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冗談じゃ、なくなるまで

作者: 莉璃翠
掲載日:2026/09/17

講義が終わる。


教授が教室を出ていくと同時に、張りつめていた空気がほどけるように、あちこちから話し声が上がった。


一ノ瀬遼太は、机の上に置いていたスマートフォンを手に取った。


時刻を確認する。


今日はこのあとサークルがある。


特に急ぐ必要もないが、二限の講義を終えたばかりの教室は人が多い。さっさと出たほうがいいだろう。


そう思って席を立ったときだった。


「遼太先輩」


後ろから声をかけられた。


振り返る。


「ん?」


そこにいたのは、同じサークルの後輩だった。


「あ、みのりちゃん」


「お疲れさまです」


「お疲れ。どうしたの?」


「先輩今日サークル来ます?」


「行くよ。たぶんいつも通り」


「よかった」


 みのりはそう言って笑った。


 遼太も軽く笑い返す。


 特に意味のない、いつもの会話。


 そのはずだった。


 けれど。


 遼太の視線が、ふとみのりの後ろに向いた。


 少し離れたところ。


 肩にかけたバッグを持ち直しながら、こちらをみている。


 遼太は、さっきの講義中にもその子を見ていた。


 何度か。


 別に意識していたわけではない。


 ただ、視界に入る位置にいたから。


 それだけだった。


「先輩?」


「ん?」


「どうしました?」


「いや」


 遼太はみのりに視線を戻した。


「なんでもない」


「そうですか?」


「うん」


 そう答えたものの、また一度だけ女の子を見る。


 その瞬間。


 目が合った。


 ほんの一秒。


 遼太が軽く会釈すると、女の子も少しだけ頭を下げた。


 遼太は、その子を見ながら言った。


「みのりちゃん」


「はい?」


「あの子、友達?」


「え?」


 みのりが振り返る。


「ああ、ももちゃんです」


「ももちゃん?」


「はい。花井百華。一年生です」


「へえ」


 名前を聞いただけなのに、妙にしっくりきた。


 花井百華。


 遼太は頭の中で一度だけ繰り返す。


「知り合い?」


「私は仲いいですよ。待っててくれてるんです。大学入ってから友達になって」


「ふーん」


「先輩、気になります?」


「別に」


 反射的に答えた。


 みのりが少し笑う。


「今、めっちゃ見てましたけど」


「見てないって」


「見てましたよ」


「だから、なんとなく」


「なんとなく?」


「うん」


 遼太は笑ってごまかした。


「なんか、見たことある気がしただけ」


「同じ講義なんですからみたことはあるでしょ」


「そっか」


 そう言いながら、遼太はもう一度だけ百華を見た。


 今度は目が合わなかった。


 「じゃ、先輩。また後で」


 遼太はその後ろ姿を見送った。


 ただそれだけだった。


 この時は。


     *


 サークルに着くと、すでに何人か集まっていた。


「遼太、お疲れ」


「お疲れ」


 適当に挨拶を交わしながら、遼太はいつもの場所に座った。


 みのりも少し遅れてやってきた。


「お疲れさまです」


「お疲れ」


 みのりは友達と話しながら荷物を置く。


 その姿を見て、遼太は何気なく聞いた。


「あの子は?」


「あの子?」


「花井百華ちゃん」


「あ、ももちゃん?」


「うん」


「ああ、ももちゃんはサークル入ってないですよ」


「あ、そうなんだ」


「はい」


「じゃあここには来ないんだ」


「来ないと思います」


「そっか」


 それだけ言って、遼太はスマホを見た。


 みのりが少しだけ不思議そうな顔をする。


「先輩、ももちゃんと話したことないですよね?」


「ないよ」


「ですよね」


「なんで?」


「いや、名前覚えるの早いなと思って」


「さっき聞いたばっかだから覚えてただけ」


「ふーん」


「何、その顔」


「別に?」


 みのりが笑った。


 遼太は肩をすくめる。


 自分でも、なぜ百華のことを聞いたのかよく分からなかった。


 ただ、気になった。


 それだけだった。


     *


 それから数日。


 遼太は大学内でたびたび百華を見かけるようになった。


 同じ学部らしい。


 講義もいくつかかぶっている。


 いつも前のほうにいるわけではない。


 かといって、後ろでもない。


