冗談じゃ、なくなるまで
講義が終わる。
教授が教室を出ていくと同時に、張りつめていた空気がほどけるように、あちこちから話し声が上がった。
一ノ瀬遼太は、机の上に置いていたスマートフォンを手に取った。
時刻を確認する。
今日はこのあとサークルがある。
特に急ぐ必要もないが、二限の講義を終えたばかりの教室は人が多い。さっさと出たほうがいいだろう。
そう思って席を立ったときだった。
「遼太先輩」
後ろから声をかけられた。
振り返る。
「ん?」
そこにいたのは、同じサークルの後輩だった。
「あ、みのりちゃん」
「お疲れさまです」
「お疲れ。どうしたの?」
「先輩今日サークル来ます?」
「行くよ。たぶんいつも通り」
「よかった」
みのりはそう言って笑った。
遼太も軽く笑い返す。
特に意味のない、いつもの会話。
そのはずだった。
けれど。
遼太の視線が、ふとみのりの後ろに向いた。
少し離れたところ。
肩にかけたバッグを持ち直しながら、こちらをみている。
遼太は、さっきの講義中にもその子を見ていた。
何度か。
別に意識していたわけではない。
ただ、視界に入る位置にいたから。
それだけだった。
「先輩?」
「ん?」
「どうしました?」
「いや」
遼太はみのりに視線を戻した。
「なんでもない」
「そうですか?」
「うん」
そう答えたものの、また一度だけ女の子を見る。
その瞬間。
目が合った。
ほんの一秒。
遼太が軽く会釈すると、女の子も少しだけ頭を下げた。
遼太は、その子を見ながら言った。
「みのりちゃん」
「はい?」
「あの子、友達?」
「え?」
みのりが振り返る。
「ああ、ももちゃんです」
「ももちゃん?」
「はい。花井百華。一年生です」
「へえ」
名前を聞いただけなのに、妙にしっくりきた。
花井百華。
遼太は頭の中で一度だけ繰り返す。
「知り合い?」
「私は仲いいですよ。待っててくれてるんです。大学入ってから友達になって」
「ふーん」
「先輩、気になります?」
「別に」
反射的に答えた。
みのりが少し笑う。
「今、めっちゃ見てましたけど」
「見てないって」
「見てましたよ」
「だから、なんとなく」
「なんとなく?」
「うん」
遼太は笑ってごまかした。
「なんか、見たことある気がしただけ」
「同じ講義なんですからみたことはあるでしょ」
「そっか」
そう言いながら、遼太はもう一度だけ百華を見た。
今度は目が合わなかった。
「じゃ、先輩。また後で」
遼太はその後ろ姿を見送った。
ただそれだけだった。
この時は。
*
サークルに着くと、すでに何人か集まっていた。
「遼太、お疲れ」
「お疲れ」
適当に挨拶を交わしながら、遼太はいつもの場所に座った。
みのりも少し遅れてやってきた。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
みのりは友達と話しながら荷物を置く。
その姿を見て、遼太は何気なく聞いた。
「あの子は?」
「あの子?」
「花井百華ちゃん」
「あ、ももちゃん?」
「うん」
「ああ、ももちゃんはサークル入ってないですよ」
「あ、そうなんだ」
「はい」
「じゃあここには来ないんだ」
「来ないと思います」
「そっか」
それだけ言って、遼太はスマホを見た。
みのりが少しだけ不思議そうな顔をする。
「先輩、ももちゃんと話したことないですよね?」
「ないよ」
「ですよね」
「なんで?」
「いや、名前覚えるの早いなと思って」
「さっき聞いたばっかだから覚えてただけ」
「ふーん」
「何、その顔」
「別に?」
みのりが笑った。
遼太は肩をすくめる。
自分でも、なぜ百華のことを聞いたのかよく分からなかった。
ただ、気になった。
それだけだった。
*
それから数日。
遼太は大学内でたびたび百華を見かけるようになった。
同じ学部らしい。
講義もいくつかかぶっている。
いつも前のほうにいるわけではない。
かといって、後ろでもない。
友達と並んで座っていることもあれば、一人でスマホを見ていることもある。
