―3―
翌朝、俺は真琴さんより先に目を覚ました。まだぼうっとした頭でトイレを済まし、喉の渇きを何とかしようと思いながら部屋の中を見渡すと、冷蔵庫がないことに気がつき、驚いて一気に目が覚めた。
仕方なくカルキ臭い水道の水で口を濯いでうがいをすると、ぼんやりとテレビを見ながら、彼女が目を覚ますのを待っていた。
彼女は十一時頃むっくりと起き上がると、トイレに入ってその後風呂場に入っていった。
暇を持て余していた俺は、風呂場のドアに耳を近づけ中の様子を伺った。
シャワーの音が聞こえる。
なんとなく覗いてみたくなってドアに手をかけると、鍵が掛かっていて開かなかった。
心の中で舌打ちし、また耳を近づけ中の様子を伺う。
暫くして、歯磨きする音が聞こえてくると、もう直ぐ彼女が出てくるような気がして直ぐにその場を離れ、昨晩と同じように流し台を背にして座り、彼女が出てくるのを待った。
真琴さんは、Tシャツとパンティーを着替えて出てきた。そして、昨晩と同じようにベッドを背にして座ると、タバコをぼんやりとふかし始める。起きてから、まるで俺の存在など気にするそぶりを見せない。
「真琴さん、今日はどうするんですか?」
「…………」
全く今までの彼女と変わらない。なんだか、物凄い寂しさを感じた。
真琴さんはタバコを吸い終わると、立ち上がってジーパンをはいた。そして、ポケットにタバコとジッポライターと免許証入れ、それからテーブルの上に置いてあった金をねじ込むと、ヘルメットとバイクの鍵を持って玄関に向かった。
「どこ行くんですか?」
彼女は無言で部屋を出て行った。
外で、バイクのエンジンを掛ける音が聞こえる。
そして、走り去っていくバイクの音が聞こえた。
その日から一週間、俺は彼女のアパートに泊まりこんだ。
彼女の行動を観察するためだ。
彼女の行動パターンは水曜日を除いて全く一緒だった。
午前十一時頃起きて出かけると、深夜の一時過ぎまで帰ってこない。
帰ってくると、テレビをつけビデオを巻き戻し、テレビ台の中に並べてある次のビデオを、ウォッカを飲みながら観る。
ビデオの順番は、チャー、クラプトン、クイーン、ラリーカールトン、そしてジェフベック。それを順番に観ているようだ。
俺が意地悪して、ビデオの順番を入れ替えておくと、彼女はビデオを取ろうとする手を止め、並べなおした。
水曜日は、起きてからタバコをふかすところまでは同じで、その後洗濯機を回したままどこかへ出かける。歩いて行ったようなので不思議に思っていると、俺がバイトをしているコンビニエンスストアーの袋を持って帰ってきた。
買ってきたものは牛丼とウーロン茶だった。それを黙って食べ終えると、洗濯物を部屋干して外へ出て行った。どこかへ出かけたのかと思っていたら、外でバイクを洗っていた。
バイクを洗い終えると、部屋に戻ってタバコを一本吸い今度はバイクでどこかへ出かけた。
夜の九時半頃バイト先から直接真琴さんの部屋に帰ってくると、彼女はいつもの場所に座りギターを弾いていた。俺は彼女が弾いているエレキギターの生音を聞きながら、バイト先から買ってきた牛丼を食べた。
「そろそろ、練習に行かないんですか?」十時を過ぎたところで俺は真琴さんに声を掛けた。すると、彼女は黙ってギターをケースにしまうと、一人で部屋を出て行った。俺はおんぼろスクーターで彼女を追ってクラブハウスへ向かった。
練習が終わり、クラブハウス前の自動販売機の明かりの中にしゃがみ、ぼんやりと一人で缶コーヒーを飲みながら、彼女のことを考えていた。二人は既に帰ってしまっている。
彼女の部屋に寝泊りするようになって、一つだけ彼女が嫌いなことというか、嫌がることを知った。
彼女はセックスするときにTシャツを脱がない。
俺が無理やり脱がそうとすると、必死にそれを押さえつけて拒む。シャツの中に手を入れるのも嫌がる。
俺はいつも仕方なくシャツの上から彼女の胸を愛撫する。
多分、酷い傷跡でもあって、それを見られるのが嫌なんだろうと思った。
彼女に付き合っている男はいないようだ。かといって、俺が彼女の男になれたわけでもないような気がする。
なんとなく、彼女は誰とでも簡単に寝てしまいそうで嫌だった。自分のことは相当棚の上にあげてはいるが……。
それから暫く彼女の部屋に行くのはやめた。一緒にいても会話が出来ない以上彼女のことを知るすべがないような気がしたからだ。
