―4―
俺は自分のアパートを引き払うことにした。家賃を浮かせてその分を彼女にあげるためだ。バイトの時間も少し増やしてもらうことにした。少しでも金を稼ぎたいがためだ。
そうして、俺は真琴さんと一緒に住むことにした。
彼女の部屋に必要最小限のものを持って引っ越してくると、小汚いこの部屋を何とかしようと思い掃除を始めた――。
カラーボックスの中を整理しているときだった。雑誌の間に写真たてが挟んであったので、俺はそれを何気なく取り出した。
「あっ!」思わず声を上げた。
薄い水色のワンピースを着た、真琴さんの眩しい笑顔が飛び込んできた。彼女は今と違ってショートカットで、本当に可愛かった。これが本当の彼女の姿だと思った。俺はこの笑顔が見たくて見たくて、ただそれだけのために彼女の傍ににずっといたような気がした。
写真の中の彼女はベンチに腰掛けて、隣に座っている黒い革のジャンパーを着た男に腕を絡めていた。その男の顔を見てみて、息を呑んだ――。
死んだと教えられた『浩二』さんだった。
(そうか……、浩二さんと付き合っていたのか……)
彼女の左手首の傷跡を思い出した。彼女が今のようになってしまったのは、浩二さんが死んだことと関係があるのではないかと俺は想像した。それくらい、浩二さんの隣に写っている彼女は幸せそうに見えた――。
あれ以来俺は、真琴さんが家に帰ってくると所持金をチェックするのが癖になっていた。身体を売っていれば五万円以上持っているはずだ。でも、彼女は持っていった金より多くの金を所持していることはなかった。それを確認して、俺はとりあえずほっとする日々を送っていた。
真琴さんとの同棲生活は平和な日々だった。というか平和すぎて退屈になり始めていた。毎日が同じことの繰り返しで、正直言って焦りを感じていた。彼女と同棲を始めてかれこれ一ヶ月近くがたとうとしているのに、彼女は相変わらず目配せ以外で返事をしようとしない。彼女が休みの日にゲームセンターやボーリングやクラブに連れて行ったりしたが、まったく楽しそうな表情を見せてくれることはなかった。何をどうすれば彼女が喜んでくれるのかが、全く分からなかった。
それでも諦め切れなかった。彼女が笑顔で自分と会話をしてくれるにはどうすればいいのか――。彼女と浩二さんの写真を見るたびにそれを考えずにはいられなかった。
土曜日、午前中に洗濯と掃除を済ますと、バイトに行く前に押入れの整理をしようと思い立った。
押入れを開けてみてまず驚いたのは、そこにはなぜか小さな冷蔵庫が置かれていた。他にはバイクのタイヤやハンドルやマフラーが入っていた。要するに、ガラクタ置き場だと思った。
他に何が入っているかと見ていると、まだ栓の開けられていないバーボンとウイスキーが数本出てきて、俺はもったいないと思ってそれを部屋の中に移した。他にあるものと言えば、鍋やフライパンなどだった。俺はいつかそれらを捨てようと思いながらふすまを閉じようとして、冷蔵庫と横の壁の隙間に本が挟み込まれているのに気がつき、それを引っ張り出してみた。
本かと思ったらそれはアルバムだった。中には浩二さんの写真ばかりが納めてあった。悔しいけど、浩二さんはいい男だった。俺は心の中で舌打ちせずにはいられなかった。
浩二さんがカワサキの黒いバイクに乗っている写真があった。それを見て思わず、俺は同じバイクを買おうかと考えたりしていた。
真琴さんが写っている写真が二枚だけあった。どちらも今とは見違えるほど明るい表情をしている。一枚はベッドに腰掛けてアコースティックギターを抱えてピースサインを見せている写真。もう一枚は浩二さんと並んでバイクに跨っている写真。真琴さんのCBXは今と違って改造していなかった。その写真は二人でツーリングにでも出かけたときの写真のようだった。二人とも後ろに大きな荷物を乗せている。
(ツーリングかあ……)俺はふと思い立って携帯電話を取り出した――。
その晩真琴さんが帰ってくると、俺は真琴さんに言った。
「ねえ、俺の写真欲しくない?」
真琴さんの目はテレビのほうを見たまま閉じなかった。
(ぶー)俺はむくれてテレビに目を向けた。今日のビデオはクイーンだった。
もう一度真琴さんに目を向けると、彼女はウォッカを手に取った。
「ねえ、俺さあ、もう直ぐ夏休みだからさ、休みに入ったら二人でツーリングに行かない?」
彼女はウォッカを注ごうとしていた手を止めた。
(おっ!)
