いっそうして
バスを降りたら、脇道に入ってのろのろと歩いて十分とちょっと。
久しぶりに見るその家は寂れた田舎に佇む、いかにもな空き家だった。
父親の生まれ育った家で、僕にとってはばあちゃんの家。僕の頭の中に残っているのはずっと小さい頃の盆と正月の記憶ぐらいで、大学生のいまとなってはそれはもう遠い遠い昔のこと。
そこに住んでいた祖父母のこともそこで過ごした時の思い出もだいぶ薄れてしまっていた。
肩にかけているエナメルのスポーツバッグが、ぺたりと腕にはりつく感触。
不快だった。
七月の太陽は真昼というにはまだ早いこの時間でも、ぎらぎらと地上を照りつけている。ほんの十分の道行きで汗を滲ませている僕の体。
服がまとわりつく感覚がまた不快だ。
来なきゃよかったな。
思うけれど、頼まれたのだから仕方ない。
白線のひとつも見えやしない細い道路から、敷地に足を踏み入れる。
右手には小さな畑が広がっていて、雑にセメントで固めた道を進めば前方には木の壁や柱にトタンが継ぎ接ぎされた倉庫が大きく口を開けていて、さらにその先に木造の一軒家が待ち構えている。
道路から遠目に見たのとなんら印象は変わらない、田舎の古びた空き家。
正面で僕を待つのは立派な玄関扉で、視線を上げればごつごつとした瓦が見えて、視線を下げれば子供なら簡単に潜り込めそうな広々とした床下が見えて。
僕らの世代には馴染みのない昭和の家だ。
畑は伸びるに任せた雑草のせいで地面も見えない有り様。
倉庫はカビに浸食されて中に放置された軽トラも白地のところどころが赤茶けて、瓦は毎年の梅雨を経てすっかり苔で緑に染まっていた。
祖母が亡くなったのは九年前。
入院していた期間も長かったから、十年以上この家はずっと空き家だったはずだ。背後に山を抱えていて、敷地の周囲も生い茂る草木に覆われている。放っておけば家ごと呑み込まれてしまいそうな有り様だ。
僕は親から渡されていたカギを取り出し、玄関の扉を開けた。
引き戸。それがまた古臭く思える。
かたかたかた、と特徴的な音を立てて扉は滑らかにスライドした。手に伝わる微弱な振動。この感触は心地よかった。
ふわ、と解放された空気が真正面からぶつかってくる。
埃っぽい。カビ臭い。
当たり前の感想が頭に浮かんだ。
そして、なにより古い。臭いが古いんだ。
それもまた当たり前のことだった。鼻の奥がつんとした。僕は派手に咳き込む。
――浄めないといけない。
こんな状態だからそうする理由があるわけで。人が住んでいて掃除が行き届いているのなら僕がこうしてこの家を訪れる必要はなかった。
七月二十九日。夏休み。
大学生の夏休みは一生の内でも一、二を争うぐらいに自由な時間だと言えるかもしれないけれど、僕のような四年生の学生に限ってはそうじゃなかった。
就職先が決まっていない。
それがすべてだ。一言で説明がつく。
三年生の終わり頃から就職活動をずっと続けているもののいまだ内定は貰えず、どうにか挽回するためがむしゃらに頑張ろうにもなにをどう頑張ればいいのかもわからず。
内定を複数貰った友人たちと顔を合わせるのも気まずくて、幸か不幸か単位の方はしっかりと余裕を持って取れている僕は出歩くこともせずに家でなにをするでもなくぼんやりしている時間も多くなっていた。
だが、そんな僕の様子は母からすれば単に暇そうにしている大学生にしか見えていなかったらしい。
『お父さんの実家のお浄めに行ってよ』、そう言われた僕は反発することもなくその言葉に従った。
暇じゃあない。
けれども、家にいたところでなにかするでもない。
だったらやることがあるだけマシかも。あの時の僕はそんなことを一瞬で考えたのかどうか、ほんの数日前のことだが自分でももう覚えていなかった。
ともあれ、僕はいまこうしてここを訪れている。
スニーカーを脱ぎ、玄関の異様に高い上がり框を、よいせ、と上がる。
子供の頃は両手をついてよじ登っていたのを不意に思い出した。外に出る時は三和土に飛び降りる感覚で、ちょっとしたアスレチックだった。膝を擦りむいた記憶もたくさんある。
一歩入ると埃っぽさよりも湿気の方が気になる。
瓦に打ちつけた雨が梁だとか桁だとかに浸透していって家全体を湿らせているような、そんな風な気がした。
あくまで素人考えだ。本当にそうなっていたらとっくに家自体が潰れているだろうけれど、それぐらい湿気が充満している。
目の前のガラス戸を開けて、すぐそこの部屋に入る。三方を襖に囲まれた畳敷きの部屋。
踏み入れた足に、ぐに、と沈み込むような感触。