今日は火曜日だった。学校から帰り、髪を切りにいこうと思って駅前のいつもの美容院へ行くことにした。
歩きながら、彼女のことを考えていた。
まだまだ彼女のことは分からない事だらけだった。とりあえず今一番知りたいことは、彼女が昼間どこに行っているのかということだった。多分、仕事に出かけているんだろうと思うが、それがどこだか知りたかった。
とにかく、話しが出来ないということが悩みの種だった。俺はそれを何とかできないかと考えながら、駅前の通りを歩いていた。
「山下君!」と突然声を掛けられてハッとした。見ると、同じ学科の美代子だった。
美代子は携帯電話会社のキャンペーンガールのコスチュームを着て、俺に向かって手を振っていた。ミニスカートから剥き出た太ももが目に飛び込んでくる。俺は思わず彼女に近づいていった。
「バイト?」と、俺が訊くと、「そう!」と、彼女は眩しい笑顔で嬉しそうに答えた。
なんだか久しぶりに女の声を聞いた感じがして、彼女の声がとても新鮮だった。
「ねえ山下君、どう? 新しい携帯買わない?」と美代子は俺に新機種の電話機を見せながら訊いた。
俺は、彼女の後ろの棚の、『新規0円』という張り紙を見ながら頷いた。
結局髪を切らずに真琴さんの部屋に来た。早く彼女が帰ってこないか待ち遠しくてしかたがなかった。
俺は機種変更した自分の携帯電話と、それと同じ機種の新規契約で買った携帯電話を並べて見ながら、彼女が帰ってくるのをわくわくしながら待っていた。
ようやく深夜一時近くになり、遠くから真琴さんのバイクの音が聞こえてきた。(来た!)心臓がバクバクと打ち始めた。
彼女は部屋に入ってくると、いつものようにビデオを再生し、いつもの場所に腰を下ろす。そして、いつものようにウォッカを一杯煽ったところで、俺は彼女に話しかけた。
「真琴さん、これ……」
彼女は俺が手渡そうとした、携帯電話を見ようともしない。
俺はむっとして、むりやり彼女に電話機を握らせた。
「これ、プレゼント」俺が電話機を指差して言うと、彼女はちらりとそれを見て直ぐにテーブルの上に置いた。
「なんで! もう! ちょっと、いいから持って!」俺はまた彼女に電話機を握らせた。
「携帯の使い方分かります?」
「…………」
俺は仕方なく、彼女に電話機の使い方を指導した。
「ねえ、メール打ってみてくださいよ」
「…………」
「さっきやったでしょ!」
「…………」
(どわあ! もう! なんでこんなんなのかなあ……)
俺は彼女があの低くてハスキーな声が、自分に似合わないと思って話さないんじゃないかと思っていた。だから、もしかしたらメールでなら話してくれるんじゃないかと期待していた――。でも……、駄目だった。
俺はふて腐れて、一人でベッドに横になった。
背中でラリーカールトンの演奏を聴きながら、俺はいつの間にか寝てしまっていた。
「真琴さん、これ」翌日彼女が出かけようとするところを捕まえて、彼女のお尻のポケットに携帯電話をねじ込んだ。
彼女は俺がそうするのを黙ってぼうっとした表情で見つめていた。俺は電話機を置いていかれるんじゃないかと不安になったが、彼女はそのまま出かけていったのでほっとした。
俺はそのまま彼女の部屋でぼんやりと、彼女がメールを出してきてくれないかと待っていた。 メールはいくつも来た。でも、彼女以外からだ。俺が学校を休むと、同じ学科の女たちのメールが大量に飛んでくる。
『光二どうしたの? 私心配……』とかそんなメールばかりだ。
また、メールが来た。どうせまた――、とか思いながら、送信者を見てハッとなった。
「うおお!」と思わず声を出してしまった。
題名は『無題』そして、本文が――、『コウジ、スキ』
「よっしゃー!」俺は立ち上がり、ガッツポーズをしていた。
そして、光二、好き……、という彼女のメールをずっと見つめているうちに、目頭が熱くなってきた。
嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、とにかく嬉しくて、本当に本当に嬉しくて――。
小躍りしながら喜んで、彼女に返信しようと思ったときだった。
また、メールを受信した。真琴さんからだった。
題名は『続き』、そして本文は、『ヤキ食べたい』
(ヤキ?)