「あのね、山中湖に叔父さんの別荘があるの。そこ、借りられることになったんだ、だからさ行こうよ、ツーリング」
真琴さんはゆっくりとウォッカのビンを置いた。そして俺に顔を向けてくる。彼女は俺と目が合うとゆっくりと目を閉じた。
(よっしゃ!)
「行きたい? ツーリング?」
彼女は直ぐに瞬きをすると、微笑んだ――。
「えっ?」心臓がバクバクし始めた。喋ろうとしたけど口の中が思いっきり乾いていて、俺は必死に唾を飲んだ。
「あっ、あの――。い、行きたい? ツーリング」
彼女は首を縦に動かして頷いた。そしてまた微笑んで見せる。
「うおお!」俺は絶叫して彼女を抱きしめていた。
その晩俺は彼女を三度抱いた。とにかく興奮して仕方がなかった。彼女も、今までになく濡れていると思った。
横で楽しそうな寝顔を見せている彼女を見つめながら思った。
彼女は心の病に犯されているんだ。こうやって、少しずつ彼女に近づいていこう――。焦っちゃ駄目だ。そうしているうちに、きっと俺に心を開いてくれる。そしていつかは、俺と普通に話をしてくれる。
きっと……。きっとそうだ――。
ツーリングに行くことが決まってから、少しだけ真琴さんが明るくなったような気がした。たまに、風呂場から真琴さんの口笛が聞こえてきたりする。
それと、仕事先ではどうだか分からないが、家にいる間はタバコと酒をやめているようだった。
ツーリングに出かける前の晩、彼女は早めに仕事から帰ると時折口笛を吹きながらバックに荷物を詰めていた。俺はそんな彼女を笑いを堪えながら見ていた。
(むふふ――、そんなに行きたかったのか――)
俺はこの旅行で彼女が少し変わってくれるような予感を感じていた。
そんなときだった――。
彼女が突然手を止めて流し台のほうの窓に顔を向けた。
彼女は少し顔をこわばらせている。俺はなんだか不安になった。
「どうしたの?」と声を掛けた途端、彼女はビクッと少し腰を浮かせるほど驚いた。そして、おもむろに立ち上がりおろおろとしている。顔がみるみる青ざめていくようだった。
「えっ? ちょっと、なに?」俺が彼女の傍へ近づくと、彼女は窓のほうを見たまま俺の腕を強く握った。彼女は小さく震えている。
そんな彼女を不安に思っていると、遠くからバイクの音が近づいてくるのに気がついた。ドッドッドッドッという低い音で、単気筒のバイクだと思った。
「うわああ……」彼女は声を漏らして俺にしがみついてきた。
バイクの音が近づいてくるにしたがって、鼓動が激しくなっていくのを感じた。恐怖におののく彼女を見て自分までなんだか怖くなってきた――。
(一体全体何が来るって言うんだ……)
ダダダン! ダダダン! とひときわ大きな単気筒のバイクが聞こえてくると、窓の外が明るく照らされた。
俺は彼女を抱きしめて、唾を飲んだ。すると、バン! とピストルでもぶちかましたような物凄いバックファイヤーの音がして、彼女は飛び上がって驚き、俺に思いっきりしがみついてくる。
気がつくと、バイクの音は止んでいた。窓の外の明かりも消えている。
耳を澄ますと、コツ――、コツ――と、足音が徐々に近づいてくる。
玄関のドアノブがゆっくりと回った――。
「うううわあああ……」彼女の震え方は尋常じゃなかった。
キイーっと耳障りな音を立ててゆっくりと玄関のドアが開き、黒いランニングシャツに、黒のズボンをはいた、鍛え上げられた体系の背の高い男が入ってきた。
男は玄関に入ると、立ち止まってこちらを見た。なんとなく見覚えがあるが、真っ黒なサングラスを掛けていて誰だか思い出せなかった。
