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真面目な話

作者: 皆倉あずさ

 中井健二という男の話をしよう。私は彼とは小学生の時に同級だった。全国的にありふれていたと言っていい程度の、公立の学校だった。そこに通っていた頃、私はかなり内向的な傾向のある子供だったから、長い昼休みにクラスメイトはほとんど全員グラウンドに遊びに出かけてしまっても、私は必ず教室に残って学級文庫や図書室で借りた本なんかを読んでいた。学級文庫なんて小さい本棚だから、その教室にいる一年間でだいたいふた周りくらいは出来た。そして、私と一緒に教室に残っていたもう一人の生徒が、中井健二だった。

 しかし彼は、本を読んでいたわけではなかった。いつもノートに向かって、何か書いていたから、私はいやに勉強熱心なやつだなあと思って、最初は敬遠していたのだ。むしろ軽い軽蔑の念を抱いていたのかもしれない。だから、小学四年生だったある日のこと、休み時間の彼に初めて声をかけたとき、私は彼に対してやけに馴れ馴れしく出来たんだと思う。

 「やあ」と私は言った。彼はノートからひょいと顔を上げて、私と目が合った。彼は身なりは一応こぎれいに整っていたものの、肌の色が病的なまでに白かった。外に出ないからだ。多分当時の私も似たり寄ったりだったのだろうと想像するが、その時私は「まるで真っ暗な洞窟に住んでいるウナギみたい」だと思った。これは嘘ではなくて、本当に覚えていたのだ。

 彼は物語を書いていたのだった。頼んだら喜んで見せてくれた。その時書いていたのは、確か異世界の冒険ものだったと記憶している。ルイスの「ナルニア国物語」だとか、ル=グウィンの「ゲド戦記」のような。こんなわりかし重要なことは曖昧で、「洞窟のウナギみたい」のようなどうでもいいことを鮮烈に覚えているというのは、逆説的でなかなか興味深い。この文章を書くに当たって、久しぶりに中井に会ったときにこれを話したら、曖昧な顔をして笑っただけだった。確かにこの話題を日常的会話というには、あまりに広がりに欠けているかもしれない。

 ともかく、それからというもの私は学級文庫の本に飽きると、中井の書いた物語を読ませてもらうようになった。彼はあまり読書をしないタイプの書き手だった。つまり、必要最小限の作品を読んでしまえば、そのジャンルに関してはかなりの事を自分で考え出して書くことが出来るし、それを自由に使いこなす応用力もあった。事実、彼の書く物語はとても面白いと思っていたし、私は彼の新作が出来るのをいつも心待ちにしていたのだ。しかし、私は読書家という変なプライドがたびたび頭をもたげて、気まぐれに読むのを断ってみたり、批評家気取りで彼の作品にけちをつけたりしていたのだった。

 それでも、この中井健二は非常に素直な少年であった。そして非常に勉強熱心でもあった。最初期の私の直感は完全に的外れというわけでもなかったのだ。そして、私の意地悪な批評を彼は真面目にノートに書き取って、次の作品ではその重箱の隅をつつくような欠点を見事に解決してくるのだった。彼は無口だったが、自分の物語のこととなると途端に饒舌になった。普段教室で影の薄い中井が、これほどまでに情熱的に作品にこめた思いや考えを語るのを見て、私は呆気にとられたものだった。彼は打ち明けるように、しかし自信を持って、こう言った。

 「僕、将来作家になるんや」

 私は、「そうか」としか答えられなかった。まだまだ自分の将来のことについてなど想像もつかなかった頃だし、あれほどたくさんの本を読んでおきながら、作家という職業にも漠然としたイメージしか持ち合わせていなかった。今でも若干形は変わるが、この印象はあまり変わらない。作家というのはただの記号なのだ。読まれるのはとどのつまり本に書かれた作品の方なのだから。それで私は「そうか」と言って、お茶を濁したのだった。


 ある日のこと、中井の物語を書くという趣味が、思わぬ事件を生むこととなった。いや、大人の目から見れば、それもやはりありふれていたと言っていいと思う。私たちはまだほんの小学生で幼かったし、当然のことながら無知だった。だからそんな初めての状況に対して、非常な戸惑いを抱いてしまったのだ。

 私は、この事件を、今では非常にありふれたものとして考えている。

 同じクラスに、山中亮輔という生徒がいた。彼はスポーツが非常によく出来た。身体が大きく、背が高く、力が強かった。どこにでもそんな生徒は一人くらいいるものだ。そうして、そういう多くの生徒たちの例にもれず、山中亮輔もまた豪胆な性格を備え、多くのとり巻きを従えていたのだった。

 そして話は簡単だ。その山中亮輔が中井の書いた物語を見つけ、それをクラスのみんなの前で散々に馬鹿にして見せたのだ。そして反抗した彼を突き飛ばして、教室の床に転がった中井に向かって、こう言った。

 「お前、作家にでもなるつもりなんか」

 「そうや」

 「なれるわけ無いやろ、ばーか!」

 中井は何も答えなかった。それから彼は軽いいじめのようなものに遭った。靴を隠されたり、ノートを破られたりといったことだ。彼の場合、書いた物語を黒板に張り出されるというようなこともあった。その度に、中井は誰とも目を合わせないようにしながら、そのノートから強引に破り取られた紙を黒板から外して、自分の机に持ち帰っていた。山中たちは、それを見ながらにやにや笑っていた。

 こういう事はあまり書きたくないが、この事件には中井の容貌及び性格も少なからず影響していたと思う。やはり彼には「洞窟のウナギ」のような、暗くてぬらぬらしたイメージが付きまとっていたのだ。それは彼にはどうしようもない事だった。