 友達と並んで座っていることもあれば、一人でスマホを見ていることもある。


 遼太は別に話しかけるつもりはなかった。


 ただ、目に入る。


 そして、目に入るたびに思う。


 ――今日もいる。


 自分でも少しおかしいと思った。


 女の子なんて、大学にいくらでもいる。


 これまでだって、たくさんの女の子と話してきた。


 高校時代もそうだった。


 大学に入ってからは、さらに増えた。


 本気で付き合うことはなく、ほとんどが遊びで終わっていた。


 どちらにしても、遼太にとって恋愛はそこまで難しいものではなかった。


 相手が自分に好意を持っているから遊ぶ。


 楽しくなくなったら終わる。


 それだけ。


 だから、女の子のことでこんなふうに「気になる」と思うこと自体が、はじめてだった。


     *


 ある日の講義終わり。


 遼太が教室を出ようとすると、またみのりに声をかけられた。


「遼太先輩」


「お、みのりちゃん」


「今日サークル行きます?」


「行くよ」


「じゃあ一緒に行きましょう」


「いいよ」


 歩きながら話していると、少し前に百華がいるのが見えた。


 みのりも気づいたらしい。


「ももちゃん!」


 みのりが手を振る。


 百華が振り返った。


「みのり」


「今帰る?」


「うん」


「じゃあ一緒に駅まで行こ」


「いいよ」


 百華がこちらに歩いてくる。


 近くで見ると、講義中よりも少し印象が違った。


 思ったより表情が豊かだった。


「こちら、サークルの遼太先輩」


 みのりが紹介する。


「一ノ瀬遼太。二年生です」


「一年の花井百華です」


「知ってる」


 遼太が言うと、百華が少し目を丸くした。


「え?」


「みのりちゃんから聞いた」


「ああ」


 百華は笑った。


「じゃあ、私も知ってます」


「俺のこと?」


「はい」


「どこで聞いたの?」


「いろんなとこで」


「何聞いたの?」


「いろいろです」


「いろいろ?」


「でも秘密です」


「みのりちゃん?」


 遼太がみのりを見る。


「え、私何も悪いこと言ってないですよ?」


「ほんと?」


「ほんとです」


 百華が横から口を挟む。


「でも、一ノ瀬さんって結構有名ですよ」


「それ良い意味?」


「どうでしょう」


「怖いな」


「ふふ」


 百華が笑った。


 遼太も笑う。


 初めてちゃんと話したのに、妙に会話がしやすかった。


 変に緊張している感じもない。


 百華は男と話すことに慣れているのだろう。


 距離の取り方も自然だった。


「百華ちゃんって、サークル入ってないんだっけ?」


「はい。今のところは」


「じゃあ大学終わったらすぐ帰るタイプ?」


「そうでもないですよ」


「そうなの?」


「友達とご飯行ったりしますし」


「へえ」


「先輩は?」


「俺?」


「サークル以外何してるんですか?」


「普通に友達と遊んだり、バイトしたり」


「彼女は?」


 突然、百華が聞いた。


「いないよ」


「へえ」


「何、その反応」


「いや、いると思ってました」


「なんで?」


「なんとなく」


 百華は笑った。


「一ノ瀬さん、モテそうだから」


「まあ、それなりに?」


「自分で言うんだ」


「だって嘘じゃないし」


「じゃあモテる人なんですね」


「百華ちゃんもモテそうだけど」


「私?」


「うん」


「どうかな」


「どうかなって」


「普通ですよ」


「普通の人はそんな聞き方しないでしょ」


「どんな?」


「彼女いるんですか、とか」


「ああ」


 百華は少し考えてから、にこっと笑った。


「じゃあ、私が一ノ瀬さんの彼女になってあげましょうか?」


「……」


 一瞬、遼太が黙った。


 百華はすぐに笑う。


「冗談です」


「ああ……」


「先輩、今ちょっと本気にしました?」


「してない」


「ほんとですか?」


「ほんと」


「顔固まってましたよ」


「急に言うからでしょ」


「ふふ」


 百華は楽しそうに笑った。


 みのりが横で呆れたように言う。


「ももちゃん、そういうこと言うから」


「だって面白いから」


「俺で遊んでない?」


「ちょっとだけ」


 遼太も笑った。


 それで終わるはずだった。


 百華にとっては。


 でも遼太は、その日の夜になっても、あの言葉が頭に残っていた。


 ――私が一ノ瀬さんの彼女になってあげましょうか?


