彼女を誘った。それまで、まだ時間はかなりある。俺は彼女を連れてゆっくりとまた、林の中を散歩しながら行こうと思って彼女の手を取った。
暫く林の中を歩いていると、彼女がふと足を止めた。
彼女が顔を向けているほうを見ると、白いペンキが所々はがれた木のベンチが一つある。
俺は写真の彼女を思い出し、一緒に写真を取ろうと彼女に言った。
近くを通りかかったカップルの男性に頼んで、間違って持ってきた真琴さんの携帯電話で撮影してもらうことにした。
あの写真と同じように、彼女の右側に座りポーズをとった。
浩二さんは足を組んで写っていた。だから俺もそのポーズを取ると、真琴さんが俺に腕を絡めてきた。
心臓がバクバクして、暫く彼女から目が離せなかった。
「はい! 撮りますよー」
と言う声にハッとして正面を向いた。
「はい! 笑って! チーズ」
俺は必殺の口説き目線で写真を取ってもらった。
「ありがとうございます!」
と丁寧にお辞儀をしながら、写真を撮ってくれた男性にお礼を言って、返してもらった携帯電話の液晶画面を見て、息を呑んだ――。
(…………)叫びだしたいくらいだったけど、声の出し方を忘れてしまった感じだった。
液晶画面がぼやけて見えて、必死に涙を拭った。
(やべえ! ダッセー、なに泣いてんだ!)
液晶画面の中の真琴さんは満面の笑顔で写っていた。
あの写真の真琴さんそのものだった。
嬉しくて、嬉しくて――、諦めなくて本当によかったと思った。
涙が収まり振り返って彼女を見ると、彼女はベンチの背もたれを指でなぞっている。
なんだろうと思いながら、近づいてみた。
「あっ!」
真琴さんが指で指している先に相合傘が掘り込まれていて、そこには真琴と浩二という文字が刻まれていた。
(ここだったのか……。ここがあの写真の場所だったのか……)
彼女の目は遠くの何かを見つめているようだった。俺はそんな彼女の姿を黙って暫く見つめていた――。
試しにステーキレストランと回転寿司ならどちらがいいかと訊いてみると、真琴さんは回転寿司を選んだ。
回転寿司屋に入ると、彼女はいくらの軍艦巻きしか食べない。俺は彼女の好みが分からなくなってきた。
夕食を終え、バーに入ってカクテルでも飲むか、喫茶店でコーヒーでも飲むか訊いてみると、彼女は喫茶店のほうを選んだ。近くの喫茶店に入ったが、彼女はタバコを吸わない。よく考えてみると、朝からずっと吸ってないような気がした。
俺は彼女の心が普通に戻っていく予感を感じて、嬉しくなってきた。
別荘までの帰り道、彼女の肩を抱いてのんびりと歩いて帰った。
星が瞬く夜空を見上げながら、北海道での彼女との暮らしを想像して、わくわくとした気持ちが沸き起こってきた。
(向こうのほうが、こちらよりずっと星が綺麗だろう……)
「あっ!」(真琴さんが喋ってく……。あーあ……)流れ星が見えたので、急いで願い事をしようとしたが、間に合わなかった。
溜息をつきながら彼女の顔を見ると、彼女は正面を向いて星空なんかには興味がないようだった。
また溜息をつきながら、携帯電話に保存してある、今日彼女と取った写真を見た。
満面の笑顔の彼女を見つめ、これを見ればこの先どんな嫌なことがあっても乗り越えられるような気がした。
別荘へ帰ると、シャワーを浴びるのももどかしくなって俺は彼女を抱きしめた。そして、むさぼるように彼女にキスをした。
「明日……、別荘を出ないといけないんだ……」
顔を離して、彼女に話しかけた。
「北海道に兄貴がいるんだ。そこに行こうと思う……」
彼女の目をじっと見つめた。
「一緒に……、ついてきてくれる?」
彼女の目がゆっくりと閉じるのを見た瞬間、胸が熱くなってきた。たまりかねて、また彼女を思いっきり抱きしめてしまった。
