彼岸
「またここにいるのね」
「うん?」
振り返ると、いつぞやの女性が立っていた。あのときと寸分違わぬ格好で、あのときと同じようにパーカーのポケットに両手を突っ込んでいる。
「ああ、まあね。ここからはあっちがよく見えるから」
河の向こう側を示す。河幅がやたらめったら広い河だ。彼はその河岸の堤防に座っていたのだが、誰が作ったのか知らないがこの河が氾濫することなどあるのだろうか。
女性はふんと鼻を鳴らした。
「下らない、って思う?」
「ええ。下らない、どうしようもなく下らないわ。あなたのそれは、ただの感傷よ」
「いやあ、はは、ばっさりだね」
彼は苦笑した。それから隣に座るかと示したが、女性は緩く首を振り、彼の斜め後方をキープする。
「にしても、向こうに感傷があるならどうして向こうに行かないの? 今日は年に一度の日でしょう」
「いやはは、それは、何というかさ」
彼は苦笑して頬を掻いた。
「あっちにはもう俺の居場所なんてどこにもないわけでさ。だから………まあそれだけでもないんだけど。俺はここから眺めてるだけで十分」
「そう………エゴイスティックね」
「なはは、ごもっとも」
でも、と女性は続けた。
「うん?」
「でも、わからなくもないわ」
「そう?」
「ええ。わたしも偶に思うもの」
そりゃ意外、と驚いて見せると、偶によ偶にと言いながらも女性は皮肉な笑みを浮かべた。
「思い残すことのないように気をつけてたのに………やっぱり上手くいかないものね」
「思い残して来ちゃったの?」
「まあね。友達と、約束してたのよ。でも、その約束を果たす前にこっちに来ちゃった」
ふっ、と笑って、女性は首を振った。
「ま、あっちが約束を覚えてたかどうかは今となっちゃあもうわからんけどね」
「ちなみに、何て約束だったのかは聞いてもいい?」
「学生の最後にした約束なんだけど………笑うなよ」
笑わない笑わない、と頷く彼を軽く睨んでから、やや声を小さく、
「………お互いに、相手よりも長生きして、相手よりも幸せになってやる、っていう約束」
「へえ」
女性は彼の方を見る。彼はあらぬ方向を向いている。
「おい」
「や、笑ってないよ」
「ならこっちを向け」
「いや、だから笑ってないって………ふ」
「おいこら」
「でも、いい約束だね」
こっちを向いて微笑んだ彼に対し、今度は彼女が目を逸らした。
「………ま、果たせなかったんだけどね」
「んあー、そっか」
んむう、と彼は首を傾げた。
「戻りたい………とか、思う?」
「思わないわ」
即答し、肩をすくめて見せた。
「早いか遅いかの違いだもの。私はちょっと早かったってだけ。どの道こうなっていた………まあ、正直言えば、もう少しだったと思えば、なんだし、あいつに負けたってのも結構癪ではあるけどね。戻ろうとは思わない」
言いながら、軽く肩をすくめてみせる。
「まあ、こっちでのんびりあいつを待ってるわ。そして、あいつがこっちに来たときに言ってやるのよ。『残念だったわね。あんた、そんなんじゃあ全然私に勝っちゃあいないわよ』ってさ」
そっかあ、と対岸へ顔を向けると、あなたは? と女性は聞いてきた。
「え?」
「あなたはやっぱり戻りたいの?」
「やっぱり?」
「ええ。いつもここであっちを眺めてるのは、あっちに戻りたいからなんじゃないの?」
ここが一番近いわけなんだし、と女性は顎で対岸とこちら側を示す。彼は、うーん、と苦笑して、
「俺も、別に戻りたいとかは思ってないかな」
「そうなの?」
それは意外、と今度は女性が驚いて見せる。
「どうして?」
「んー………何て言えばいいかな」
ちょっとの間、彼は腕を組んで考える。
「未練………が、ないわけじゃあ、ないんだけども」
「うん」
女性の相槌を小気味良く感じつつ、彼は話す。
「ここから眺めていればそれで間に合うような未練なんだよね」
「そうなの?」
「そう。俺の未練は、皆の行く末だからね………あは、ちょっと嘘。ある人の、だな」
「ある人………恋人?」
「残念ながら、俺に恋人はいなかったんだな」
さほど残念でもなさそうに、彼は笑う。
「まあ確かにかなり未練がましい………君の言うとおり、ただの感傷なんだけどね」
「そう。で、あなた自身はどうだったの? あっち側では」