「だ、誰だよ! あんた!」俺は真琴さんを後ろに隠して言った。
男はゆっくりと、サングラスを外し始めた――。
「うわあああ!」思わず叫んでしまった。俺は目を疑った。(幽霊?)そう思って、目を瞬きながら男の顔をよくみた。
間違いなかった。死んだはずの浩二さんだった。
「なっ、なんで……、なんで……」
浩二さんはにやりと口元を緩めると、俺をにらみつけながら靴も脱がずに近づいてきた。
ちょっと待てと言おうとした途端、顔面に激痛が走って目の前に火花が散った。次の瞬間今度は腹に衝撃が走って床に膝を落とした。視界が歪んでいる。息が出来ない。口の中が血で一杯になっていく。
「ぎゃあああ!」真琴さんが、だみ声で叫んだ。
俺は息を吸い込もうと必死になりながら、彼女の姿を探した。
後ろに浩二さんが立っていると思った。焦点がなかなか定まらない。
ようやく目がはっきりすると、浩二さんが立ったまま丸裸の真琴さんを抱きかかえ、ガンガンに腰を振っている光景が目に飛び込んできた。
俺が慌てて立ち上がろうとすると、「きょええ! ひゃあ!」と言った感じの奇声を上げながら更に腰をガンガンに突き始める。
狂っていると思った。表情が完全にいっていると思った。俺は物凄く恐ろしくなって動けなかった。
また、「きょええ! ひぇ! ひぇ! ひぇ! ひぇ!」と言う奇声を張り上げながら、真琴さんの背中をえぐるように引っかき始めると、「ぎゃあああ!」と真琴さんが苦しそうに、だみ声を張り上げた。
止めなきゃと思っても身体が動かなかった。完全にビビッていて、どうしようもなかった。
何も出来ない自分が情けなくなった。狂ったヤツの表情と、ヤツに犯されている彼女を見るのが嫌でその場に蹲りきつく目を閉じた。ヤツの気味の悪い奇声と、真琴さんの悲痛の叫び声を聞くのが嫌で、両手で耳をふさいだ。
そうして心の中で、必死に何かに助けを求めていた――。
目の前にどさりと何かが落ちる音を聞いて前を見た。
「真琴さん!」彼女が目の前に横たわっていた。背中に酷い引っかき傷が無数に出来ていた。彼女の背中は悲惨だった。今出来た傷だけでなく、過去に出来たと思えるような赤黒いみみずばれのような傷が背中を埋め尽くしている。それだけではない、ただれた酷いやけどの跡も沢山あった。
それらはすべてヤツにつけられたものだと思って、浩二のヤツを睨み付けようと顔を上げた。その瞬間、顔面に何かが飛んできて、よけようと思ったときには、目の前に火花が散って後ろに吹っ飛ばされた。俺は後頭部と背中を思いっきり打ちつけ床に蹲った。意識が朦朧とし始めた俺をヤツは容赦なく蹴りつけてくる――。
殺され……。
よかった、生きてる……、と思った。ゆっくりと目を開けてみて、もう夜が明けていると思った。
全身のずきずきとした痛みを堪えながら身体を起こすと、目の前に真琴さんが全裸でうつ伏せに倒れていた。
まさか死んでるんじゃないかと思いながら、慌てて向こう側に向けている顔を覗きこんだ。彼女は息をしていてとりあえずほっとして、背中の傷の様子を確認しようと目を向けた。
背中の傷は、血は止まっているが目を逸らしたくなるような酷いものだった。
俺は彼女をその場から動かさず、毛布だけ掛けてあげると風呂場に行って血だらけの顔を洗った。鏡を見ると顔面はボコボコに腫れていたが、歯も鼻もとりあえず折れていないことにほっとすると、服を着替えて外に出た。