遼太は別に話しかけるつもりはなかった。
ただ、目に入る。
そして、目に入るたびに思う。
――今日もいる。
自分でも少しおかしいと思った。
女の子なんて、大学にいくらでもいる。
これまでだって、たくさんの女の子と話してきた。
高校時代もそうだった。
大学に入ってからは、さらに増えた。
本気で付き合うことはなく、ほとんどが遊びで終わっていた。
どちらにしても、遼太にとって恋愛はそこまで難しいものではなかった。
相手が自分に好意を持っているから遊ぶ。
楽しくなくなったら終わる。
それだけ。
だから、女の子のことでこんなふうに「気になる」と思うこと自体が、はじめてだった。
*
ある日の講義終わり。
遼太が教室を出ようとすると、またみのりに声をかけられた。
「遼太先輩」
「お、みのりちゃん」
「今日サークル行きます?」
「行くよ」
「じゃあ一緒に行きましょう」
「いいよ」
歩きながら話していると、少し前に百華がいるのが見えた。
みのりも気づいたらしい。
「ももちゃん!」
みのりが手を振る。
百華が振り返った。
「みのり」
「今帰る?」
「うん」
「じゃあ一緒に駅まで行こ」
「いいよ」
百華がこちらに歩いてくる。
近くで見ると、講義中よりも少し印象が違った。
思ったより表情が豊かだった。
「こちら、サークルの遼太先輩」
みのりが紹介する。
「一ノ瀬遼太。二年生です」
「一年の花井百華です」
「知ってる」
遼太が言うと、百華が少し目を丸くした。
「え?」
「みのりちゃんから聞いた」
「ああ」
百華は笑った。
「じゃあ、私も知ってます」
「俺のこと?」
「はい」
「どこで聞いたの?」
「いろんなとこで」
「何聞いたの?」
「いろいろです」
「いろいろ?」
「でも秘密です」
「みのりちゃん?」
遼太がみのりを見る。
「え、私何も悪いこと言ってないですよ?」
「ほんと?」
「ほんとです」
百華が横から口を挟む。
「でも、一ノ瀬さんって結構有名ですよ」
「それ良い意味?」
「どうでしょう」
「怖いな」
「ふふ」
百華が笑った。
遼太も笑う。
初めてちゃんと話したのに、妙に会話がしやすかった。
変に緊張している感じもない。
百華は男と話すことに慣れているのだろう。
距離の取り方も自然だった。
「百華ちゃんって、サークル入ってないんだっけ?」
「はい。今のところは」
「じゃあ大学終わったらすぐ帰るタイプ?」
「そうでもないですよ」
「そうなの?」
「友達とご飯行ったりしますし」
「へえ」
「先輩は?」
「俺?」
「サークル以外何してるんですか?」
「普通に友達と遊んだり、バイトしたり」
「彼女は?」
突然、百華が聞いた。
「いないよ」
「へえ」
「何、その反応」
「いや、いると思ってました」
「なんで?」
「なんとなく」
百華は笑った。
「一ノ瀬さん、モテそうだから」
「まあ、それなりに?」
「自分で言うんだ」
「だって嘘じゃないし」
「じゃあモテる人なんですね」
「百華ちゃんもモテそうだけど」
「私?」
「うん」
「どうかな」
「どうかなって」
「普通ですよ」
「普通の人はそんな聞き方しないでしょ」
「どんな?」
「彼女いるんですか、とか」
「ああ」
百華は少し考えてから、にこっと笑った。
「じゃあ、私が一ノ瀬さんの彼女になってあげましょうか?」
「……」
一瞬、遼太が黙った。
百華はすぐに笑う。
「冗談です」
「ああ……」
「先輩、今ちょっと本気にしました?」
「してない」
「ほんとですか?」
「ほんと」
「顔固まってましたよ」
「急に言うからでしょ」
「ふふ」
百華は楽しそうに笑った。
みのりが横で呆れたように言う。
「ももちゃん、そういうこと言うから」
「だって面白いから」
「俺で遊んでない?」
「ちょっとだけ」
遼太も笑った。
それで終わるはずだった。
百華にとっては。
でも遼太は、その日の夜になっても、あの言葉が頭に残っていた。
――私が一ノ瀬さんの彼女になってあげましょうか?
