其れは芳しき香りかな
ベンチでこくりこくりと船を漕いでいた榛名京介は周囲の喧騒で目を覚ました。
周りを見渡してそこが女性用の下着売り場だと確認し、一瞬どうして自分がここにいるのかを忘れてしまったが、すぐに思い出した。
そもそもの発端は窃盗団が現れた事だ。
窃盗団というと宝石などを狙っている印象を受けるが、京介達が対峙したのは下着専門の泥棒だった。
非常に馬鹿馬鹿しい話なのだが、実際に下着だけを狙っていたのだから仕方ない。
京介のそれまでの戦いの中でもトップクラスに下らない戦いだった。
それはさておき、無駄に手強かった首謀者も数人がかりで何とか捕まえたのだが、盗まれた下着の多くは転売されていた。
ヘレンも餌にしていた下着が回収出来なかったのでデパートに買いに来たのだ。
そして何故か付き合わされた京介は、暇だったのでエスカレーターの横にあったベンチで眠ってしまったのだ。
思い出してみると何ともおかしな理由だった。
京介は溜息を吐き、ふと口の周りに違和感を覚えたので手で拭ってみると、唇から涎が垂れていた。
それだけでなく、行き交う人々が自分を見ながらクスクスと笑っている事に気付き、京介は恥ずかしくなり思わず赤面を――
「……なに?」
目の前の光景が瞬時に切り替わった。
空から降ってくる影。
何かが砕ける鈍い音。
そこから飛び出す白い何か。
アスファルトに広がる赤の斑。
悲鳴を上げて惑う人々。
「……何だこれは」
京介は顔を押さえてベンチにへたり込む。
自然に鼓動が速まり、全身の汗腺からはどっと汗が吹き出していた。
そして再び光景が切り替わる。
そこはどこかの屋上であり、京介の視界は幾つにも分かれながらも一点を見ていた。
そこには一人の少女がいた。
虚ろな目をした彼女はフェンスを乗り越えると、そのまま一気に……
「……投身自殺か?」
顔を滴る汗の気持ち悪さを無視して京介は呆然と呟いた。
「予知か」
腕時計で時間を確認しながら京介は言葉を続ける。
京介は羞恥心を感じている時にPSIを使用出来るという能力を持っているが、その中に未来予知がある。
今発動したのが透視や千里眼ではなく未来予知と断定したのは、前者二つが京介の自発的な意思によってしか発動しないのもあるが、もっと単純な理由は時間だった。
先程の未来予知では様々な視点から見ていたので少女だけでなく周辺の情報も多く読み取れた。
その中の一つに向かいのビルの液晶モニターがあったのだが、そこに表示された時間が今から五分後だったのだ。
「けど、何だってこんな」
未来予知自体は今まで何度かあったが、こんなケースは初めてだった。
「俺は運命論者じゃないが、救えとでも言いたいのか?」
僅かなりとも時間が経過した事で京介は冷静さを取り戻していた。
少女がいたのは何の因果か、この百貨店の屋上だった。
助けようと思えば助けられない事はない。
「……善は急げだな」
立ち上がり、行動する姿勢を示しながらも京介の心には一つの懸念があった。
「……偽善か?」
仮にここで命を助けても、自殺に至った理由を取り除かなければ明日にも再び自殺を試みるだろう。
それでは根本的な解決にはならない。むしろ苦しみを徒に引き延ばすだけである。
そんな思いが京介の意思を鈍らせる。
あいつらがいればとても嫌味ったらしい笑顔を浮かべてネチネチと攻め立てるだろう。
そして京介に答えを選ぶ為に悩む時間はなかった。時間が経てば選択肢は自動的に一つになってしまう。
「いっそ誰かを巻き込んでくれれば決心も付きやすかったんだが」
不謹慎な事を考えつつ京介は行ったり来たりを繰り返す。
だが、やはり自分の選択肢は一つしかないのだろう。
ここで動かなければ一生後悔するだろうという確信にも似た思いがあった。
「結局、自己本位だな」
自虐的な気分になって沈みかけるが、すぐに気持ちを切り替える。
「さて、方向は決まったが、方法はどうするか」
今から屋上に行って止めるか?