ヤキと言うものがなんだか分からなかった。
やきそばを打ち損ねたのかと思って、彼女に質問のメールを出したが返事はなかなか返ってこなかった。
俺はいらいらしながら、彼女のメールを待っていた。我慢できなくなって彼女に電話を掛けたが彼女は出てくれない。
(あー、いらいらする!)
むしゃくしゃした気を和らげようと、彼女からの告白メールをもう一度見ようと思った。
『光二、好き』(むふふ……)『光二、好き』(ふふふ……)
『光二、好き』『ヤキ食べたい』(んっ?)
「…………」
「ふざけるな!」俺は携帯電話を放り投げた。
「なにが、すき焼き食べたいだ! 間際らしい。まったく、ふざけてる。変なとこで分けて出すな! つうの!」俺はテーブルの上の鉄なべを睨み付けながら独り言を言っていた。
彼女のメールを理解出来てから、暫くふて腐れていたが、それでも彼女が意思表示をしてくれたのが嬉しくなってきて、結局バイトを休んですき焼きの材料と、鉄なべと卓上カセットコンロと、なんと肉が腐ると嫌だったので、四十リットルの小さいけれど冷蔵庫まで買ってきて、彼女を待っていた。
真琴さんは六時過ぎにコンビニの袋をぶら下げて帰ってきた。
いつもの場所に座ると、コンビニの袋からカツ丼を出して食べようとしたので、俺は慌てた。
「ちょっと! なにしてんですか!」俺は慌てて彼女からカツ丼を奪った。
彼女は箸を握って、ぼうっと俺のほうを見つめてくる。
「真琴さんが、すき焼き食べたいって言ったんでしょ?」
「…………」
俺は彼女を無視して、すき焼きの準備を始めた。
「真琴さん、卵使います?」
真琴さんはぼうっとした目をゆっくりと一度閉じただけで何も答えない。
俺は溜息をついて器に卵を入れた。そして、なべの中から適当に取って彼女の前にその器を置いた。
「どうぞ」と彼女に言って、自分も食べ始めた。
横目で彼女の様子を見ていると、彼女は無言で箸を取って食べ始めた。
「真琴さん、長ネギ、嫌いなんですか」
「…………」
「真琴さん、肉好きなんですね?」
「…………」
(んっ?)
「真琴さん、長ネギ、嫌いですよね?」
(あっ!)
「真琴さん、肉、好きですよね?」
(おお!)やっと分かった――。
「えっと、真琴さんは女ですよね」
(よし!)
「じゃあ、真琴さんは男ですよね」
「…………」
(クククク……)俺は笑いを必死に堪えた。
ようやく彼女の意思表示の仕方が分かった。彼女は『YES』と答える代わりに、目をゆっくりと閉じる。『YES』ではない場合は目を閉じない。
それから俺は彼女に質問を畳み掛けた。そして、いろいろと彼女のことを知ることが出来た。
身長、スリーサイズ、靴のサイズ、血液型、そして誕生日まで俺の予想通りだった。
さらに、彼女には親も兄弟も親戚もいないということだった。
毎日どこへ出かけているのかは、質問の仕方が難しくて聞けなかった。でも、仕事に出かけているのは確かだった。
そして、一番重要なことを質問しようとした。
「真琴さん、彼氏いますか?」
俺は唾を飲んで彼女の目の動きに注目した。
彼女の瞼は、微妙に閉じかけた――。
(ぐっ!)俺は判断に苦しんだ。
(どっちなんだ?)