時刻は七時半だった。店はまだやっていないと思い、近くのサークルの仲間のアパートに向かった。仲間は俺の顔を見て物凄く心配してくれたが、俺は急いでいると言って、そいつから消毒薬などを借り真琴さんのところへ急いだ。
彼女のアパートに戻ると、彼女は起き上がってタバコをふかしていた。服はまだ身につけていない。
俺は彼女の後ろに回り背中の手当てを始めた。
「痛い?」
「…………」
「大丈夫?」
「…………」
背中の手当てを終えると、彼女にTシャツを着せてあげた。彼女はTシャツを着る順番が決まっていた。今日は水色にサーフボードのプリントが入ったTシャツのはずだったので、俺はそれを着せて、ショーツもはかせた。
そして、真琴さんの表情を伺った。
ハッと息を呑んでしまった――。
彼女の目はうつろで、焦点が定まらないといった感じだった。初めて会ったときのほうがまだ生きた目をしていたと思った。今は全く生気が感じられない。
「あ、あの……、ごめん……、俺……、助けてあげられなくて……」
彼女は無表情のまま、ぼんやりと次のタバコに火をつけた――。
ショックだった。ようやく彼女の心に手が届きそうだと思ったのに、振り出しどころではない、もっと遠くへ行ってしまったような気がした。
とぼとぼと歩きながら、薬を返しに仲間のアパートへ行き、その後食べ物を買おうと思ったが、バイト先のコンビニへ行くと顔の傷のことをあれこれ聞かれそうで嫌だったので、少し遠出をして牛丼屋で牛丼を二つテイクアウトして彼女のアパートへ向かった。
(とりあえず、ツーリングはお預けだな……)
それにしても――と思った。昨日の男は確かに浩二さんだった。敦司さんはなぜ嘘をついたのか――、それが知りたかった。嫌、問い詰めて必ず聞き出そうと思った。
彼女のアパートの前に出てハッとした。
彼女のバイクがなかった。
彼女の仕事先のビルの裏に着くと、彼女のバイクがあった。俺は急いで階段を上がり、個室ビデオ屋のドアを思いっきり引いて中へ駆け込んだ。
彼女が座っているカウンターの前に立ち、肩で息をしながら彼女の顔を見ると、彼女はゆっくりと立ち上がって、個室に向かった。そして、個室のドアを開けて待っている。
「い、いや……、俺、客じゃないから……」
そういうと彼女は黙ってカウンターに戻って腰掛けると、タバコに火をつけた。なんだか、俺のことを忘れてしまったような感じがして、物凄く悲しくなってきた。
「あの、俺、光二――。分かるでしょ?」
彼女の目はぼんやりと見つめ返してくるだけだった。
(マジかよお……)
「おい、光二」敦司さんが事務室の入り口から手招きしていた。
俺はむっとしながら事務室へ向かった。
「敦司さん! どういうことっスか!」入ると俺はいきなり怒鳴った。
「まあ、座れよ」敦司さんは眉毛をたれ下げて言った。
俺がむっとしながらソファーに座ると、敦司さんも反対側に腰掛けた。俺は、彼を睨みつけながら彼の言葉を待っていた。
敦司さんはゆっくりとサングラスを外した。敦司さんの目は凄いたれ目で優しそうだった。俺はあまりにも意外な彼の素顔に唖然としてしまった。
「あいつ来たみてえだな……」敦司さんはぼそりと言った。
俺は彼の素顔を見てから、怒りが少し収まっていてしまった。
「ん?」敦司さんは俺にどうした? と言うような表情を見せた。
「あ、あの……、死んだんじゃなかったんですか?」
「ん?」敦司さんは不思議そうな顔をした。
「浩二さんですよ! 昨日来たんですよ、なんで嘘ついたんですか」
「浩二は死んだよ。嘘はついてねえ」