もちろん冗談だ。
分かっている。
百華自身が「冗談です」と言った。
それなのに。
なぜか、その一言だけが妙に残った。
*
それから、二人で会うことが増えた。
正確には、遼太と百華が二人で会うわけではない。
みのりがいる。
講義終わりに三人で駅まで歩いたり、みのりの友達を含めて何人かでご飯を食べたり。
呼び方も「一ノ瀬さん」から「遼太さん」に変わった。
その程度だった。
けれど、その「程度」の時間が、遼太にとって少しずつ大きくなっていった。
「遼太さん」
「ん?」
「今日、眠そうですね」
「昨日寝るの遅かった」
「何してたんですか?」
「ゲーム」
「子どもみたい」
「百華ちゃんだってゲームするでしょ」
「しますけど」
「じゃあ同じじゃん」
「私はちゃんと寝ます」
「えらいね」
「子ども扱いしてます?」
「一年生だから」
「二年生だからって偉そう」
「一個上だぞ」
「一個だけじゃないですか」
「その一個が大きいんだよ」
「じゃあ敬語やめていいですか?」
「……それはちょっと寂しい」
「なんでですか?」
「なんとなく」
百華は笑った。
「じゃあ、もうちょっとだけ敬語にしときます」
「ありがと」
そんな他愛もない会話。
何度も繰り返した。
百華はよく笑った。
よく冗談を言った。
そして、遼太に対して遠慮がなかった。
「遼太さん、女の子に慣れすぎ」
「そう?」
「そうですよ」
「百華ちゃんも慣れてるじゃん」
「私は普通です」
「普通の女の子は男の先輩にあんなこと言わないって」
「あんなことって?」
「彼女になってあげましょうか、とか」
「ああ」
百華が笑う。
「まだ気にしてるんですか?」
「別に」
「じゃあ、もう一回言いましょうか?」
「いいよ」
「私、遼太さんのこと――」
「はい、そこまで」
遼太が手を上げる。
「どうせまた冗談でしょ」
「よく分かってますね」
「分かるよ」
「さすが遊び人」
「……誰から聞いた?」
「みのり」
「みのりちゃん……」
「だから悪いこと言ってないって」
みのりが笑う。
百華も笑う。
遼太も笑った。
でも。
その「遊び人」という言葉だけが、妙に胸に引っかかった。
*
ある日、遼太はみのりと二人でサークル帰りに歩いていた。
「遼太先輩」
「ん?」
「ももちゃんと仲良くなりましたね」
「そう?」
「最初、あの子誰って聞いてたじゃないですか」
「ああ」
「最近、ももちゃんの話ばっかりですよ」
「そんなしてないって」
「してますよ」
「……」
否定しようとして、やめた。
たしかに。
最近、百華の話をすることが増えた。
「百華ちゃんって、彼氏いるの?」
気づけば聞いていた。
みのりが横目で遼太を見る。
「いないと思いますけど」
「思う?」
「最近は聞いてないので」
「そっか」
「気になります?」
「……まあ」
「好きなんですか?」
「まだ分かんない」
みのりが黙った。
遼太は苦笑する。
「そんな顔すんなよ」
「いや」
「何?」
「先輩がそういうこと言うの珍しいなって」
「俺もそう思う」
「でも、ももちゃんですよ?」
「どういう意味?」
「いや、ももちゃんって、先輩みたいな人には結構手強いと思います」
「俺みたいな?」
「遊び人」
「その言い方やめて」
「でも本当じゃないですか」
「まあ……そうだけど」
遼太は空を見上げた。
「だからこそ、なんか気になるのかも」
「何が?」
「俺のこと、全然警戒してないところ」
「警戒してますよ」
「してないだろ」
「してます」
「どこが?」
「先輩が本気で近づいたら、百華ちゃん逃げると思います」
その言葉に、遼太は少し黙った。
「……本気で近づいたら?」
「はい」
「なんで?」
「百華ちゃん、先輩のこと信用してないから」