また湿気だ。いや、ただ古いだけか。どちらにせよ気持ちいいものじゃないのだけは確かだった。
――これは浄めが必要かも。
なおさらそう思う。
埃が積もっていて湿気も籠っていて、それで、よくないものも溜まっている。だから、浄めないと。
誰も住んでいない家は、一年に一度すべての戸や窓を開け放って風を通さなければいけない。
そうすると家の中に溜まってしまったよくないものを、吹き抜けていく風が運んでいってくれる。
風によって家を浄める。そういう習わしだった。
経験はないけれど、知識だけはある。
祖母が亡くなって以降誰も住むことがなくなったこの家を、年に一度浄めてきたのは母だった。
いまと同じ、夏のこれぐらいの時期にひとりでここを訪れていた。
『風浄を怠れば、あの家はもう人が近寄れるようなものじゃなくなる』、とかなんとかいうことを母も父もたびたび言っていたのを覚えている。
風浄をしないと瘴気だか邪気だかよくわからないが、なにかよくないものが溜まっていくということらしい。
玄関の戸は開けたまま、ガラス戸もそのまま。
スポーツバッグをその場に下ろしてから僕は台所へと向かった。
そう広い家でもない。台所があって床の間があって、別で畳を敷いた部屋が三部屋。あと、比較的新しいトイレがひとつ。
元々は風呂とトイレは家じゃなく倉庫の方に造られていた。風呂はいまもそのまま残っているが、高齢になった祖父母がいちいち外に出るのは面倒だということでトイレだけあとから母家側に増設されていた。
襖を開けてひとつ部屋を抜け、ガラス戸を開ければそこはもう台所。やはり狭くて小さい家だ。
台所だけは板敷きだった。
勝手口の扉を開ける。だん、と外の壁に扉がぶつかった。三和土には土で汚れたサンダルが片方だけ落ちている。
それを扉の下に差し込んで全開したままの形で固定した。
台所は少しだけ面倒だ。勝手口にシンクにコンロ、それらの上に小窓がいくつもついている。
背伸びをして腕を伸ばしひとつひとつ開けていく。見落としがあったらいけない。
終わったら、他の部屋へ。床の間以外の部屋を順に巡っていく。
大きな掃き出し窓がついているのでそれもすべて開けていく。途中、廊下にあるものも開けていく。玄関に勝手口に、窓。家の中と外との出入り口になる箇所がすべて解放される。トイレのドアも開け、中に入って小窓も開ける。
それを終えればあとは、襖だ。
僕は端の部屋から作業に取り掛かった。襖は開けるんじゃなく、外す。風の通りをよくするために一面取っ払ってしまう。外したものは壁や柱に立て掛ける。
なかなかの重労働だが、勝手がわかっていれば手こずるほどでもない。
そこまでやれば、もうお終いだ。
すぐに終わってしまった。取りあえずは。
スマホで時間を確認する。午前九時半。僕はバッグを持って床の間の中央に腰を下ろした。
やはり畳は不安定な感触を返してくる。嫌だな、と思うけれど仕方がない。文句を言う相手もいなかった。
僕は今日ここで一晩を明かさないといけない。
家中の戸や窓を開け放っておいて、そうして二十四時間が過ぎるのをひとりで待つ。そうしてから戸も窓も元通りに閉める。
それが風浄の段取りだった。明日の朝の九時半を迎えてまたこの家を閉め切るまでが僕の仕事だ。そうすれば浄めは完了。また一年の間はこの建物にはよくないことは起こらない。
これから二十四時間。スポーツバッグの中にはコンビニで買ったパンに飲み物、寝る時のための大きめのタオルケット、そして暇を潰すための小説や漫画などが入っている。
ネットも届いていないし電気も止めてあるこの家で丸一日を過ごすとなると、暇潰しの道具もこんなものぐらいしか用意できない。
畳の上に半分に折ったタオルケットを敷いて寝転がる。なにもせずにただ時が過ぎるのを待つだけの時間だ。僕は適当に取った小説を開いて読み始めた。
戸や窓を開けていても家の中を風が通る感覚はほとんどなかった。床の間は家のほぼ中央に位置しているから風の通りは一番いいはずなのに。
熱気と湿気の不快感を味わったまま、僕は黙々と小説を読み進めた。
時折、学校のチャイムの音が遠くで聞こえた。バス停のちょっと向こうに小学校があるからだ。夏休みで子供はいない。チャイムの音、それと車が走る音が微かに。
葉が風でそよぐ音も聞こえてきた。さわさわと、これも微かな音。
家の中はまるで無風なのに外はよく風が吹いているらしい。そんなことを思いながら、僕はひとりで中身のない時間を過ごしていた。