 もちろん冗談だ。


 分かっている。


 百華自身が「冗談です」と言った。


 それなのに。


 なぜか、その一言だけが妙に残った。


     *


 それから、二人で会うことが増えた。


 正確には、遼太と百華が二人で会うわけではない。


 みのりがいる。


 講義終わりに三人で駅まで歩いたり、みのりの友達を含めて何人かでご飯を食べたり。


 呼び方も「一ノ瀬さん」から「遼太さん」に変わった。


 その程度だった。


 けれど、その「程度」の時間が、遼太にとって少しずつ大きくなっていった。


「遼太さん」


「ん?」


「今日、眠そうですね」


「昨日寝るの遅かった」


「何してたんですか?」


「ゲーム」


「子どもみたい」


「百華ちゃんだってゲームするでしょ」


「しますけど」


「じゃあ同じじゃん」


「私はちゃんと寝ます」


「えらいね」


「子ども扱いしてます?」


「一年生だから」


「二年生だからって偉そう」


「一個上だぞ」


「一個だけじゃないですか」


「その一個が大きいんだよ」


「じゃあ敬語やめていいですか?」


「……それはちょっと寂しい」


「なんでですか?」


「なんとなく」


 百華は笑った。


「じゃあ、もうちょっとだけ敬語にしときます」


「ありがと」


 そんな他愛もない会話。


 何度も繰り返した。


 百華はよく笑った。


 よく冗談を言った。


 そして、遼太に対して遠慮がなかった。


「遼太さん、女の子に慣れすぎ」


「そう?」


「そうですよ」


「百華ちゃんも慣れてるじゃん」


「私は普通です」


「普通の女の子は男の先輩にあんなこと言わないって」


「あんなことって?」


「彼女になってあげましょうか、とか」


「ああ」


 百華が笑う。


「まだ気にしてるんですか?」


「別に」


「じゃあ、もう一回言いましょうか?」


「いいよ」


「私、遼太さんのこと――」


「はい、そこまで」


 遼太が手を上げる。


「どうせまた冗談でしょ」


「よく分かってますね」


「分かるよ」


「さすが遊び人」


「……誰から聞いた?」


「みのり」


「みのりちゃん……」


「だから悪いこと言ってないって」


 みのりが笑う。


 百華も笑う。


 遼太も笑った。


 でも。


 その「遊び人」という言葉だけが、妙に胸に引っかかった。


     *


 ある日、遼太はみのりと二人でサークル帰りに歩いていた。


「遼太先輩」


「ん?」


「ももちゃんと仲良くなりましたね」


「そう?」


「最初、あの子誰って聞いてたじゃないですか」


「ああ」


「最近、ももちゃんの話ばっかりですよ」


「そんなしてないって」


「してますよ」


「……」


 否定しようとして、やめた。


 たしかに。


 最近、百華の話をすることが増えた。


「百華ちゃんって、彼氏いるの?」


 気づけば聞いていた。


 みのりが横目で遼太を見る。


「いないと思いますけど」


「思う?」


「最近は聞いてないので」


「そっか」


「気になります?」


「……まあ」


「好きなんですか?」


「まだ分かんない」


 みのりが黙った。


 遼太は苦笑する。


「そんな顔すんなよ」


「いや」


「何?」


「先輩がそういうこと言うの珍しいなって」


「俺もそう思う」


「でも、ももちゃんですよ?」


「どういう意味?」


「いや、ももちゃんって、先輩みたいな人には結構手強いと思います」


「俺みたいな?」


「遊び人」


「その言い方やめて」


「でも本当じゃないですか」


「まあ……そうだけど」


 遼太は空を見上げた。


「だからこそ、なんか気になるのかも」


「何が?」


「俺のこと、全然警戒してないところ」


「警戒してますよ」


「してないだろ」


「してます」


「どこが?」


「先輩が本気で近づいたら、百華ちゃん逃げると思います」


 その言葉に、遼太は少し黙った。


「……本気で近づいたら?」


「はい」


「なんで?」


「百華ちゃん、先輩のこと信用してないから」


「そっか」