「まだそんなこと……」
「おめえが昨日見たヤツは、浩二の双子の兄貴だ」
「双子?」名前は浩一だと敦司さんは教えてくれた。
(そういえば、肩に刺青がなかった……)
「もう……、ほんとのこと、教えてくださいよ……」
「そんなにされても、まだ真琴に気があるのか?」
「決まってるじゃないですか!」
「そんなもんで済んだから、いいようなもんだと俺は思うけどな」
「そんなもんって……、こんなにされてるのにですか?」俺は体中の傷を見せて敦司さんに言った。
「生きてるじゃねえか」
「…………」
「あいつの場合は、逆に殺されちまったけどな……」
「殺された?」
「…………」
「誰が殺されたって言うんですか?」
「…………」
「敦司さん!」
「……、浩二だよ……」敦司さんはそう言って大きく溜息をついた。俺は、暫く絶句した――。
「あの……、浩二さんがあの浩一ってヤツに殺されたって言うんですか?」
「ああ……」敦司さんは俯いて答えた。
「でも、あいついるじゃないですか? なんで? 警察は?」
「証拠がないんだよ……、でも、それしか考えられねえ……」
「いいか、昨日の事だって、警察に訴えたって、多分あいつは捕まらないぜ。真琴はあんな調子で、お前、警察に証言させられる自身あっか? 真琴が警察に訴えると思うか?」
確かに、真琴さんは乱暴されたことを警察どころか、誰にも話すことはないだろうと思ったし、話させるのも難しいと思った。
「それに、万が一ヤツが捕まったとしても、婦女暴行や傷害程度じゃ意味ねえんだよ」
「どういうことっスか?」
「死刑か無期懲役でも食らってくれなきゃ、ヤツはまた必ず真琴のところに現れる。そういうヤツなんだよ」
「じゃあ! 真琴さんを見捨てろって言うんですか?」
「そんなこと言ってねえ……」
「えっ?」
「あいつは今のままでも、十分幸せなんだよ」
「そんな馬鹿な」
「あいつは今に生きてねえんだ」
「えっ?」
「あいつの寝顔……、見たことねえのか?」
(要するに……、現実逃避してるってことか?)
「なあ、光二」
俺は顔を上げて敦司さんを見た。敦司さんは寂しそうな目をしている。
「もう、あいつにちょっかいだすな……」
「でも……、俺は……」鼻の奥がツンとして話せなくなった。
「お前の気持ちも分かるけどな、どうにもなんねえこともあるんだよ。あいつと深く付き合っても、ぜってーいいことなんてねえ。お前にとっても、真琴にとってもな」
悔しさが胸の奥からこみ上げてきた。本当にどうにもならないのだろうか――。あいつが現れる直前までは、真琴さんは本当にツーリングに行くのを楽しみにしていた。真琴さんは本当は、現実を捨ててなんていないと思った。
「俺……、諦めない……」
「光二……」
「お願いします! 教えてください! 俺、彼女のことなら何でもします! お願いします! 教えてください!」
「…………」
「あいつは、捨て子だったそうだ……」
俺が土下座までして訴え始めたのを見て、敦司さんは見かねたように話し出した。
「浩二があいつを連れてきたのは、あいつが十八になる日のクリスマスイブの夜だったよ。路地裏でアコースティック一本でストリートやってるとこを浩二が見つけて連れてきた。いいもん拾ったとかいうから、見たら小汚い娘でよ、なんかくせえし、俺は直ぐに捨てて来いって怒鳴ったんだよ。そしたら、こんな金の卵捨てられるかって言い返しやがってよ。俺はとにかく興味が沸かなかったから、好きにしろってそんときはほっといたんだけどよ――。そしたら、浩二のヤツ知り合いのスタイリストやら美容師の卵たちに頼んで、真琴のことぴかぴかに変身させちまってよ、驚いたぜ――。アヒルの子が白鳥になりましたって感じだったな……」