深呼吸して、質問を変えた。
「あの……、俺のこと……、好きですか?」
心臓がバクバクしていた。知らず知らずのうちに、彼女が目を閉じてくれるのを必死に願っていた。
彼女の瞼は、ヒクヒクとしてなかなか閉じない――。
(閉じろ!)心の中で叫んだが、結局彼女の瞼は閉じなかった。
俺はがっくりとうな垂れた。
(なんでえ……)食欲が急激に失せた。
「俺……、真琴さんのギター、好きです……」
「真琴さんは、俺のドラム……、好きですか?」
ごくりと唾を飲んで、横目で彼女の目を見つめた。
すると、彼女の目玉がこちらにゆっくりと向きを変えた。そして顔を動かして真っ直ぐに俺を見つめてくる。
俺も顔を動かして、彼女と見詰め合った。
暫くして、彼女の瞼がゆっくりと閉じた。
俺はつい笑みをこぼして、もう一度同じ質問をした。
今度は彼女の瞼が直ぐに閉じた。
とりあえず、今はそれだけで十分だった。それだけでも、十分食欲が復活した。
練習が終わり、先に帰った真琴さんを追って彼女の部屋に戻ってきた。彼女はいつものようにビデオを見ている。俺は直ぐに風呂場へ入ってシャワーを浴びて出てくると、真琴さんにシャワーを浴びるように言った。真琴さんは黙ってビデオを止めると、風呂場へ入っていく。俺は髪の毛の水気をタオルで拭き取り、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して喉を潤すと、彼女が風呂場から出てくるのをベッドの上で待っていた。
暫くして、彼女はTシャツだけ着て風呂場から出てきた。下はなにも身に着けていない。そして、俺の横に寝ると目を閉じた。
二度目から、いつもこういう感じで彼女は俺に抱かれる。
でも、結局今夜は彼女を抱くことが出来なかった。
俺のことが好きでもないのに抱かれていると知って、なんだかショックだったからだ。
横で眠っている彼女を見つめた。
眠っている彼女の表情はいつも楽しそうだ。
起きている彼女がこの表情をしてくれたら……。
そして、そんな彼女と声で会話が出来たら……。
彼女の寝顔をぼんやりと見つめながら、そう思った――。
身体を揺すられて飛び起きた。
部屋の中は真っ暗だ。横に誰かが立っていて思わず身を硬くしたが、直ぐに真琴さんだと思った。
「えっ? あの……、えっ?」
こんな彼女の行動は初めてだったので、俺は混乱していた。
すると、彼女は俺のヘルメットを押し付けてきた。
分けが分からずそれを受け取ると、彼女は玄関を出て行こうとする。俺は慌ててズボンをはいて彼女を追った。
外はまだ暗かった。でも、もうじき夜が明けそうだなと、直感的に思った。
真琴さんはバイクに跨って俺を待っているようだった。
「あの……、後ろに乗るんですか?」俺が自分を指差しながら彼女に訊くと、ヘルメットの中の彼女のぼんやりとした目は、ゆっくりと閉じた。
実は小便がしたかったが、なんとなく彼女が急いでいるような雰囲気だったので我慢して後ろに乗った。
後ろに乗ってつかまるところを探していると、彼女は俺の手を掴んで自分に巻きつかせた。
つい、反射的に彼女の胸を揉んで、にんまりとした途端、彼女は前輪を浮かせながらバイクを走らせた。
(どわああ!)思わず振り落とされそうになって、冷や汗をかいた。
どこへ行くのかと思っていたら、学坂を登り始めた。
それにしても彼女の運転はとんでもない。彼女がバイクを走らせてからずっと、歯を食いしばらずにはいられなかった。
学坂を登り始めてからがもっと凄かった。急な上りのカーブにもかかわらず、カウンターを当てなければ曲がれないほどのスピードで突っ込んでいく。
(ぎゃあああ!)カーブが迫るたびに心の中で叫びっぱなしだった。
(なんで!)からだが右に振られる。
(こんなに!)左に振られる。
(急いで!)また左に振られる。
(おしっこ!)今度は右に。
(ちびる、うぐ!)思いっきり歯を食いしばった。
大学の入り口が見えてほっとしたのもつかの間、彼女はその前を全開で通り過ぎ、その先の農道へ突っ込んでいった。
細くてでこぼこな農道で、尻を突き上げられるたびに、小便が漏れそうになって、必死に堪えた。
(お願い……、止めて……、漏れちゃう……、漏れるううう!)