 遼太は、それ以上聞かなかった。


     *


 百華は遼太のことを嫌いではなかった。


 むしろ好きだった。


 ただし、それは恋愛的な意味ではない。


 話していて楽しい。


 からかうと面白い。


 変に気を遣わなくていい。


 そんな先輩だった。


 だから、百華はよく冗談を言った。


「遼太さん、私のこと好きですよね」


「はいはい」


「否定しないんだ」


「百華ちゃんがそう言うなら」


「じゃあ付き合います?」


「百華ちゃんがいいなら」


「え、先輩ってほんとに付き合えちゃうんですか?」


「冗談だろ」


「ばれました?」


 いつもそんな調子だった。


 百華は遼太が自分に本気になるなんて思っていなかった。


 遼太の周りには女の子が多い。


 それに、みのりから聞いた話では、今ほどではなくても昔はかなり遊んでいたらしい。


 そんな人が、自分一人に本気になるなんて。


 考えたこともなかった。


 だからこそ、何も考えずに冗談を言えた。


     *


 六月の終わり。


 雨が降っていた。


 講義が終わるころには、外はかなり強い雨になっていた。


「最悪」


 百華が窓の外を見ながら呟いた。


「傘ない?」


 遼太が聞く。


「持ってないです」


「今日雨って言ってたじゃん」


「朝は晴れてたんですよ」


「天気予報見なかったの?」


「見てないです」


「じゃあどうすんの?」


「走ります」


「風邪引くよ」


「じゃあ遼太さんの傘貸してください」


「俺は?」


「知りません」


「ひど」


 百華が笑う。


 遼太は自分の傘を開いた。


「駅まで一緒に行く?」


「いいんですか?」


「いいよ」


「じゃあお願いします」


 二人で歩く。


 傘の下は、思ったより狭かった。


 自然と距離が近くなる。


 百華が少しだけ遼太のほうに寄った。


「濡れてない?」


「大丈夫です」


「ほんと?」


「はい」


 しばらく無言で歩く。


 雨音だけが続いていた。


「遼太さん」


「ん?」


「最近、私のこと見てません?」


 遼太の足が一瞬止まりそうになった。


「……見てない」


「嘘」


「なんで?」


「なんとなく」


「百華ちゃん、なんとなく多いね」


「便利ですよ」


「そうだな」


 百華は笑った。


「講義中もたまに目合いますよ」


「……それは」


「何ですか?」


「百華ちゃんが見てるからじゃない?」


「私、そんな見てないですよ」


「じゃあ俺も見てない」


「ふふ」


 百華は楽しそうに笑う。


「先輩って、意外と分かりやすいですね」


「俺が?」


「はい」


「どこが?」


「秘密です」


「またそれ?」


「秘密好きなんです」


 遼太も笑った。


 でも、その夜。


 遼太は眠れなかった。


 百華に「見てません?」と言われたことが、ずっと残っていた。


 自分では隠しているつもりだった。


 けれど、百華には分かっていた。


 ――俺、そんなに分かりやすいのか。


 そう思うと、少しだけ怖くなった。


     *


 七月。


 試験前で、大学全体が少し慌ただしくなっていた。


 遼太も課題に追われていた。


 そんなある日、スマートフォンに通知が来た。


 百華からだった。


『遼太さん』


 それだけ。


 遼太は少し驚いた。


 二人で連絡先を交換してはいたが、百華から直接連絡が来ることは珍しかった。


『どうした?』


 しばらくして返信が来る。


『課題分かんないです』


『どれ?』


『これです』


 写真が送られてきた。


 遼太は内容を見る。


『ここ、こうじゃない?』


『あ、ほんとだ』


『簡単じゃん』


『先輩、頭いいんですね』


『普通』


『じゃあ今度教えてください』


『いいよ』


『やった』


 そこで会話は終わると思った。


 けれど、百華からまたメッセージが来た。


『先輩って優しいですね』


『普通だよ』


『じゃあ私にだけ優しくしてください』


 遼太は画面を見つめた。


 いつもの冗談。