「そっか」
遼太は、それ以上聞かなかった。
*
百華は遼太のことを嫌いではなかった。
むしろ好きだった。
ただし、それは恋愛的な意味ではない。
話していて楽しい。
からかうと面白い。
変に気を遣わなくていい。
そんな先輩だった。
だから、百華はよく冗談を言った。
「遼太さん、私のこと好きですよね」
「はいはい」
「否定しないんだ」
「百華ちゃんがそう言うなら」
「じゃあ付き合います?」
「百華ちゃんがいいなら」
「え、先輩ってほんとに付き合えちゃうんですか?」
「冗談だろ」
「ばれました?」
いつもそんな調子だった。
百華は遼太が自分に本気になるなんて思っていなかった。
遼太の周りには女の子が多い。
それに、みのりから聞いた話では、今ほどではなくても昔はかなり遊んでいたらしい。
そんな人が、自分一人に本気になるなんて。
考えたこともなかった。
だからこそ、何も考えずに冗談を言えた。
*
六月の終わり。
雨が降っていた。
講義が終わるころには、外はかなり強い雨になっていた。
「最悪」
百華が窓の外を見ながら呟いた。
「傘ない?」
遼太が聞く。
「持ってないです」
「今日雨って言ってたじゃん」
「朝は晴れてたんですよ」
「天気予報見なかったの?」
「見てないです」
「じゃあどうすんの?」
「走ります」
「風邪引くよ」
「じゃあ遼太さんの傘貸してください」
「俺は?」
「知りません」
「ひど」
百華が笑う。
遼太は自分の傘を開いた。
「駅まで一緒に行く?」
「いいんですか?」
「いいよ」
「じゃあお願いします」
二人で歩く。
傘の下は、思ったより狭かった。
自然と距離が近くなる。
百華が少しだけ遼太のほうに寄った。
「濡れてない?」
「大丈夫です」
「ほんと?」
「はい」
しばらく無言で歩く。
雨音だけが続いていた。
「遼太さん」
「ん?」
「最近、私のこと見てません?」
遼太の足が一瞬止まりそうになった。
「……見てない」
「嘘」
「なんで?」
「なんとなく」
「百華ちゃん、なんとなく多いね」
「便利ですよ」
「そうだな」
百華は笑った。
「講義中もたまに目合いますよ」
「……それは」
「何ですか?」
「百華ちゃんが見てるからじゃない?」
「私、そんな見てないですよ」
「じゃあ俺も見てない」
「ふふ」
百華は楽しそうに笑う。
「先輩って、意外と分かりやすいですね」
「俺が?」
「はい」
「どこが?」
「秘密です」
「またそれ?」
「秘密好きなんです」
遼太も笑った。
でも、その夜。
遼太は眠れなかった。
百華に「見てません?」と言われたことが、ずっと残っていた。
自分では隠しているつもりだった。
けれど、百華には分かっていた。
――俺、そんなに分かりやすいのか。
そう思うと、少しだけ怖くなった。
*
七月。
試験前で、大学全体が少し慌ただしくなっていた。
遼太も課題に追われていた。
そんなある日、スマートフォンに通知が来た。
百華からだった。
『遼太さん』
それだけ。
遼太は少し驚いた。
二人で連絡先を交換してはいたが、百華から直接連絡が来ることは珍しかった。
『どうした?』
しばらくして返信が来る。
『課題分かんないです』
『どれ?』
『これです』
写真が送られてきた。
遼太は内容を見る。
『ここ、こうじゃない?』
『あ、ほんとだ』
『簡単じゃん』
『先輩、頭いいんですね』
『普通』
『じゃあ今度教えてください』
『いいよ』
『やった』
そこで会話は終わると思った。
けれど、百華からまたメッセージが来た。
『先輩って優しいですね』
『普通だよ』
『じゃあ私にだけ優しくしてください』
遼太は画面を見つめた。
いつもの冗談。