意識が朦朧とし始めたところで、ようやく大学の上を走る県道に飛び出ると、直ぐ横の駐車スペースにタイヤをすべさせながら彼女はバイクを止めた。
「ひいいいいい!」俺はズボンのチャックを下ろしながら、駐車スペースの奥の柵に向かって走った。
(ほううう……)柵の間からナニを突き出し、配下に広がる茶畑に向かって我慢に我慢を重ねた小便を勢いよく放出した。
全身の力が抜けそうだった。はあっと大きく息を吐き、全身で開放感を味わいながら、ゆっくりと目を開けた。
遠くの水平線の上は明るさを増している。その左手には伊豆半島が青白く浮かんでいる。
眺めていると、水平線の一点が小さく光り輝いた。
日の出だ――、と俺は思った。
みるみる太陽が昇ってくる――。
東京の実家を出てここに住み始めてから見る、初めての景色だった。
(こんなにいいところがあったなんて……)俺は日の出に向かって小便の弧を描きながら、彼女からのプレゼントに感動していた。
(携帯のお礼かな? それとも、すき焼きかな?)
そう思いながら真琴さんの姿を探すと、右手の柵の上に彼女が腰掛けているのに気がついた。
彼女はそこで日の出を眺めているようだった。
彼女の顔に目を向けた。その途端、思わず小便を止めてしまった。
彼女は上ってくる太陽を見ながら微笑んでいた。
太陽の光に照らされて白く輝いている彼女の笑顔に、俺はまるで天使でも見ているかのような気分になった。
(うそ! うおお! やった!)
心を躍らせて彼女の笑顔を見ていると、彼女がゆっくりとその微笑んだ顔をこちらに向けてくる。
正面でその笑顔を見られる瞬間を、俺は固唾を呑んで待ち望んだ。
そして、その笑顔が正面に向けられた途端、彼女の視線は俺の股間に向けられ、天使の微笑みは引きつった笑みに変わった。
「あっ!」俺は慌ててからだの向きを変え、残りの小便を必死に放出した。
ちらりと、横目で彼女の様子を伺うと、彼女は柵から降りていて、しゃがんでいつもの無表情な顔でタバコに火をつけていた。
(ちっ! なんだよ! 別に初めて見るもんじゃないだろ!
しゃぶった事だってあるくせに……。
すいませんね! 雰囲気こわしちゃって!)
俺はふて腐れながら、小便を終えた。
でも、直ぐに嬉しさがこみ上げてきた。
彼女の好きな場所を一つ知ることが出来て、本当に嬉しかった。
俺は水平線に向かい、朝のすがすがしい空気を、肺一杯に吸い込んだ――。
帰りは行きなんか目じゃないくらいの恐ろしさだった。
行きはまだ小便のことで頭が一杯で気が散っていただけだと思った。
「ぎゃあああ!」ガードレールが物凄い勢いで迫ってくるたびに、我慢できずに絶叫していた。
やっと彼女のアパートに着いてバイクを降りると、膝が笑ってしまって暫くあるけなかった。 そんな俺を彼女は無視して部屋の中へ入っていく。
「なんだよつめてえなあ、くそう……。お前知ってんのかよ、茶畑にでも突っ込んで駄目にしたら、ああ? いくら請求されると思ってんだよ、こら! ちくしょお!」
俺はもう二度と彼女の後ろには乗らないと誓いながら、おぼつかない足取りで部屋に向かった。
部屋に入ると彼女はベッドで二度寝していた。また、あの可愛い寝顔を見せている。
俺はベッドに方杖をついて間近で彼女の寝顔を見つめた――。
「もう……、なんで寝ているあなたはそんなに可愛いの?」
「はああ――」俺はベッドに背中を付けて座り、大きく溜息をついた。そして、日の出を眺めながら見せてくれた、彼女の笑顔を思い出していた。
俺はそれを見て、彼女にはちゃんと心があると確信した。
初めて会ってから暫くは、あの無表情な彼女に人形のような冷たさを感じることが多かったが、一気に考えが改まった。
本当の彼女を知りたい。