 分かっている。


 なのに、胸が妙にざわついた。


『それ、他の男にも言ってる?』


 送信してから、少し後悔した。


 数秒後。


『どうでしょう』


 そして、


『気になります?』


 遼太はスマホを伏せた。


「……ずるいだろ」


 誰もいない部屋で、思わず呟いた。


     *


 それから百華との連絡は少しずつ増えた。


 課題の話。


 講義の話。


 みのりの話。


 どうでもいい雑談。


 百華はよく遼太をからかった。


『遼太さんってモテるんですよね?』


『まあね』


『じゃあ私なんか相手にしなくてもいいじゃないですか』


『なんで?』


『もっと可愛い子いっぱいいるでしょ』


『百華ちゃんも可愛いけど』


『はいはい』


『信じてない?』


『信じてません』


 遼太は笑った。


 でも、本当だった。


 百華のことを可愛いと思っていた。


 今までは、女の子を褒めることなんて何とも思わなかった。


 相手が喜ぶ言葉を選べばいい。


 それだけだった。


 でも百華には、言葉が出てこないことがあった。


 何を言えばいいのか分からない。


 どうすれば振り向くのか分からない。


 そんな自分が、少し怖かった。


     *


 夏休みが近づいた。


 サークルでは飲み会や遊びの予定が増えた。


 遼太も何度か誘われた。


 昔なら、女の子がいると聞けば迷わず行っていた。


 でも最近は、予定を確認する癖がついていた。


 百華が来るのか。


 そういうことを気にしている自分に気づいて、遼太は苦笑した。


 ある日、みのりに言われた。


「先輩、最近変わりました?」


「何が?」


「遊ばなくなった」


「そう?」


「前はもっと女の子と一緒にいましたよ」


「まあ」


「ももちゃん?」


「……なんで百華ちゃん?」


「分かりやすいから」


「みのりちゃんまで言う?」


「だって本当に分かりやすいです」


「俺、そんなに?」


「はい」


 遼太はため息をついた。


「百華ちゃんは?」


「何がですか?」


「俺のこと、どう思ってる?」


 みのりは少し考えた。


「面白い先輩」


「それだけ?」


「たぶん」


「……そっか」


「でも、嫌いではないと思います」


「それ、恋愛とは違う?」


「全然違うと思います」


 遼太は苦笑した。


「だよな」


     *


 夏休み。


 大学で会うことは減った。


 連絡は続いていた。


 けれど、実際に顔を合わせることは少なくなった。


 そのせいか、遼太は以前より百華のことを考えるようになった。


 会えないと、会いたくなる。


 連絡が来ないと、気になる。


 別の男と話しているのを見ると、少し嫌だと思う。


 ここまで来て、遼太はようやく認めた。


 自分は百華が好きなのだ。


 それも、今までとは違う。


 遊びではない。


 付き合ってみたい、という軽い気持ちでもない。


 ちゃんと、自分を好きになってほしい。


 そう思っていた。


     *


 夏休みの終わり。


 久しぶりにみのりと百華と会った。


「遼太さん、久しぶりです」


「久しぶり」


「焼けました?」


「ちょっと」


「夏休み何してたんですか?」


「普通に遊んでた」


「女の子と?」


「なんでそこ聞くの」


「遊び人だから」


「百華ちゃんまでそれ言う?」


「だって有名ですもん」


「みのりちゃんのせいだ」


「私のせいじゃないですよ」


 三人で笑う。


 その日、百華はいつも通りだった。


 遼太に近づきすぎることもない。


 遠ざかることもない。


 何も変わっていない。


 変わってしまったのは、遼太のほうだった。


     *


 秋。


 大学の学園祭が近づき、サークルも忙しくなった。


 みのりは毎日のように準備に追われていた。


 百華はサークルに入っていないため、直接関わることはなかったが、友達としてみのりを手伝いに来ることが増えた。


 その日も、百華は大学に来ていた。


 遼太が教室から出ると、廊下の端に百華がいた。


「百華ちゃん」


「遼太さん」