こっちが言ったんだからそっちも言え、と女性はせっついてくる。彼は曖昧な笑みを浮かべる。
「楽しかった………楽しかったよ。うん。俺は割と満足してこっちに来たんだ」
「えー」
女性は彼の年格好を眺め、
「本当に?」
「本当だよ。本当本当。と、言ってもまあ………何て言うのかな。新しい夢とか目標とか見つける前にこっちに来た、って言った方が正しいかもだけど」
いまいち得心を得ていない様子の女性に、彼は笑って見せた。
「まあアレだよ。やり残したことは何もなかったわけだよ」
「うーん………そういえば、さっき言ってた、あっちに行かない理由って?」
「あー………言わなきゃ、ダメ?」
「ダメよ。私だって約束の話したんだから、あなたも話しなさい」
「割と恥ずかしい話なんだけど」
「あら、私だって結構恥ずかしかったんだから、これで等価でしょ」
「んむ………」
なおも彼は言いよどむが、女性にまたせっつかれて渋々口を開く。
「友人がいらん気を回してくれてね………こっちに来る前に、ビデオレター撮らされた」
「ビデオレター?」
「そ。ん、いや何か違うかもしれないけど、まあそんなものだよ」
「うん。まあ主旨はわかった」
「で、………その過程で、学生時代に失恋した片恋相手に手紙書いてきた」
「それって………それってあなた」
「まあ、置き土産ってなものだよね。いい迷惑」
「ああいや、そうじゃなく………あー、いや、そうなのかな」
んー、と女性は首を傾げる。対して彼は苦笑した。
「別に読まなくていいとは書いたし、渡すように頼んだ友人にも、別に強いて渡さなくてもいいって渡したし」
「まどろっこしい………てか、面倒くさいわね」
「まあね。でもほら、その人、もう結婚してて、子供もいて、幸せ絶好調だから」
「………うあー、それはそれは」
額を指で押さえて、女性は唸る。
「うーん………で、そんなあなたがどうしてここであっちにも行かずに、未練がましくあっち側を眺めてるの?」
「それはほら」
「ああ、そうだった。あっちの人たちの行く末だったわね………見えるの?」
「見えるよ。よく見える。あ、いや、別に覗きとかはしてないからね」
「どうなの? あなたの眺める人たちは」
訊くと、彼は再び対岸へ視線を向け、やがてぽつりと言った。
「皆、楽しそうだ」
「楽しそう?」
「うん。楽しそう。皆、毎日忙しく頑張ってて………楽しそうだ」
「そう。残念?」
女性の問いに、彼は不思議そうな表情で女性を見上げた。
「どうして?」
「いやほら、自分がいなくなっても変わらず楽しそうな人たちを見て………さ」
「まさか。そんなわけないよ」
彼は朗らかに笑った。
「それが普通じゃないか。残念になんか思わないよ。それはちょっと自意識過剰だ。俺があっちにいて、他の誰かがこっちに来ていたとしても、俺も今の皆と同じように過ごすだろうしさ。自分がいなくなったことであっちの皆がいつまでも落ち込んでいてくれたりしたら、それはそれで嬉しいかもだけど、もっともっと申し訳ないよ。だからこれでいい。この方がいい」
女性はちょっとの間ほけっと彼を見ていたが、やがてふっと笑った。
「そうね。そうだわ。御免なさい。わたしのほうがありきたりだったわね。ありがちな感傷だったわ」
「まあ、それも普通だと思うけどね」
女性はふと一歩前に出て、座る彼に並んだ。
「隣、いいかしら」
「いいともさ。断る理由もなし」
女性は頷いて彼の横に座った。
「いつまでこうしてるの?」
「さて。誰かがこっちに来るまで、かな」
「皆がこっちに来たらどうするわけ?」
「えー………っと、どうしよう。やっぱりここにいるからな」
女性は淡く笑んだ。
「会いに行ったりはしないの?」
「んー、しないかな。行ってもさ、俺早々に離脱しちゃってるわけだから話合わないだろうし」
「昔話に華を咲かせる、とかは?」
「咲かせるほど昔を積み重ねて来なかったからねえ」
困ったように彼は笑った。
「まあ、しばらくはここにいるさ」
「そう。それじゃあ私も、もうしばらくはここにいるわ」
「そうかい?」
ええ、と女性は頷いた。
「どうせ他にすることもないもの」
不意に風が吹いた。
女性は風になびいて顔にかかる髪を手で押さえる。
彼岸花が揺れていた。