分かっている。
なのに、胸が妙にざわついた。
『それ、他の男にも言ってる?』
送信してから、少し後悔した。
数秒後。
『どうでしょう』
そして、
『気になります?』
遼太はスマホを伏せた。
「……ずるいだろ」
誰もいない部屋で、思わず呟いた。
*
それから百華との連絡は少しずつ増えた。
課題の話。
講義の話。
みのりの話。
どうでもいい雑談。
百華はよく遼太をからかった。
『遼太さんってモテるんですよね?』
『まあね』
『じゃあ私なんか相手にしなくてもいいじゃないですか』
『なんで?』
『もっと可愛い子いっぱいいるでしょ』
『百華ちゃんも可愛いけど』
『はいはい』
『信じてない?』
『信じてません』
遼太は笑った。
でも、本当だった。
百華のことを可愛いと思っていた。
今までは、女の子を褒めることなんて何とも思わなかった。
相手が喜ぶ言葉を選べばいい。
それだけだった。
でも百華には、言葉が出てこないことがあった。
何を言えばいいのか分からない。
どうすれば振り向くのか分からない。
そんな自分が、少し怖かった。
*
夏休みが近づいた。
サークルでは飲み会や遊びの予定が増えた。
遼太も何度か誘われた。
昔なら、女の子がいると聞けば迷わず行っていた。
でも最近は、予定を確認する癖がついていた。
百華が来るのか。
そういうことを気にしている自分に気づいて、遼太は苦笑した。
ある日、みのりに言われた。
「先輩、最近変わりました?」
「何が?」
「遊ばなくなった」
「そう?」
「前はもっと女の子と一緒にいましたよ」
「まあ」
「ももちゃん?」
「……なんで百華ちゃん?」
「分かりやすいから」
「みのりちゃんまで言う?」
「だって本当に分かりやすいです」
「俺、そんなに?」
「はい」
遼太はため息をついた。
「百華ちゃんは?」
「何がですか?」
「俺のこと、どう思ってる?」
みのりは少し考えた。
「面白い先輩」
「それだけ?」
「たぶん」
「……そっか」
「でも、嫌いではないと思います」
「それ、恋愛とは違う?」
「全然違うと思います」
遼太は苦笑した。
「だよな」
*
夏休み。
大学で会うことは減った。
連絡は続いていた。
けれど、実際に顔を合わせることは少なくなった。
そのせいか、遼太は以前より百華のことを考えるようになった。
会えないと、会いたくなる。
連絡が来ないと、気になる。
別の男と話しているのを見ると、少し嫌だと思う。
ここまで来て、遼太はようやく認めた。
自分は百華が好きなのだ。
それも、今までとは違う。
遊びではない。
付き合ってみたい、という軽い気持ちでもない。
ちゃんと、自分を好きになってほしい。
そう思っていた。
*
夏休みの終わり。
久しぶりにみのりと百華と会った。
「遼太さん、久しぶりです」
「久しぶり」
「焼けました?」
「ちょっと」
「夏休み何してたんですか?」
「普通に遊んでた」
「女の子と?」
「なんでそこ聞くの」
「遊び人だから」
「百華ちゃんまでそれ言う?」
「だって有名ですもん」
「みのりちゃんのせいだ」
「私のせいじゃないですよ」
三人で笑う。
その日、百華はいつも通りだった。
遼太に近づきすぎることもない。
遠ざかることもない。
何も変わっていない。
変わってしまったのは、遼太のほうだった。
*
秋。
大学の学園祭が近づき、サークルも忙しくなった。
みのりは毎日のように準備に追われていた。
百華はサークルに入っていないため、直接関わることはなかったが、友達としてみのりを手伝いに来ることが増えた。
その日も、百華は大学に来ていた。
遼太が教室から出ると、廊下の端に百華がいた。
「百華ちゃん」
「遼太さん」
「今日来てたんだ」