 「いじめられる方にその理由の一端がある」は真実だ。でなければ、一クラス四十人の中からどうして一人選ばれたのか、説明がつかない。しかしそんな理不尽でさえも、世の中にはごくありふれているのだ。小学校だろうと同じことである。

 この点に、私の非常な後悔がある。私は彼を助けなかったのだ。山中たちが中井をいじめているのを見ても、知らないふりをして通り過ぎていた。そのくせ、昼休みのたびに彼に新しい物語をせびるのは止めなかった。別に罪滅ぼしでも何でもなく、単に全てを忘れているふりをしたからだった。「事件以前」のように振舞ったのである。子供というのは、得てして都合のいいことだけを吸い取って日々を生きている。これは釈明だ。しかし事実としては、彼に対するいじめは三ヶ月もたたないうちになくなってしまった。特に何か切っ掛けがあったわけではない。ただ退屈されて、忘れられてしまったのだ。理不尽な力としてのいじめる側も、もとを正せば子供なのであった。これが小学校と大人の社会との違いだ。


 私が、この短い挿話の重大性に気がついたのは大学生になって、初めて催された小学校の同窓会に出席した時のことだった。私はその席で中井とほとんど十年ぶりに再会した。話はもちろん小説のことになった。すると、十年以上も前のことが、徐々に思い出されてきた。いじめのことも、それを見て見ぬふりをしたことも、全部がよみがえった。それで鳥肌が立つような申し訳なさにとらわれて、その場で中井に平謝りした。彼はこの時も、曖昧に笑って何も答えなかった。そして、会もお開きになって別れ際に、「僕、まだ作家を目指してるんだ」と言った。私はああそうなのかと思った。そして今度は「頑張れよ」と言うことが出来た。

 果たして、彼は作家になった。主に児童向けのファンタジーや冒険活劇を多く書いて、世間の評価もまずまずだった。本はベストセラーになるようなことはなかったけれど、大抵の小学校の図書室に二、三冊くらいは置いてある。近所の図書館にも、児童向けの棚に彼の名前のプラスチックカードが出来た。私の子供が小学校に上がった時、いい機会だと思って彼が書いた「ワールド」シリーズを九巻全てそろえて、子供より先に全部読んでしまった。面白かった。そうして、昔読んだ彼の物語の面影が意外なほど色濃く残っていることに驚いた。

 私も分野はかなり違うものの物書きの仕事をするようになっていたし、彼とは時々会って一緒に酒を飲む仲だ。そして現在に至る。 


 私は山中亮輔が、中井の作家になりたいという夢を「なれるわけ無いやろ!」と言って否定したことに対して、大きな衝撃を受けたのだった。一方で、山中は学校の体育の授業でやるようなスポーツは大抵得意にしていたが、普段から「将来は野球選手になる」という夢を語ってはばからなかった。何しろ、彼とあまり付き合いのなかった私でさえ知っているくらいなのだ。しかし今では実家のペンキ屋を継いで、看板や公園のベンチを塗ったりして毎日を忙しく過ごしていると聞く。彼がどの程度まで自分の夢に対して肉薄したのかは知らない。高校では全く離れてしまったし、それからの音沙汰はほとんどないからだ。しかし彼は夢を諦め、中井は夢を現実のものにした。別に、山中をけなそうとしているわけではない。私は彼をいじめっ子として断罪するなら、私もその一員として加えられるべきだと考えているし、中井の言葉を借りるならば、この問題はずっと昔の出来事で、もう全部終わったことなのだ。それでも山中の名誉のために付け加えると、数年ごとに開かれる同窓会では、彼は感じのいい、普通の中年のおじさんになっている。結局のところ、みんな子供で、幼かったのだ。ここはこのような結論にしておこうと思う。

 私が思ったのは、子供が抱く夢として、「作家」と「野球選手」との間に壁があるということだ。この二つを並べた時、私なら「作家」は止めておいた方が良いと言うだろうし、「野球選手」は頑張れと応援すると思う。これは職業差別ではなく、「作家」という職業が潜在的に持っている特性のせいだと思う。簡単に言えば、垣根が低いのだ。誰でもが将来の選択として安易に考えてしまう程度には、物語が書けてしまうからだ。文章に限らず、世の中のあらゆるスキルはある程度のレベルまでいってしまえば上手下手の評価をつけるのが非常に難しくなってくる。その上にあるものはよく「難解」と言われる。これは一般論だ。だからこそ評論家というものが存在するし、その道の第一人者といわれるような人でも、世間一般からの評価はよく分からないものであったりする。文章というものはこのハードルがさほど高くないし、正しい評価をつけることも難しい。つまり、「難解なもの」のレンジが非常に広いのである。この文章の持つ特性は作家というジャンルに、複雑で、かつのっぴきならない状況を生む。それは人ごみの中にたった一人で取り残されるような不毛さであり、何しろ夢であるにもかかわらず夢がないように感じてしまう。この逆説は、いくら子供と言っても敏感に感じ取ることが出来るのだ。だからこそ山中はあの時「なれるわけ無いやろ」と言ったのだし、中井もそれに対して言い返すことが出来なかったのだと思う。

 しかし希望はあるだろう。現実に作家と呼ばれる職業の人は存在しているわけだし、中井の存在もまた私のごく身近でそのことを証明してくれた貴重なものだった。先に書いた、記憶の逆説についてを話した食事の時、私はこのことも中井に話した。すると今度は曖昧に笑うでもなく、急に真面目な顔をして、「その通りだよ」と言ったので、私も自分の考えによく自信を持つことが出来たのだった。

私の抱く、むしろ私個人から受けた印象です。深い意味はないです。

それにしても「ありふれた」乱発しすぎた……

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