そこまでしんみりと話していた敦司さんの表情が少し和らいだ。そして、
「もっと、びっくりしたのはあいつの歌だ。お前もあん時の真琴の歌聴いたら、びっくりするぜ」と、目を輝かせて言った。
「聴きたいか?」
勿論俺は頷いた――。
敦司さんは机の引き出しから一枚のMDを取り出し、コンポにセットした。
スピーカーから流れ出る歌声を聞いて、俺は唖然とした。
俺が知っている真琴さんの声ではなかった。透き通って、伸びやかで、とてもハイトーンだ。
とても彼女が歌っているとは思えなかった。
クックック……と、敦司さんの笑い声が聞こえた。
「信じらんねえだろ」
俺は頷いた。
「俺もあいつの歌初めて聴いたときは、今のお前とおんなじで口あんぐりって感じだったぜ」
俺は苦笑いを返した。
「でも……、もう聴けねえけどな……」
確かに、この歌声を取り戻させる自信は沸いてこなかった。俺は切れた下唇を思わず噛んで、顔をしかめた。
敦司さんは大きく溜息をついて話を続けた。
「とにかく、そんとき俺たちは、多分お前が見たって言うバンドを解散した後でよ、面子探してたんだよ。だから、あいつの歌聴いたときは、ほんとに嬉しくてよ、直ぐに三人でやることに決まった」
敦司さんは立ち上がって、コーヒーを二つ持ってきた。俺は一つ受け取り、口の中がしみるのを我慢してそれを啜った。
「問題は、ギターだったんだ――。あいつはアコギしか弾いたことがなかったし、もともとあんまり上手くなかったから大変だったぜ、浩二が今あいつが使ってるムスタング買ってきてよ、俺が付きっ切りで色々教えてよ、あいつは浩二の言うことは素直に聞くくせに、俺がなんか言うと黙れハゲとか言いやがって……」そういいながら、敦司さんはスキンヘッドを撫でた。そして、話を続けた。
「そんでもってあいつ意外と短気なんだよ、んだからちょっと指摘すると直ぐむっとして口げんかになってよ、なんとかさまになるまで半年はかかったな……」と最後はぼやくように言った。
「羨ましいっス……」俺は呟いた。
「んっ?」
「真琴さんと話できて……」
(ぐっ!)鼻の奥がツンとしたのを奥歯を強く噛んで堪えた。
「昔の話だよ……」
「はい……」
「ようやく、バンドらしくなった頃だった……」敦司さんは少し間をおいて話し出した。
「俺の部屋で浩二と徹夜で曲作りして、朝、浩二が帰った後寝てたんだよ。そしたら、浩二から電話が掛かってきてよ、真琴が大変だから直ぐ来てくれって言われて、そん頃あいつら同棲してたからよ、で、急いでいったら真琴のやつベッドで手首切っててよ……」
俺はごくりと唾を飲み込んだ――。知りたかったことの一つだった。
「浩二も俺も、何がなんだか分からなくって、とにかく病院へ担ぎ込んだんだ――」
敦司さんはそこまで言って、タバコに火をつけた。そして、暫くタバコをふかしていた。俺はぼんやりと、彼の吐き出す煙を眺めながら、話の続きを待った。
「手首の傷はたいしたことはなかった。まあ、傷跡はしっかり残っちまってるがな。とにかく死ぬほどのことじゃなかったんだけど、理由がわからねえ……」そう言って敦司さんはタバコを揉み消した。
「浩二が訊いても、俺が訊いても、一切だんまりでよ……。なんとなく浩二のことが関係ありそうな感じがしたんで、ヤツがいねえときに浩二にはぜってーいわねえからって言っても、頑として口をわらねえ……」