だが、自分が屋上に行く事で早まらせてしまう危険もある。
それに屋上に移動する途中で飛び降りられたら最悪だ。
迷っている間に黄金より貴重な時間を消費してしまっていた。
急いでも時間的にギリギリだろう。
それならまだPSIを使う方が成功率は高い。
幸いテレスキネシスの射程内なので、透視や千里眼と併用すればここからでも助ける事は出来る。
発動の条件を満たせるか、という問題が残っているが。
「ふーふふーん♪」
取り敢えず鼻歌を口ずさみながらスキップをしてみる。
音も動作も大袈裟にやったのでそこそこの人目を集める事が出来た。
その中に混じる確かな他人の失笑を感じ、京介は近くの観葉植物に視線を合わせる。
「……動かないか」
ギリッと京介は歯を噛み締める。
当然といえば当然だが、人の命がかかっている時に羞恥心を感じるのは酷く困難である。
それでも感じなければならない。
今までの経験則から心の大部分を別の感情が占めていても、微かでも羞恥心があれば能力を使える事は分かっている。
手段は選んでいられない。
「早くしないと……ん」
心急く京介の視線がある一点で固定された。
そこにあるのは見本として下着を着用したマネキン人形。
「……」
唾を飲み込み、小さく深呼吸する。
不意に浮かんだ羞恥心を感じる方法を想像するだけで一瞬だけ恥ずかしくなった。
「…………」
時間もないし、手段は選ばないと決めたばかりだった。
「………………」
おもむろにマネキンに近付くと、パンツを外してそれを頭に被る。
隣にいた女性客がぎょっとして離れていくが、気にせずに続いてブラジャーを眼鏡のように目に当てる。
「はっはっはっ! 実にいい香りだ」
京介は半ばやけくそだった。
自分は今、男として、いや人間として恥ずべき行為をしている。
人命を救う為の崇高な行動などでは断じてなく、前に会った下着泥棒と同等の下劣な行いである。
そう、必死に言い聞かせる。
「きゃ、きゃあー!」
「何よあれー!」
京介の周囲からざわめきが波紋のように広がり、売り場は騒然となる。
「……自己嫌悪八割、羞恥心二割ってとこか」
京介の目に映るのはブラジャーの布ではなく、フェンスとその向こうにいる女性の姿。
間を隔てる数階分の障害物を越えて視認に成功したのだ。
だが、喜ぶのも束の間。次の瞬間には少女の体は空に舞っていた。
「くそっ」
舌打ちし、京介は自分が焦っている事を自覚して更に焦りを濃くした。
羞恥心を感じなくなっても能力が使用出来なくなるまでタイムラグがあるが、それは微々たるものでしかない。
「変質者ー!」
心に突き刺さる罵倒も今は有りがたい。
不鮮明になりかけていた映像がはっきりとしてくる。
そして京介はその映像の中心にいる少女に意識を集中させる。
少女は普通に歩くように足を踏み出して飛び降りたのだが、今は頭の重みで頭が下になっていた。
「なら……」
テレキネシスで落下スピードを緩めつつ姿勢を入れ換えて足から落ちるようにする。
PSIが弱くなっていてそれ位しか出来なかったが、恐らく死ぬ事はないだろう。
それと同時に光景が途切れ、代わりに仄かな闇が広がる。
羞恥心を感じなくなって能力が使用不可になったのだ。
「ふう……」
深く息を吐きながらパンツとブラジャーを外す。
未来予知から数分しか経っていない筈なのに、一日中精密作業をしていたかのように疲れてしまった。
出来るなら今すぐふかふかのベッドに倒れ込みたい。
「だが、これで……」
「榛名さん」
自分の名前を呼ばれた京介が振り向くと、そこにはワンピースの上にカーディガンを羽織り、スカートを穿いた少女、ヘレーネ・シュレーゲルがいた。
「何か言う事はありませんか?」