「今日来てたんだ」


「みのりの手伝いです」


「そっか」


 少し話す。


 そのとき、別の男子学生が百華に声をかけた。


「花井さん」


「あ、はい」


「この前言ってたやつなんだけど」


「ああ、あれ?」


 二人が話し始める。


 遼太は少し離れたところで待った。


 相手の男は百華と同学年らしい。


 楽しそうに話している。


 百華も笑っている。


 それを見ているうちに、遼太の胸の奥がざわついた。


 嫌だった。


 自分でも驚くほど。


 やがて男が去っていく。


「遼太さん?」


「ん?」


「どうしました?」


「……何でもない」


「さっきから怖い顔してますよ」


「してない」


「してます」


 百華が顔を覗き込む。


「もしかして嫉妬?」


「……」


「え?」


 百華が笑う。


「冗談です」


 その言葉に、遼太は初めて笑えなかった。


「百華ちゃん」


「はい?」


「冗談、やめない?」


「……」


 百華が少し驚いた顔をする。


「ごめんなさい」


「いや、怒ってるわけじゃない」


「じゃあ?」


 遼太は少し考えた。


「俺が困る」


「何で?」


「……分かんない?」


「分かりません」


 百華は本当に分からないという顔をしていた。


 遼太は目を逸らした。


「なんでもない」


 そう言って、その場を離れた。


 百華はしばらくその背中を見ていた。


     *


 その日の夜。


 百華からメッセージが来た。


『今日、ごめんなさい』


『何が?』


『冗談言ったこと』


『別にいいよ』


『怒ってます?』


『怒ってない』


『ほんと?』


『ほんと』


 少し間が空いた。


『遼太さん』


『ん?』


『もしかして、私のこと好きですか?』


 遼太は長い間、画面を見つめた。


 いつもなら、


『どうだろ』


とか、


『だったらどうする?』


と返すところだった。


 でも、その日は違った。


『うん』


 送信した。


 既読がつく。


 返信が来ない。


 一分。


 二分。


 三分。


 遼太はスマホを置いた。


 そして、すぐに通知が鳴った。


『……本気ですか?』


『本気』


 しばらくして、


『ごめんなさい』


 その文字を見た瞬間、胸が痛くなった。


『謝らなくていいよ』


『でも』


『百華ちゃんが悪いわけじゃない』


『私、遼太さんのことそういうふうに見てなかったです』


『知ってる』


『今も、分からないです』


『うん』


『だから、すぐ答えられないです』


『分かってる』


 そこで会話は終わった。


 遼太はスマホを置いた。


 不思議と、後悔はなかった。


 怖かったけれど。


 それでも、言ってよかったと思った。


     *


 翌日。


 大学で百華に会った。


「おはようございます」


「おはよう」


 二人とも、少しだけぎこちなかった。


 みのりは何も知らないらしく、いつも通り話している。


 百華も普通に笑っていた。


 でも、遼太には分かった。


 昨日までとは違う。


 百華も、何かを意識している。


 それが嬉しいような、苦しいような、不思議な感覚だった。


     *


 それからしばらく。


 遼太は百華に無理に答えを求めなかった。


 連絡をする。


 話す。


 一緒に歩く。


 以前と同じように接する。


 ただ、ひとつだけ違った。


 もう、冗談で「好き」とは言わなかった。


 百華が思わせぶりなことを言っても、笑って流すだけ。


 百華は最初、それを不思議に思った。


「先輩、最近つまんなくなりました?」


「なんで?」


「前なら、もっと乗ってくれたのに」


「百華ちゃんが嫌がるかなと思って」


「別に嫌じゃないですよ」


「でも俺は、もう冗談で言いたくないから」


「……」


 百華は黙った。


 遼太は笑う。


「ごめん、困らせた」


「いえ」


 それ以上、何も言わなかった。


 その日から、百華は少しずつ変わった。


 遼太をからかうことが減った。