「浩二も暫くそっとしとけって言うからよ、仕方ねえからそん通りにしてたんだよ、でも、いつまでたっても元気でねえし、なんだか練習にも身がはいんねえみたいでよ――」そこまで言って敦司さんはコーヒーを啜った。
「浩二はよ、バンドとそれ以外のことをきっちり分けるヤツなんだよ。ほんと、バンド馬鹿でよ――。だから、真琴だからって甘いことなんていわねえヤツなんだけど、それでも暫くは我慢してたんだよ……、でも、さすがに訳も言わずにいつまでも気のねえ演奏してる真琴に、ついにぶちきれちまったんだよ……。いきなり演奏止めて、やる気がねえならやめちまえ! って怒鳴ってよ……」
俺は唾を飲み込んで、「それで真琴さんは?」と訊いた。
「大泣きだよ……」
「浩二はとにかくバンドに関することには鬼なんだよ。泣こうがわめこうが関係ねえ……。バンドやってるときと、やってねえときが違いすぎるんだよ……」敦司さんは大きく溜息をついた――。
「浩二が真琴のことつまみ出そうとするのを何とか止めてよ、真琴にとにかく訳を話せって言ったんだよ。そんでもって、ようやく口を割りやがった……」
「何だったんです?」
「浩二を裏切ったって言うんだよ……」
「浩二さんを?」
敦司さんは頷いた。
「手首を切った夜によ、ベッドに誰か潜り込んできたんだけど、てっきり浩二だと思ったんだと、とにかくあんまりにも浩二そっくりだったんで、そう思っちまって……」
「まさか!」
「そういうことだ……」
俺はまた、切れた下唇を噛んで顔をしかめた。
「直ぐになんか変だって思って、ふと肩に刺青がねえってことに気がついたときには、直ぐにでも舌噛んで死のうと思ったって……、でも、あいつにぶん殴られて意識が朦朧としちまって、そのままやられたらしい……」
「俺も、そん時は浩一の存在なんて知らなかったから、よく分からなかったんだよ。でも、浩二はそこまで聞いて納得したみたいでよ、俺らに浩一のこと教えてくれた――。そんでもって、真琴に土下座して謝ってたよ……」
「何で浩二さんは双子の兄弟がいたこと、教えとかなっかったんですかね?」
「浩一はほんとにとんでもねえヤツでな、何度も少年院に入ったり、真琴と知り合ったときは刑務所に入ってたんだ。そんな兄弟のことなかなか話せねえだろ?」
確かに――、と思って頷いた。
「でも、あいつにやられたことなんて事故みたいなもんじゃないですか……」
「確かになあ……」そう呟いて敦司さんはまたタバコに火をつけた。そして暫く話し出さなかった――。
「あいつが、捨て子だったって言ったよな?」
俺は頷いた。
「中学卒業して面倒見てもらってたとこ飛び出すまでは、虐待やらいじめやらで、とにかくガキの頃は悲惨だったらしい……。だから、すげえ人間不信に陥ってたみたいでよ……。でも浩二だけはなんだか信用できそうだって、最初声掛けられたときはそう思ったんだと……。俺が思うに――、浩二もあの馬鹿兄貴のせいで相当迷惑掛けられっぱなしだったみたいでよ、双子だからよ、間違われるじゃん、馬鹿のほうに……、だから、悲惨なもん持ち合ってる同士でピントがあったんじゃないかと思うんだよ……」
俺が頷くと、敦司さんは話を続けた。
「だからな、真琴にとっては、この世の中で信用できる人間は、浩二ただ一人だったんだよ――、もちろん浩二もそれに応えてた。本当に二人は……、本当に羨ましいくらい……」敦司さんはそう言ってタバコをぐいぐいと灰皿に押し付けて消した。