きっと、こうなってしまった理由があるはずだ。
取り戻してみせる。
絶対に取り戻してみせる。
そして俺のことを絶対に好きにさせてみせる。
十一時過ぎ彼女は目を覚ますと、いつものようにシャワーを浴びTシャツとショーツを着替えタバコを一本ふかす。
そして、出かけようとする彼女を俺は追った。
彼女がバイクに跨るとすかさず俺は彼女の後ろに乗った。
彼女が振り向いて無表情な顔を見せると、俺は笑みを見せて返した。
前輪を浮かせて走り出すと、俺は振り落とされないように彼女に必死にしがみついた。
彼女はバイパス道路を西に向かった。
こんな時間なので交通量も多いし信号もあるためか、暫く彼女の運転は大人しかったが、信号が暫くないところに出ると、そこからがまた凄かった。
大型トレーラーが並んで走っている僅かな隙間を、全く減速することなくとんでもないスピードで突っ込んでいく。
もう、勘弁してくれと何度も心の中で叫んでいた。
朝、二度と彼女の後ろに乗るのはやめようと思ったが、彼女がどんなところで働いているのか知るためには、これしか方法がないと思った。
もう、これが最後だと呟きながら、必死に彼女の細い身体にしがみついていた。
俺たちが住んでいるところの最寄駅から、二駅隣の駅近くにある古びた小汚いビルの裏に彼女はバイクを止めた。
降りるとまた膝が笑っていたが、彼女を見失わないように必死に後についていった。
彼女はバイクを止めたビルの裏口から入り階段を上がっていく、そして二階に出ると直ぐ横のドアを開けて中に入っていった。
彼女が入ったドアの前に立つと、そこは個室ビデオ屋の入り口だった。
こんなところで何を? と思いながらドアを開けたが、彼女の姿は見えなかった。
首を突っ込んで中を見渡しても彼女の姿は見えない。
正面のカウンターの奥に、扉が開いたままの部屋が見える。
仕方なく、俺はゆっくりと中に入り、その部屋を覗いてみることにした。
扉に近づくと、彼女がソファーに座って食事をしている姿が見えた。よく見ると、食べているのは牛丼だった。
恐る恐る部屋の中を覗いて驚いた。あの頭は間違いない。
「敦司さん!」
部屋の奥の机に向かっていた敦司さんがこちらに振り向いた。眉毛の動きで彼が驚いているのが分かった。
「敦司さん! 何やってんですか?」
「あん?」敦司さんは今度は不思議そうな感じに眉毛を下げて、俺に部屋に入るように言った。
俺は部屋の中に入ると、真琴さんの隣に座った。
「ここは俺の店だよ」
「マジっスか?」
「まあ、正確にはウチのかみさんのもんだけどな」
「はあ、そうなんですか」
「で、何やってんの?」
俺は返答に困ってしまった。
「いや……、たまたま、あの……」
「何がたまたまだよ、あん?」
もう、開き直るしかなかった。
「あの、真琴さん、ここで何やってんですか?」
「関係ねえよ、お前には」
「なんでですか! おんなじバンドのメンバーじゃないですか! 知りたいんスよ、いいじゃないスか知ったって」
俺が興奮して言うと、真琴さんは牛丼を食べ終えて立ち上がった。そして部屋を出ていく。
俺は彼女が気になって腰を上げようとした。でも敦司さんに声をかけられ、仕方なく彼の方を見た。
「お前の周りにはよ、いっぱいいるじゃねえか、もっと普通でピチピチの可愛い女どもが――。それでいいじゃねえか。何が不満なわけ? なんであいつなわけ?」
「真琴さんだって可愛いスよ」
「はあ? お前めんたま腐ってんじゃないの?」
俺はむっとして答えなかった。
「あれどうしたよ、マキだっけ? お前狙ってたろ? あっちのがムチムチでボインボインで全然いいじゃねえか。あんな無表情の能面女よりよっぽどましだろ?」
「なんでなんですか? 俺は普通に真琴さんと付き合いたいだけなんですよ」