 その代わり、遼太のことをよく見るようになった。


 サークル帰りのみのりを待っているとき。


 講義終わりに偶然会ったとき。


 友達と一緒にいるとき。


 遼太は以前と変わらない。


 誰にでも優しい。


 誰とでも話せる。


 でも、自分に対しては少しだけ距離を置いている。


 百華はそれが、なぜか寂しかった。


     *


 ある日の帰り道。


 百華はみのりと二人で歩いていた。


「みのり」


「ん?」


「遼太さんってさ」


「うん」


「本当に私のこと好きなのかな」


 みのりが笑った。


「本人が好きって言ったんだから、好きなんじゃない?」


「でも……」


「何?」


「なんか、信じられない」


「なんで?」


「だって、遊び人でしょ」


「そこ?」


「そこ」


「もも、ちゃん、遼太先輩のこと嫌い?」


「嫌いじゃない」


「じゃあ?」


「……分かんない」


 百華は黙った。


「前は、遼太さんが私のこと好きって言っても、冗談だと思ってた」


「うん」


「私も冗談で返してた」


「うん」


「でも今は、冗談じゃないって分かるから」


「うん」


「……どうしたらいいのか分からない」


 みのりは少し考えてから言った。


「ももちゃんは、遼太先輩と一緒にいるとき、どう思う?」


「楽しい」


「それだけ?」


「……安心する」


「他には?」


「会えないと、ちょっと寂しい」


「それって結構答え出てない?」


「そうなのかな」


「私はそう思うけど」


 百華は黙った。


 自分の気持ちを考える。


 遼太が他の女の子と話している。


 以前なら何も思わなかった。


 今は、少し気になる。


 遼太から連絡が来る。


 嬉しい。


 来ない。


 少し寂しい。


 冗談を言っていた頃は、こんなことを考えたこともなかった。


 でも今は違う。


 遼太が自分を本気で好きだと知ってから、初めて自分の気持ちを考えるようになった。


     *


 学園祭当日。


 大学は朝から人で溢れていた。


 遼太はサークルの仕事で忙しく動き回っていた。


 百華はみのりの手伝いで来ていた。


 すれ違ったとき、


「遼太さん」


「お、百華ちゃん」


「忙しそうですね」


「めちゃくちゃ忙しい」


「頑張ってください」


「ありがと」


 それだけ。


 百華は少し寂しくなった。


 前なら、もう少し話してくれた。


 でも遼太は、もう自分を追いかけてこない。


 答えを急かすこともない。


 ただ、そこにいる。


 百華はそのことが、逆に気になって仕方なかった。


 夕方。


 学園祭の片付けが始まった。


 百華はみのりを待っていた。


 そこへ遼太が来た。


「百華ちゃん」


「はい」


「みのりちゃん、まだかかると思う」


「そうなんですね」


「駅まで送ろうか?」


「……いいんですか?」


「うん」


 二人で歩く。


 秋の夕方は少し冷えていた。


「遼太さん」


「ん?」


「この前のことなんですけど」


「うん」


「私、考えました」


 遼太は黙って百華を見る。


「急がなくていいよ」


「でも、言いたいです」


「……うん」


 百華は少しだけ息を吸った。


「私、最初は本当に何とも思ってなかったんです」


「うん」


「遼太さんのこと、面白い人だなって思ってただけ」


「知ってる」


「だから、冗談もいっぱい言いました」


「うん」


「でも、遼太さんが本気だって分かってから、なんか変になって」


「変?」


「遼太さんが他の女の子と話してると嫌だし」


 遼太が少し目を見開く。


「連絡来ると嬉しいし」


「……うん」


「会えないと寂しいし」


 百華は少し笑った。


「たぶん私も、遼太さんのこと好きなんだと思います」


 遼太はすぐに言葉を返せなかった。


「……たぶん?」


「だって、まだ分からないこともあるから」


「そっか」


「でも」


 百華が遼太を見る。


「遼太さんと一緒にいるの、好きです」


 遼太は小さく笑った。


「それなら十分じゃない?」


「そうですか?」