そうやって暇潰しの道具を一巡し終えた頃、日がだいぶ傾いているのに気づいた。
時刻を確認すれば、午後の七時を過ぎている。まだ明るい内に、と僕は手早くささやかな夕食をすませた。水だけは止められていないことを確認しつつトイレに行って用を足して、そうしてまた寝転がった。
二十四時間のうち、およそ十時間が過ぎた。
見上げた天井には用をなさない電灯がぶら下がっている。そこから垂れ下がっている紐の先端を見つめながら、どうにか夜はぐっすり眠らせてくれ、と願う。
まだあと十二時間以上。暇潰しすらできない暗闇の中で時が過ぎるのを待つのは御免だ。眠ってしまえば残りの時間は一瞬で過ぎていく。
どうにかぐっすり、深く長く眠ってくれ。自分自身にそう願いながら、僕はぼんやりと紐を見ていた。ぼんやりと。
……ふと、僕は瞼を開けた。視界が一段と暗くなっている。いつの間にか意識が飛んでいた。ずっと文字を追っていて目が疲れているのか、瞳の奥がじんじんとしている。
ふあ、と欠伸が出る。
眠い。どうやら僕の願いはすんなりと叶ってくれそうだった。
眠気は十分。妙な邪魔でも入らなければぐっすり朝まで眠れるだろう。目をこすり重たい体を起こして、念のためトイレで用を足しておく。
万全だ。日が昇るまで僕は起きない。それでいい。ふあ、とまた欠伸をして瞼をこすり、僕は寝転がった。眠い。ちゃんと眠い。
瞼を閉じる。視界が黒に染まって、すぐに僕の意識はまた飛んでいく。
うるさい。
声が聞こえてきた。でも、声じゃないような気もした。
暗闇。瞼は閉じている。僕はまだ眠っている。寝転がったまま。体を横に倒して体を丸めている体勢だった。右の耳はタオルケットに埋もれていて、左の耳が天井を向いている。その左の耳に聞こえてくる。
たくさんいる音だ。テレビをつけたままうとうとしている時のような、わいわいと誰かが会話しているような音が聞こえていた。
でも、声じゃなかった。声じゃないけれど、たくさんいる。音が聞こえる。
ごそごそと音がする。
衣擦れ。
足音。
そんな音。
家が鳴る。きしきしと上がり框が軋んだ。
ぎぃ、と寄りかかられた柱が呻くように鳴った。
しゅっ、と畳が擦れた。
うるさい。家が鳴らすきいきいとした音が畳を通じて右の耳に届く。
左の耳には、がやがやとした集団の音。瞼を閉じたまま僕は音に耳を傾けた。
ぺた、と畳を足の裏が踏む。
にち、と足が離れる。
にちにちと、湿った足は畳を汚していく。
「ねてるか」
息が止まった。
自分で止めたのかもしれない。左耳に、声が囁きかけてきた。
「ねてるか」
声だけが聞こえた。
息はかからない。気配もない。耳に声だけが飛び込んでくる。
近い。
それに、うるさい。
音はまだ鳴りやんでいない。ずっとずっと聞こえてくる。
衣擦れ。
足音。
なにかが家の中を通っている。
ぞろぞろと、のろのろと。
どん、と三和土に着地する音が聞こえる。
玄関から、勝手口から、掃き出し窓から。四方八方から好き勝手になにかが入ってきて、出ていく。
ひたひたと、台所の床をなにかが歩く。
かたかたと、ガラス戸が小さく揺れる。
なにかが家の中を歩き回っている。なにかが耳に囁いてくる。
これが風浄なのか。
僕はぎゅっと目を閉じたままだった。家を風が通り抜けるんじゃないのか。これが風なのか。人ではないなにかなのは確かだった。
それぐらいはわかった。
「ねてるか」
声がまた聞こえる。
これこそ、なんなんだろうか。他の音とは違うのか。
それは声だ。音じゃなく、明確な意味を持った声であり言葉。
こんなことは聞かされていない。
こんな声のことも音のことも、母は一言も言わなかった。
いまこうして置かれている状況が当たり前のものか異様なものか、わからない。判断できない。
風浄はこういうものか、なにか妙なことになっているのか。僕はいまどうなっているのか。
目を閉じ、身を固くする。なにかまずいことになっていたら、どうしたらいい。なにもわからない。僕はなにも知らない。言われたことをやっただけだ。
家を開け放ったら、あとは待つだけ。
僕にできることはなにもない。けれど、僕はそこでひとつの可能性に気づいてしまった。もしかしたら、やってしまったのかもしれない。
眠る直前にトイレに行った時、僕はちゃんとドアを開けたままにしていただろうか。
気づいた。
すう、と血の気が引く感覚があった。
用を足したあと、普段そうしているから当たり前のようにドアを閉めたような気がする。いや、そこは用心して開けたままにしたような気も。でもそれは一回目にトイレを使った時の記憶かもしれない。