「みのりの手伝いです」
「そっか」
少し話す。
そのとき、別の男子学生が百華に声をかけた。
「花井さん」
「あ、はい」
「この前言ってたやつなんだけど」
「ああ、あれ?」
二人が話し始める。
遼太は少し離れたところで待った。
相手の男は百華と同学年らしい。
楽しそうに話している。
百華も笑っている。
それを見ているうちに、遼太の胸の奥がざわついた。
嫌だった。
自分でも驚くほど。
やがて男が去っていく。
「遼太さん?」
「ん?」
「どうしました?」
「……何でもない」
「さっきから怖い顔してますよ」
「してない」
「してます」
百華が顔を覗き込む。
「もしかして嫉妬?」
「……」
「え?」
百華が笑う。
「冗談です」
その言葉に、遼太は初めて笑えなかった。
「百華ちゃん」
「はい?」
「冗談、やめない?」
「……」
百華が少し驚いた顔をする。
「ごめんなさい」
「いや、怒ってるわけじゃない」
「じゃあ?」
遼太は少し考えた。
「俺が困る」
「何で?」
「……分かんない?」
「分かりません」
百華は本当に分からないという顔をしていた。
遼太は目を逸らした。
「なんでもない」
そう言って、その場を離れた。
百華はしばらくその背中を見ていた。
*
その日の夜。
百華からメッセージが来た。
『今日、ごめんなさい』
『何が?』
『冗談言ったこと』
『別にいいよ』
『怒ってます?』
『怒ってない』
『ほんと?』
『ほんと』
少し間が空いた。
『遼太さん』
『ん?』
『もしかして、私のこと好きですか?』
遼太は長い間、画面を見つめた。
いつもなら、
『どうだろ』
とか、
『だったらどうする?』
と返すところだった。
でも、その日は違った。
『うん』
送信した。
既読がつく。
返信が来ない。
一分。
二分。
三分。
遼太はスマホを置いた。
そして、すぐに通知が鳴った。
『……本気ですか?』
『本気』
しばらくして、
『ごめんなさい』
その文字を見た瞬間、胸が痛くなった。
『謝らなくていいよ』
『でも』
『百華ちゃんが悪いわけじゃない』
『私、遼太さんのことそういうふうに見てなかったです』
『知ってる』
『今も、分からないです』
『うん』
『だから、すぐ答えられないです』
『分かってる』
そこで会話は終わった。
遼太はスマホを置いた。
不思議と、後悔はなかった。
怖かったけれど。
それでも、言ってよかったと思った。
*
翌日。
大学で百華に会った。
「おはようございます」
「おはよう」
二人とも、少しだけぎこちなかった。
みのりは何も知らないらしく、いつも通り話している。
百華も普通に笑っていた。
でも、遼太には分かった。
昨日までとは違う。
百華も、何かを意識している。
それが嬉しいような、苦しいような、不思議な感覚だった。
*
それからしばらく。
遼太は百華に無理に答えを求めなかった。
連絡をする。
話す。
一緒に歩く。
以前と同じように接する。
ただ、ひとつだけ違った。
もう、冗談で「好き」とは言わなかった。
百華が思わせぶりなことを言っても、笑って流すだけ。
百華は最初、それを不思議に思った。
「先輩、最近つまんなくなりました?」
「なんで?」
「前なら、もっと乗ってくれたのに」
「百華ちゃんが嫌がるかなと思って」
「別に嫌じゃないですよ」
「でも俺は、もう冗談で言いたくないから」
「……」
百華は黙った。
遼太は笑う。
「ごめん、困らせた」
「いえ」
それ以上、何も言わなかった。
その日から、百華は少しずつ変わった。
遼太をからかうことが減った。
その代わり、遼太のことをよく見るようになった。
サークル帰りのみのりを待っているとき。