京介を正面から見据えたヘレンから放たれたのは、感情のない無機質な声だった。
「……」
京介は無言で右手のブラジャーと左手のパンツを交互に見比べ、
「最近の百貨店はメンズとレディースの割合が後者に偏りすぎていると思わないか?」
「そんな事は知りません」
ヘレンは腕を組んで眉を吊り上げる。分かりやすい「私は不機嫌ですよ」というポーズだった。
「人様の趣味をとやかく言うつもりはないですが、他人の迷惑にならないようにすべきです」
「ああ、そうだな。だけどここでやりたかったんだ」
「……あの下着泥棒の人達に仲間に勧誘されていたのでもしやと思っていたら……」
「あれらと一緒にされるのは流石に許容出来ない。尊厳の放棄に等しい」
「いいえ、同じです。まったく。人間として最低ですね。盛りのついた雄ザルと大差ないですよ!」
「お、雄ザル……?」
京介は割と愕然とした。
同時に遠巻きに見ていた客の冷たい視線も肌で感じる。
「この事を皆が知ればどう思うか。いっそ斬られちゃえばいいんです」
「ま、待て。さっきから聞いていれば酷い言われようだが……」
「言い訳は見苦しいです!」
弁明も一言で切り捨てられた。
思わず持っていた下着を力強く握り締めてしまった事が逆効果だったかもしれない
「というか、それは売り物ですよ? 言ってくれれば……」
ヘレンが何か言いかけた時、京介の視界の端に警備員の姿が映った。
ここで自分が無関係だと思うほど京介は楽観も逃避もしない。
まあ、警備員に駆け寄った店員が自分を指差していれば当事者だというのは明白なのだが。
「聞いてますか、榛名さん?」
店員、客、ヘレン。
世界の全てが自分の敵になったかのような錯覚に陥りながら京介は逃げるように売り場から立ち去った。
「そこの君、待ちなさい!」
「榛名さん、ちょっと待ってください! 今までの事も含めて神に懺悔するべきです!」
制止を求める警備員とヘレンの声が聞こえるが、古今東西「待て」と言われて大人しく待つ者はいないのが追う側と逃げる側の共通見解だろう。
エレベーターの脇にある階段に走り込み、人がいないのを確認するや否や踊り場まで一気に跳躍する。
これくらいは加速を付けた上で怪我を恐れなければ高校生男子なら誰にでも可能である。もっとも足腰にダメージを与えずに着地する事が出来るのは極一部に限られるが。
閑話休題。
一階フロアに出た京介は警備員を引き離した事を確認するとトイレに駆け込んで個室に籠る。
本来なら現場に行くべきなのだろうが、ちゃんと助けられたか確認したい反面、もし失敗していたらと思うと外に出るのが躊躇われたのだ。
京介がいなければそのまま死んでいたので、上手く出来なかったとしても非はないのだが、そう簡単に割り切れるものではない。
「……」
そして今更ながら猛烈な後悔が襲ってきた。
店員や警備員にばっちり顔を見られてしまった。
この百貨店の一階にあるパン屋はなかなか美味しいので京介はちょくちょく買っていたのだが、しばらくは来ないほうがいいだろう。
ついでに食料品売り場のお一人様一パックまでの卵も諦めるしかない。
それでも今抱いている後悔などは何もしなかった時に抱く後悔と比べれば、小さなものだろう。
そうやって京介は自分を納得させる。
「はあ……」
幸せが逃げていきそうな辛気臭い溜息を漏らしながら、携帯を取り出して119番をコールする。
数回の呼び出し音の後で繋がったので、京介は人が落ちた事を伝えたのだが、
『ああ、その件なら既に通報を受けています』
「そうですか。……無駄だったか」
『いえいえ。ご連絡ありがとうございます』