「浩一にやられたことで、手首を切ったんじゃねえんだ」
「えっ?」
「浩二は真琴に夢を与えてくれた人間なんだよ、浩二のおかげで生きてく希望みたいなものを初めて持てたって――、だからな――、一瞬でも別人を浩二と思ってしまったことが、真琴にとっては許されねえことだったんだ」
「そんな――」
「とにかく衝動的だったとは思うんだけどよ、そんな大切な人間を見間違うなんて、そんな自分が許せなくなっちまって、気がついたときには手首を切ってたそうだ――」
許せなかった。本当に浩一のことが許せなかった。なんであんなヤツが平気で生きていられるのか、理解できなかった――。
「裏切られたなんて、少しも思ってないって、浩二が真琴に必死に話してよ、そんでとりあえず一件落着って感じだったんだけど……」
「感じ?」
敦司さんは頷いた。
「俺も馬鹿だった――。真琴のほうばっかりに気をとられちまってて……、本当に馬鹿だった――」
敦司さんは、握った手をわなわなと震わせていた――。
そして、優しいたれ目が釣りあがり、俺のほうに顔を向けた。
俺は、唾をごくりと飲んだ――。
「お前だって、許せねえだろ?」敦司さんは怒りを押し殺すような口調で言った。
俺は黙って頷いた。
「真琴に気があるなら、黙ってられねえよな?」
確かに、直ぐにでもぶっ殺してやりたかった――。そう思ってハッとした。
そんな俺の顔を見て、敦司さんは頷いた。
「それから二日たってよ、今度は真琴が俺んとこきて、浩二に捨てられたって大泣きしだしてよ――。そんなわけねえだろって言ったら、昨日の朝、起きたら浩二がいなくって、それから帰ってこねえって言うんだよ――、電話してもつながらねえし、で、あっ! と思ってよ――」そう言って敦司さんは舌打ちした。
「浩一に仕返しに行って、そんでもって浩二の身になんかあったんだろうって直ぐに想像した。でも、浩一がどこにいるかわかんねえし、捜索願いだす前に実家に電話してみたんだよ――。浩一の野郎はよ、声まで浩二そっくりなんだよ、まあ当然かもしんねえけど……。だから電話に出たヤツが、浩二だと思って話し出したら実は浩一の野郎でよ――」
敦司さんは俺に真剣な表情を見せた。
「浩一の野郎……、なんて言ったと思う?」
俺は首をかしげて見せた。
「あの野郎……、浩二なんて知らねえなって言って、そんでもって、どっかの山奥にでも捨てられてんじゃねえの? とか言ってガチャリと切りやがってよ……」
俺は唾をごくりと飲んだ――。
「とにかく、あいつの親を捕まえて、捜索願いだしてもらってよ……、そんでも全然見つからねえし、その間真琴はどん底まで落ち込んでいくし……、もうボロボロだったよ……」
「そんなに悲惨だったんですか?」
「俺的には、今のがまだましだと思う――」
(今より悲惨なんて……)そんなのありえないと俺は思った。
「四六時中、酒とタバコやりながら、ビービー泣いてよ、結局……、声……、潰しちまいやがった……」そう呟くように言って、敦司さんは顔を背けてサングラスを掛けた。小さく肩が震えている。
俺も胸が苦しくなって、俯いた――。
あの透き通った綺麗な歌声が、あの素敵な眩しい笑顔が、すべてが全部、ヤツに奪われたかと思うと、悔しくて悔しくて、本当にあいつが許せなくなった――。
「もう歌えない……、浩二もいない……、もう、あたしには何にもない……」
俺は顔を上げた。
「ガラガラの声で真琴が俺に聞かせてくれた、最後の言葉だ」