講義終わりに偶然会ったとき。
友達と一緒にいるとき。
遼太は以前と変わらない。
誰にでも優しい。
誰とでも話せる。
でも、自分に対しては少しだけ距離を置いている。
百華はそれが、なぜか寂しかった。
*
ある日の帰り道。
百華はみのりと二人で歩いていた。
「みのり」
「ん?」
「遼太さんってさ」
「うん」
「本当に私のこと好きなのかな」
みのりが笑った。
「本人が好きって言ったんだから、好きなんじゃない?」
「でも……」
「何?」
「なんか、信じられない」
「なんで?」
「だって、遊び人でしょ」
「そこ?」
「そこ」
「もも、ちゃん、遼太先輩のこと嫌い?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ?」
「……分かんない」
百華は黙った。
「前は、遼太さんが私のこと好きって言っても、冗談だと思ってた」
「うん」
「私も冗談で返してた」
「うん」
「でも今は、冗談じゃないって分かるから」
「うん」
「……どうしたらいいのか分からない」
みのりは少し考えてから言った。
「ももちゃんは、遼太先輩と一緒にいるとき、どう思う?」
「楽しい」
「それだけ?」
「……安心する」
「他には?」
「会えないと、ちょっと寂しい」
「それって結構答え出てない?」
「そうなのかな」
「私はそう思うけど」
百華は黙った。
自分の気持ちを考える。
遼太が他の女の子と話している。
以前なら何も思わなかった。
今は、少し気になる。
遼太から連絡が来る。
嬉しい。
来ない。
少し寂しい。
冗談を言っていた頃は、こんなことを考えたこともなかった。
でも今は違う。
遼太が自分を本気で好きだと知ってから、初めて自分の気持ちを考えるようになった。
*
学園祭当日。
大学は朝から人で溢れていた。
遼太はサークルの仕事で忙しく動き回っていた。
百華はみのりの手伝いで来ていた。
すれ違ったとき、
「遼太さん」
「お、百華ちゃん」
「忙しそうですね」
「めちゃくちゃ忙しい」
「頑張ってください」
「ありがと」
それだけ。
百華は少し寂しくなった。
前なら、もう少し話してくれた。
でも遼太は、もう自分を追いかけてこない。
答えを急かすこともない。
ただ、そこにいる。
百華はそのことが、逆に気になって仕方なかった。
夕方。
学園祭の片付けが始まった。
百華はみのりを待っていた。
そこへ遼太が来た。
「百華ちゃん」
「はい」
「みのりちゃん、まだかかると思う」
「そうなんですね」
「駅まで送ろうか?」
「……いいんですか?」
「うん」
二人で歩く。
秋の夕方は少し冷えていた。
「遼太さん」
「ん?」
「この前のことなんですけど」
「うん」
「私、考えました」
遼太は黙って百華を見る。
「急がなくていいよ」
「でも、言いたいです」
「……うん」
百華は少しだけ息を吸った。
「私、最初は本当に何とも思ってなかったんです」
「うん」
「遼太さんのこと、面白い人だなって思ってただけ」
「知ってる」
「だから、冗談もいっぱい言いました」
「うん」
「でも、遼太さんが本気だって分かってから、なんか変になって」
「変?」
「遼太さんが他の女の子と話してると嫌だし」
遼太が少し目を見開く。
「連絡来ると嬉しいし」
「……うん」
「会えないと寂しいし」
百華は少し笑った。
「たぶん私も、遼太さんのこと好きなんだと思います」
遼太はすぐに言葉を返せなかった。
「……たぶん?」
「だって、まだ分からないこともあるから」
「そっか」
「でも」
百華が遼太を見る。
「遼太さんと一緒にいるの、好きです」
遼太は小さく笑った。
「それなら十分じゃない?」
「そうですか?」
「うん」