ゆっくりと、彼女のワンピースのボタンを外し始めたときだった。ふと彼女の顔を見てハッとなった。
あのときの表情だった。
(うそだろう……、そんなわけないよ……)
俺はテレビを消して、耳を澄ませた――。
がーっとエアコンの音がするだけで、バイクの音は聞こえない。
もう一度彼女を見てみると、やはり彼女はおろおろとうろたえている。
彼女の名前を呼ぼうと思ったときだった。
ドドドっという、低いバイクの音が聞こえたような気がして、息を呑み、耳に全神経を集中した――。
ドドッ、ドドッというバイクの音が今度ははっきりと聞こえてきて、俺は思わず立ち上がった。
急いで玄関と、その横の窓のサッシの鍵を確認し、窓のカーテンを閉じた。
ドドッ、ドドッっと、もうはっきりとこちらにバイクが近づいてくるのは確実だと思った。
俺は、真琴さんを風呂場へ押し込み、中から鍵を掛けるように叫んだ。そして、部屋の中の明かりを消した。
ドドドン! ドドドン! という不気味なうなり声のような低い単気筒のバイクの音が大きくなり、カーテンが外からの光を受け浮かびあがっている。
(くそう……、なんでここが……、くそう……)
もう、覚悟を決めた――。
ここで食い止めなければ、また振り出しだ。
バーン! という大きなバックファイヤーの音がした後、バイクのエンジンの音が消えた。
俺は下唇を噛んで玄関を睨み付けた。
ガンガン! とヤツは鍵の掛かったドアを何度も開けようと引いているようだった。
直ぐにその音は止み、コツッ、コツッとウッドデッキを歩いている足音が聞こえてきた。
光で浮かびあがっているカーテンに、人影が写った。
俺はごくりと唾を飲み込んで、そいつを睨み付けた。
すると、ガラスが割れる音が聞こえて、その後サッシが開けられた。外からの風が吹き込んでカーテンが揺れている。そのカーテンをゆっくりと開き、ヤツは姿を現した――。
俺は歯を食いしばり、拳を力いっぱい握り締めた――。
*
遠ざかっていくヤツのバイクの音がするのに気がついた。
顔や身体のあちこちがずきずきする。
舌で口の中をまさぐると、上の前歯と左上の奥歯が一本ずつないのが分かった。
痛みを堪えて目を開けようとしたが、目が開かない。
ぼんやりと視界が広がり、瞼が腫れていてこれ以上開かないんだと思った。
(情けない……、何で俺ってこんなに弱いんだ……)
ヤツに一発でも拳を当てた記憶がなかった。
(また……、振り出しに……、せっかく彼女が笑ってくれたのに……)
彼女を見るのが怖くて、暫くそのままじっとしていた。
それでも、万が一彼女が大怪我でもしていたら大変だと思い、ゆっくりと起き上がった。
部屋の真ん中に、丸裸の彼女がうつ伏せで倒れている。
這って彼女の傍へ近づいた。
小さく彼女の肩が動いているのを見て、とりあえず彼女は生きていると思った。
「真琴……、さん……、大丈夫?」
「…………」
背中に目を向けると、また新しい爪痕がいくつも出来ている。
(ごめん……、ごめんなさい……)
涙が目に染みる――。俺は蹲って、彼女に謝り続けた――。
優しく髪を撫でてくれるのを感じてハッとした。
「光二……」
バクンと心臓が大きくなった。
「えっ?」
勢いよく身体を起こすと、彼女が足を崩して座っていた。
「あっ、あの……」
「光二……、大丈夫?」
しわがれた声だった。でも、やさしい口調だった。
「ああ……、うわあ……、ああ……」
言葉にならない声しか出なかった。たまらず彼女を抱きしめた。
「光二……、大丈夫?」
「うああ!」
「光二……」
嗚咽を漏らしている俺の背中を、彼女は優しく撫でてくれる。