この家のトイレを使った時のことを思い出す。
二回目は寝ぼけたような状態だった。早く眠ってしまいたいと思っていたからドアなんて閉めないか。
いや、普通に生活していたらドアを閉めるものだから、その時も普段通りに無意識に閉めたかもしれない。
わからない。
確かめたい。
でも、そんなことができるわけがない。
目を開けるどころか身じろぎひとつしたくなかった。目の前になにかがいてもおかしくない。周囲をびっしりとなにかに囲まれていてもおかしくない。
耳に囁いてくるなにかもすぐそこにいるはずだ。
僕はただ待つしかできない。夜になりこの家も周囲もすべてが暗闇に落ちてしまったいま、僕はもう待つしかできなかった。
やるべきことは日が出てるうちに終わらせた。
そのはずだ。そういうものだ。戸や窓をすべて解放するだけ。
風浄はそれだけのことだった。なにか間違いをする余地なんてない簡単なものだ。
僕は間違ったのか。失敗したか。
違う。
きっとできてる。
違うんだ。
ドアは開いたままだ。
これは普通のこと。
僕はやるべきことをやれている。
そうだ。
自分に言い聞かせるように、僕は必死に頭の中で主張する。
「おきたか」
また、息が止まった。
遅れて、ひゅ、と喉を息が通った感覚がした。音もした。
恐怖なのか現実逃避なのか、僕は考えることを放棄した。全身に鳥肌が立つのがわかった。
寝ろ。
寝ろ。
寝ろ。
僕は言い聞かせる。
寝ろ。
それしかない。すべて無視する。放棄する。なるようになれ。僕にはなにもわからない。なにもできない。時が過ぎるのを待つしかない。為すがまま。されるがまま。
意識は、また飛んでいく。
すっかり日が昇っている。
どこかでスズメが鳴いている。学校のチャイムが遠くから聞こえてきた。車が道路を走る音も。
僕は目を覚ました。床の間、タオルケットの上。
長い長い眠りから覚めた。
見た。トイレのドア。
開いている。ちゃんと開いたままになっていた。閉めてなんていない。
僕の顔は濡れていた。
汗が噴き出していてぬるぬるとしている。服もタオルケットも、ぐっしょりと濡れている。汗を吸ってすっかり重たくなっていた。
もう八時を過ぎていた。
僕は顔を洗って、しばらく家の中をウロウロと歩き回った。
どこにも変化はなかった。野生動物の足跡で汚れているとか葉っぱが吹き込んでいるとかそう言ったことも確認できなかった。
ぎしぎし、きいきい、ぺたり。
歩き回れば、音が鳴る。
昨日聞いたような音が、僕が動くたびに鳴った。家だけじゃなく僕自身にもなにも変化はなかった。汗で濡れて不快なだけで特別気分が悪くなったということもない。
あれは夢だったのか、現実なのか。
異様な体験だった。けれど、家の方はそんな様子を欠片も感じさせなかった。
初めに入った時に感じた湿気も随分と薄れているしカビ臭さも気にならなくなっていた。陰鬱さや不気味さはどこにもない。
そうこうしているうちに九時半を過ぎ、僕は予定していた通りに襖や窓を閉めにかかった。
台所の小窓に勝手口、もちろんトレイの窓とドアも閉めて、十分程度で素早く終わらせた。長居は無用だ。
バッグに荷物を詰めて、僕は玄関を出た。
かたかたかた、と戸を閉めてカギをかける。
風浄はこれで終わりだ。この家は浄められた。これから一年、何事もなくここにひっそりと佇むことになるのだろう。
僕は家をあとにした。
家の外観も傍に立つ倉庫も、手入れされていない庭も荒れた畑もすべて昨日ここへ来た時と変わりない。
風浄の効果はあったのか、僕の目からはなにもわからなかった。
けれど、家の中の空気が変わっているように感じたのは事実だった。
それが風浄によって浄められたおかげか、単に換気をしたからなのかはわからない。昨夜の音と声がなにを意味するものだったのかも。
僕はバス停に向かって歩いた。体が重たかった。
ぐっしょりと濡れた服はまだ完全には乾いていない。太陽は眩しくて、アスファルトからは熱気がむんむんと立ち昇っている。
のろのろと、僕は足を進める。
家に帰ろう。帰って、そうして……そうだ、また悶々と日々を過ごす。
そう。僕はなにも変わっていない。風が吹けば家は浄められる。これから一年の無事が約束されて、よくないものはすべて家から消え去った。風浄で、あの家は確かに変わっていた。なんて簡単なことだろう。
遠くにバス停が見えた。僕は重たい体をゆらゆらとさせながら歩き続ける。
風は、どこにも吹いていない。
僕の体はじっとりと濡れている。