「じゃあ……」
百華が少しだけ照れたように笑う。
「これから、ちゃんと知っていってもいいですか?」
「もちろん」
その返事だけは、迷わなかった。
*
付き合い始めてからも、二人の関係は劇的には変わらなかった。
大学で会えば話す。
連絡を取る。
一緒にご飯を食べる。
百華は相変わらず冗談を言う。
「遼太さん、私のこと好きすぎません?」
「好きだけど」
「……」
「何?」
「それ、前みたいに流してくれないんですか?」
「もう彼女だから」
「そういうところずるい」
「百華ちゃんが言わせてるんじゃん」
「そうですけど」
百華は笑う。
遼太も笑う。
以前と同じような会話。
でも、意味は全然違った。
*
ある日、講義が終わった。
遼太はいつものように教室を出る。
少し離れたところに、百華がいた。
友達と話している。
初めて見つけたときと、同じ光景だった。
あの日も、遼太は百華を見ていた。
ただ名前を知らなかった。
話したこともなかった。
それなのに、なぜか気になった。
今は違う。
百華が遼太に気づく。
「あ、遼太さん」
「ん?」
「帰ります?」
「帰る」
「じゃあ一緒に行きましょう」
「うん」
二人並んで歩き出す。
百華がふと笑った。
「そういえば」
「何?」
「私たち、最初に会ったとき、遼太さんずっと私のこと見てましたよね」
「……見てない」
「見てました」
「覚えてるの?」
「覚えてますよ」
「なんで?」
「なんか、目が合ったから」
「そっか」
「遼太さん」
「ん?」
「最初から気になってたんですか?」
遼太は少し考えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「うん」
「じゃあ、最初から好きだった?」
「それは違う」
「なんで?」
「まだ百華ちゃんのこと何も知らなかったから」
「じゃあ、いつ好きになったんですか?」
「分かんない」
「えー」
「気づいたら」
百華が笑う。
「先輩らしくないですね」
「何が?」
「もっと上手いこと言うと思ってました」
「百華ちゃん相手だと無理」
「どうして?」
「何言っても冗談にされそうだから」
「もうしませんよ」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
二人で笑った。
大学の門を出る。
夕方の街に、二人の影が並んで伸びている。
遼太はその横を歩く百華を見る。
初めて見つけたときとは、何もかも違う。
あの頃は、ただ気になった。
今は、隣にいてほしいと思う。
百華が笑う。
「遼太さん」
「ん?」
「今日、ご飯何食べます?」
「何でもいいよ」
「じゃあ私が決めます」
「お願いします」
「嫌いなものあります?」
「特にない」
「じゃあ、ちょっと高いところ行きましょう」
「急に?」
「彼女なんだから、たまにはいいでしょ?」
「……そういうこと言うようになったね」
「何ですか?」
「いや」
遼太は笑った。
「嬉しいなと思って」
「ふふ」
百華も笑った。
昔なら、ここでまた冗談を言っていた。
けれど今は、言葉にしなくても分かる。
あの日、講義終わりに少し離れた場所にいた女の子。
ただ目に入っただけだった。
名前を知って。
話すようになって。
からかわれて。
振り回されて。
いつの間にか、本気になっていた。
遼太はもう、昔のように恋愛を軽く考えることはできなかった。
そして百華も、もう「冗談です」と笑って逃げることはしなかった。
二人の間にあるものが、冗談ではなくなったから。
それだけで十分だった。
並んで歩く二人の距離は、最初の日よりずっと近くなっていた。
そして今度は、どちらも離れようとはしなかった。