携帯をしまうとそのまま暫くぼーっとしていたが、その内救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
室内に響くような近くに来たという事は、あの少女を搬送に来たと考えて間違いないだろう。
「……」
しかし京介は動かず、程なくしてサイレンの音が遠ざかっていくのを聞いてやっとトイレから出る。
百貨店からも出るとそこには人だかりが出来ていたが、京介が見ている間にもどんどん散らばっていく。
「もう終わったか」
「あ、榛名さん! こんな所にいたんですか!」
聞き慣れた声に反応し、その声の方を見るとヘレンがいた。
ただ、その姿が数分前とは少し違っていた。
彼女の服には所々赤い染みが付着し、膝下まであった筈のスカートの丈が異様に短くなっていたのだ。
「……腹が冷えるからミニスカートはやめとけ」
「すみません。止血しようと思ったんですけど、適当なものがなくて」
ヘレンの姿から薄々感付いていた京介だが、止血という単語から何が起きたか把握する事が出来た。
「骨が皮膚を突き破ってましたし、それでなくても砕けた骨が血管を傷つけて内出血を引き起こしていました」
想像するだけで京介は気分が悪くなりそうだった。
この手の類は男より女の方が耐性があると言われるが、自分とヘレンの間ではその通りらしい。
「私に出来たのは止血が精々です。それも完璧とはいえません。止血帯でもあればよかったんですけど」
ヘレンが落ち着いていた事から、深刻な事態にはならなかったと察して京介は胸を撫で下ろした。
「何にしても大事にならなかったのは榛名さんのお陰です」
「……気付いたか」
ヘレンの話し方が、京介が飛び降りを知っている事を前提としたものだったのである程度は推測出来たが、こうもはっきり言われると内心で驚いてしまう。
「ええ。というか最初から分かってました。ちょっとからかってみただけです。それに、ああしておけば他のお客さん達も少しは溜飲が下がるかなと思って」
「まあ、な」
やむを得ないとはいえ、あの場にいた客に不快な思いをさせた事を京介は気にしていた。
ヘレンが目立つ形で罵倒した事で多少は気が晴れてくれると良いのだが。
「あの女の子にも事情を説明出来ないでしょうから私が代わりにお礼を言います。ありがとうございます」
そう言ってヘレンは深々と頭を下げる。
「そうしてくれると助かる。一人でも理解者がいると救われるな」
京介は何の見返りもない行動で満足出来る人間ではない。
今回は自分の為に動いた面も大きかったが、代償が大きすぎた。
公衆の面前で破廉恥な真似をしたのに誰からも感謝されないというのは流石に堪える。
「でも、非常事態だったのは分かりますが、もう少し自愛を」
頭を上げたヘレンの顔には京介を責めるような表情が浮かんでいた。
「榛名さん、普段は冷静でめんどくさがりなのに何か起こるとすぐに無茶するから心配なんです。この前の吸……」
「……自分から進んで人質にされる奴に無茶をたしなめられるとは思わなかった」
京介の言葉にヘレンは痛い所を突かれたとばかりに表情を歪めた。
二人が初めて会った日に起こった事件、後から聞いたところではそういう顛末だったらしい。
当時は呆れ果てた京介だったが、それからヘレンと行動を共にして彼女の人となりを知った今となっては、それでこそヘレーネ・シュレーゲルだという誇らしい気持ちにすらなる。
「この話は置いといて、ひとまずお前の家に行くか。血のついた衣服は変えた方がいいし、今なら落とせるかもしれない」
「はい。それが済んだら……」
「ああ。病院に行く」
助けたならそこで終わりにせず、最後まで責任を負わなければならないだろう。
そんな思いを胸に秘めつつ京介はヘレンと共に帰路についた。