「うん」


「じゃあ……」


 百華が少しだけ照れたように笑う。


「これから、ちゃんと知っていってもいいですか?」


「もちろん」


 その返事だけは、迷わなかった。


     *


 付き合い始めてからも、二人の関係は劇的には変わらなかった。


 大学で会えば話す。


 連絡を取る。


 一緒にご飯を食べる。


 百華は相変わらず冗談を言う。


「遼太さん、私のこと好きすぎません?」


「好きだけど」


「……」


「何?」


「それ、前みたいに流してくれないんですか?」


「もう彼女だから」


「そういうところずるい」


「百華ちゃんが言わせてるんじゃん」


「そうですけど」


 百華は笑う。


 遼太も笑う。


 以前と同じような会話。


 でも、意味は全然違った。


     *


 ある日、講義が終わった。


 遼太はいつものように教室を出る。


 少し離れたところに、百華がいた。


 友達と話している。


 初めて見つけたときと、同じ光景だった。


 あの日も、遼太は百華を見ていた。


 ただ名前を知らなかった。


 話したこともなかった。


 それなのに、なぜか気になった。


 今は違う。


 百華が遼太に気づく。


「あ、遼太さん」


「ん?」


「帰ります?」


「帰る」


「じゃあ一緒に行きましょう」


「うん」


 二人並んで歩き出す。


 百華がふと笑った。


「そういえば」


「何?」


「私たち、最初に会ったとき、遼太さんずっと私のこと見てましたよね」


「……見てない」


「見てました」


「覚えてるの?」


「覚えてますよ」


「なんで?」


「なんか、目が合ったから」


「そっか」


「遼太さん」


「ん?」


「最初から気になってたんですか?」


 遼太は少し考えた。


「たぶん」


「たぶん?」


「うん」


「じゃあ、最初から好きだった?」


「それは違う」


「なんで?」


「まだ百華ちゃんのこと何も知らなかったから」


「じゃあ、いつ好きになったんですか?」


「分かんない」


「えー」


「気づいたら」


 百華が笑う。


「先輩らしくないですね」


「何が?」


「もっと上手いこと言うと思ってました」


「百華ちゃん相手だと無理」


「どうして?」


「何言っても冗談にされそうだから」


「もうしませんよ」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


 二人で笑った。


 大学の門を出る。


 夕方の街に、二人の影が並んで伸びている。


 遼太はその横を歩く百華を見る。


 初めて見つけたときとは、何もかも違う。


 あの頃は、ただ気になった。


 今は、隣にいてほしいと思う。


 百華が笑う。


「遼太さん」


「ん?」


「今日、ご飯何食べます?」


「何でもいいよ」


「じゃあ私が決めます」


「お願いします」


「嫌いなものあります?」


「特にない」


「じゃあ、ちょっと高いところ行きましょう」


「急に?」


「彼女なんだから、たまにはいいでしょ?」


「……そういうこと言うようになったね」


「何ですか?」


「いや」


 遼太は笑った。


「嬉しいなと思って」


「ふふ」


 百華も笑った。


 昔なら、ここでまた冗談を言っていた。


 けれど今は、言葉にしなくても分かる。


 あの日、講義終わりに少し離れた場所にいた女の子。


 ただ目に入っただけだった。


 名前を知って。


 話すようになって。


 からかわれて。


 振り回されて。


 いつの間にか、本気になっていた。


 遼太はもう、昔のように恋愛を軽く考えることはできなかった。


 そして百華も、もう「冗談です」と笑って逃げることはしなかった。


 二人の間にあるものが、冗談ではなくなったから。


 それだけで十分だった。


 並んで歩く二人の距離は、最初の日よりずっと近くなっていた。


 そして今度は、どちらも離れようとはしなかった。

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