「普通になんか付き合えねえよ」敦司さんは呆れたような口調で言った。
「そんなのわかんないじゃないですか」
「わかんの」
「そんなの……、とにかく理由も分からずに諦められないッスよ!」
「お前が手におえるようなヤツじゃないの」
「だから、なにがですか!」
敦司さんは眉毛を思いっきり下げて溜息をついた。俺は下唇を噛み、敦司さんを少しにらみながら彼の言葉を待った。
「とりつかれてんだよ」
「はあ? たたられたりしますか?」俺は鼻で笑いながら訊いた。
「そんなんで済めばいいけどな」敦司さんはしんみりとした口調で言った。
「馬鹿らしい……」俺はそう言って立ち上がった。
「とにかく、ケガしないうちにあいつの傍にいるのはやめたほうがいい」と敦司さんが凄く真面目な口調で言ったので、俺は彼の顔を見た。
「俺はマジで忠告してるんだからな。そのカッコいいイケメンがぐちゃぐちゃにならないように、あんまりあいつの傍にはいないほうがいい」
そう言うと敦司さんは机に向かい、その上のパソコンを操作し始めた。
(自分はどうなんだ)と俺は言いたかった。
自分は毎日彼女の傍にいるくせに、何を言っているんだと俺は思った。正直言って彼女を自分の店に囲っている敦司さんに嫉妬したし、ひょっとして彼女が俺にとられるのが嫌でそんなことを言っているんだろうとも思った。
(奥さんがいて、子供も生まれるって言うのに。真琴さんを独り占めにしようなんて冗談じゃない)
俺は黙って部屋を出て、店の受付カウンターの中に座っている彼女の隣に座った。
客なんて全く来そうになかった。正直、いまどきこんな店がやっていけるとは思えなかった。
「暇ですね」隣でタバコをふかしている真琴さんに言ってみたが、彼女は目で頷かず、カウンターの下の機械のスイッチを入れた。すると、店の中に黒人系女性のソウルフルな歌声が、静かに流れ始めた――。
「いつもこんな感じなんですか?」
彼女は目を閉じた。
その後いくつか質問をしてみると、客は多いときで一日に十人くらいらしい。でも、全く来ない日が殆どらしかった。俺としてはこんなところに客が来るほうが驚きだった。
あまりにも暇なので、個室を除いてみた。三畳ほどの個室の中にテレビとビデオデッキがあり、一人掛けのソファーが置いてある。ソファーの後ろの棚に、ビデオやDVDのソフトが並んでいた。その殆どがアダルトものだった。
椅子からずり落ちそうになり、目を覚ました。居眠りしていたらしかった。隣を見ると、真琴さんはぼんやりとタバコをふかしている。俺はほっとして、よだれを拭って立ち上がると、腰を伸ばした。携帯電話で時刻を確認すると、午後の六時を過ぎていた。
彼女がいつも帰ってくる時間を考えると、まだまだ先は長そうだった。俺は溜息をついて座りなおした。すると、敦司さんの呼ぶ声が聞こえて振り向いた。
「お前、カツ丼でいいか?」
「へっ?」
「晩飯だよ。それとも帰るか?」
「いや、いただきます。いいですカツ丼で」
事務室のソファーで真琴さんとならんでカツ丼を食べていた。正面では敦司さんも同じものを食べている。
「あの――」敦司さんに向かって声を掛けた。
「ん?」敦司さんは不思議そうに眉毛を動かして見せる。
「こんなんで、やっていけるんですか?」
「別にこれだけで食ってるって分けじゃないから」
「はあ……」
「他にラブホを三つ持ってる。そっちがメインだな。まあ、それもかみさんのもんだけどな」敦司さんはそう言ってにやりとすると、食事を続けた。
(ぐおお!)立ち上がって思いっきり伸びをした。時刻は午後十時、帰るまでまだ暫くある。今日はまだ一人も客がこない。正直言ってもう帰りたかった。真琴さんと話をしたくても、こちらが一方的に質問するだけで彼女の声を聞くことは出来ないし、心配していた仕事も、人と話をしない彼女にとっては、この仕事はうってつけのような気がした。