もう、駄目だった――。
嬉しいのと、悔しいのと、ほっとしたのと、情けないのと……、様々な感情が沸き起こってきて、言葉を発することが出来なかった。
「真琴……、真琴さん!」
ようやく喋ることが出来た。
「光二……」
「ごめん……、真琴さん、ごめん!」
「光二、大丈夫? 痛くない?」
耳元で囁く彼女の言葉に、俺は鳴き声を必死に堪えながら頷いた。
「真琴さん! 一緒に……、一緒に逃げて!」
「光二……、怖い? あいつが、怖い?」
「俺……、お願い! もう、あいつに見つからないところに行こう! お願い! 一緒に逃げて!」
「光二……、大丈夫よ……、大丈夫だから……」
大丈夫よ……。
(お願い……)
大丈夫だから……。
(真琴さん、お願い……、一緒に……、逃げて……)
光二……、大丈夫だから……。
*
鳥のさえずる声が聞こえる。
ふわふわとして気持ちのいいところに寝転んでいるようだ。
さっきから、若草の香りが鼻をくすぐっている。
俺は薄目を開けてみた。
まばゆい光が広がり、暫く目の前が真っ白になった。
目を細めて、ようやく目が慣れてくると、突き抜けるような真っ青な空が広がっていた。
遠くからアコースティックギターの音色が聞こえてきた。
ゆっくりと身体を起こし、辺りを見回すと、俺は大草原の中にいた。
右も左も地平線まで広がる草原で、その上には雲ひとつない青空が広がっている。
後ろからギターの音色が大きくなってきて、俺はそちらに身体を向けた。
遠くの白いベンチで、青い服を着た女性がギターを爪弾いている。
(そうか……、来たんだ……、彼女と一緒に、北海道へ来たんだ)
透き通った歌声が聞こえてきた、彼女の歌だ。
俺は目を閉じてその歌に耳を傾けた。
(声も元通りになったんだ……。よかった。これでまた彼女とバンドが始められる。敦司さんも誘おう。敦司さんもきっと喜んでくれる)
目を開けようとすると顔面がずきずきと痛んで開けられなかった。顔だけでなはい。体中のあちこちが死ぬほど痛い。
その痛みで気がついた――、
(夢か……)
痛みを堪えて身体を起こした。なんとなく予感はしていたが、彼女は部屋にはいなかった。ワンピースが綺麗にたたんで置いてある。その上には、引きちぎられたボタンが乗せてあった。
テレビの横に置いてあった彼女のヘルメットがない。靴脱ぎに這っていくと、彼女のスニーカーはなく、俺が買ってあげた白いサンダルが綺麗に揃えて置いてあった。
*
砂利道をこちらに向かって走ってくる車の音が聞こえる。
俺はそれに興味を示すことなく、靴脱ぎに腰掛けたまま昨日撮った彼女の写真をぼんやりと見ていた。
暫くして、正面のドアが勢いよく開いた。
「光二!」
敦司さんだと思って顔を上げると、彼の顔面はボコボコに晴れ上がっていた。
昨日、敦司さんの仕事場に浩一が来て、気を失うほどの暴行を受けたそうだ。その後気がついて暫くすると、パソコンのディスプレーにはっておいたここの場所をメモした付箋紙がなかったという。
直ぐに俺に連絡しようとしたが、俺が全然電話に出ないので心配になってここに来たということだった。
俺は真琴さんが話してくれたことを呟くと、敦司さんは慌てて俺の腕を掴んで外へ連れ出し、車の助手席に俺を押し込んだ。
「ど……、どうしたんですか?」
「馬鹿! 真琴が今、何をしようとしているのか、分からないのか!」
敦司さんはそう叫んで、車を走らせた。
敦司さんの言葉でようやく気がついた。真琴さんは浩一に仕返しを――。
馬鹿だった。俺はてっきり自分があんまり弱いので、愛想をつかされたんだと思って落ち込んでいたが、そうじゃない――。
俺のため? それとも、単純に浩一が憎いから?
あいつをどうにかするなんて、あいつを殺すことしか思いつかなかった。でも、正面からやりにいくとするなら、俺でもあいつと刺し違える覚悟がないと出来ないと思った。真琴さんはどうやって――。
(駄目だよ、真琴さん……。やるなら俺がやるよ……。やめてよ……、やめてよ……)
とにかく、最悪のことが頭に浮かんできて、ガタガタと震えながら、車に揺られていた――。
彼女のアパートの前に着いた途端、最悪の予感が当たってしまったと思った。
アパートの前の駐車スペースにパトカーが一台と、赤色等を乗せた黒いセダンが一台止めてあった。
俺は急いで彼女の部屋に入ろうとしたが、警察官が前に立ちはだかって、どこうとしない。
「どいてくれ!」
「駄目だ、向こうへ下がってなさい」
「どけ! 真琴さん! 真琴さん!」
俺が叫んでいると、部屋の中からスーツを着た中年の男性が暑そうに額に汗を浮かべて出てきた。
その男は警察手帳を見せ、名前を名乗った。
「あの! 真琴さんは? 真琴さんは、どこに!」
「君は?」
「あの! 真琴さんは? 教えてください、真琴さんは?」
「こいつは、山下光二。自分は光田敦司です。真琴と三人でバンドをやってるんです。真琴は俺の店で働いてます」
敦司さんが後ろから、俺の肩を掴んで言った。
「おい! 教えろ! 真琴さんはどこだ!」
ふいに、中年の刑事の男の後ろから若い男が顔を覗かせた。
そして言った。
「鳥越真琴なら――、死んだよ」
「う……、嘘言ってんじゃねえよ……」
「おい、光二やめろ」
「ふざけんなよ……」
「光二……」
「出せよ! 真琴さんに会わせろよ!」
「やめろ! 光二!」
「うわああ!」
(なんで……、なんで……、やだよ……、嫌だ!)
*
ここはいつもいい天気だ。そして暖かい。
目の前の地平線まで続く草原は、気持ちのいい風に揺れていて、上を見上げれば、雲ひとつない真っ青な空が広がっている。
そして、ここにくれば彼女に会える。
大草原にぽつんとある白いベンチに腰掛けていると、薄い水色のワンピースを着た彼女が隣に座り、俺に優しい笑顔を見せてくれる。
ここでは彼女は普通に話をしてくれる。しわがれてない、綺麗な優しい声だ。
だからいつも、ずっと彼女と話をしている。
好きなミュージシャンの話。バンドのこと――、話すことはいくらでもある。
俺のくだらない冗談に彼女は楽しそうに笑ってくれる。そんな彼女が愛おしくなって、俺は彼女に口づけする。
彼女の体の感触も、唇の感触も、全くそのままだ。
ずっと彼女と一緒にいたい。
ずっと彼女を抱きしめていたい。
でも、どうしても、ここにずっといられるわけではない。
かならず、ここから引き戻される時間がやってきてしまう――。
「光二、起きた?」
エプロン姿の由美子が俺の顔を覗きこんでいた。
「光二、今日休みでしょ、ねえ、天気いいからさ、またあそこ連れてってよ」
ここに真琴さんはいない。だから、俺はこの世界には興味がない。だからと言って、死のうとも思わない。なぜなら、死んでしまったら、彼女に会えなくなってしまうからだ。
「ねえ、光二、学校の上のさ、海が綺麗に見えるとこ――、ねえ、行こうよ」
ああ……、早く彼女に会いたい……。
そして――、もっと、もっと、沢山話しがしたい……。
―完―
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。(Y’z)