それにしても何が楽しくて毎日生きているのか――。
こうやって一日中座って有線放送を聴き、たまに来る客の相手をして、帰るとビデオを見ながらウォッカを引っ掛けて寝るだけだ。
(ううむ――)腕組みをして考え込んでいると、客が一人入ってきた。入ってきた男を見て三十歳は超えていると思った。ぼさぼさの髪型で、無精ひげを生やしている。
「いらっしゃいませ!」つい、自分のバイトの感覚で挨拶してしまった。俺に挨拶された男は驚いて一瞬立ち止まると、俺のことを気にしている様子で、おどおどしながら真琴さんの前に立った。
男は俺のことをちらちらと伺いながら、真琴さんの前に三万円を置いた。
(えっ?)個室は一時間千円で借りられる。なのになぜ三万もと思っていると、男は握った手の人差し指と中指の間から親指を出して真琴さんに見せた。
真琴さんはぼんやりとその手を見ているだけだ。俺はなんだかよく分からなくて、黙って見ていた。すると、男はさらに一万円を置いてまたあの手を見せる。それでも真琴さんの様子は変わらない。
男は溜息をついて、更に一万円をテーブルの上に置いてまたあの手を見せた。
すると、真琴さんはテーブルの上の金を鷲掴みにしてポケットに入れると、すくっと立ち上がって個室に向かっていった。男はやれやれというような表情で、彼女についていく。
二人は個室の中に入っていった――。
なんだか物凄く嫌な予感がした。まさか、まさかと思いながら二人が入った個室のドアに耳を近づけた。
ごくりと唾を飲んだ――。身体が震えているのに気がついた――。
彼女は、売春していた――。
「そんなことくらいでショック受けてたら、あいつと付き合えねえぜ」敦司さんの声にハッとした。気がついたら、事務室のソファーに座っていた。
「なんで!」張り上げた声は裏声ってしまい、俺は唾を飲んだ。
「やめさせてくださいよ!」
「しらねえよ、あいつが勝手にやってることだ」敦司さんは机のパソコンを操作しながら言った。
(冗談じゃねえ……。冗談じゃねえぞ!)俺はぐっと奥歯を噛み締めた。
ようやく分かった――。真琴さんは帰るとポケットの中身を全部テーブルの上に出す。たまに大金をテーブルの上に置くのを見て、俺はそれは給料だと思っていたがそうじゃない。なぜなら、二日ほど続けてそういうことがあったからだ。だから心配だった。彼女がどんな仕事をしているのかずっと知りたかった。なんとなく予感はしていたが、まさか身体を売っていたなんて……。
個室から二人が出てくる様子がした。部屋の外を見ると、あの男が満足そうな表情をして帰っていく。俺は、自分と彼女のヘルメットを掴むと立ち上がった。
「おい! 光二!」
俺は敦司さんの声を無視して部屋を出ると、真琴さんの腕を掴んで店を出た。
ビルの裏口を出ると、ヘルメットを彼女の頭にねじ込んで自分のヘルメットを被ると、彼女のポケットからバイクの鍵を取り出した。そして、彼女のバイクに跨る。
「真琴さん乗って!」
真琴さんはぼうっと立っている。
「早く乗って!」彼女の腕を引いて強く言うと、彼女はゆっくりと俺の後ろに跨り、俺にしがみついた。
途中数回エンストしながらようやく彼女の部屋に帰ってきた。
部屋に入ると、彼女はいつもの行動をとる。俺は先にシャワーを浴びて、それから彼女にもシャワーを浴びさせた。
その後、直ぐに彼女を抱いた。何度も、何度も――。
部屋の中が少し明るくなってきた。俺は彼女の目を見つめて言った。
「もう、俺意外としないで……。金は俺が何とかするから……」
彼女はゆっくりと目を閉じてくれた。嬉しかった。ほっとして、ようやく眠りに就くことが出来た。